「月のありか」

 

 秋も深まりゆくころ。

夜になると月の光が街を明るく照らしてくれる。

 そんな街のわずかな暗がりの中を歩く一人の男がいた。

ガチャン

「ふぅ、もう結構冷え込んできたもんだな。こういう日はあったかいコーヒーにかぎる……あっちち!」

 自動販売機の取り出し口に手を突っ込んで一人でもだえ苦しむ青年。

彼の名は、藤森 勇輝(フジモリ ユウキ)。

今、彼の身の回りで数奇な運命が動き出そうとしていた。

 

★第一章 文化祭二日前

 

「それじゃ、後のことはお願いね」

「いいこと? 例外なんて普通は認められないんだから、早めに帰ってくるようにね」

「わかってますよ」

「あ、それと、くれぐれも期限に遅れないように。遅れたらどうなってもしらないわよ」

「は〜い。それじゃ、いってきます」

 

「ふあぁ〜ああぁあ。今日もねむぅござんすのぅ〜」

「何いってんだ? 藤森」

 近くにいた友人が勇輝に声をかける。

「あいや、なんでもないよ。はよっす」

 これが勇輝の、いや、彼ら学生の毎朝の姿である。

徒歩、自転車、バス、電車。様々な手段を使い、様々な生徒が集う。

それがここ、私立風水高等学校(カザミ)である。

 この学校は、生徒の自立と自由をモットーとしている。

そんな方針からか、この学校の部活動には一風変わったものが多く存在する上に、

運動部の文化祭への出展まで認めている。

 一見、はちゃめちゃに見えるかもしれないが、これがこの学校の気風であり、

生徒らは皆、この雰囲気に憧れて入学してくるのだ。

 勇輝が校門を抜けたところで、一人の女生徒が声をかけてきた。

「おっはよ〜、ユウ!」

「おぅっす! 色葉」

 いきなり勇輝に声をかけてきたこの女生徒は、篠崎 色葉(シノザキ イロハ)。

勇輝と同じ学校に通う。二人ともが高校二年生である。

色葉はちょうど勇輝の16センチぐらい下の背丈。

 この二人は幼馴染で、小学校のころからいつも登下校を一緒にしていたぐらいの仲である。

今年、またも同じクラスになって勇輝のほうはいいかげん飽きがくるというが、色葉は相変わらず嬉しそうであった。

「も〜う、またポケットに手ぇ突っ込んで猫背で歩いてる! そんなんじゃ目つき悪いのが余計に人に悪印象を与えちゃうよ〜」

「へっ、勝手にしろってんだ。人間はなぁ、外見じゃなくて中身で勝負するもんなんだよ」

「でも、第一印象悪かったらモテるものもモテないよ」

「うるせぇな! 最近のキャーキャーやかましい女どもはな、外見で人の好き嫌いを選んで自分の偶像にして楽しむんだろ? ついてけるかよ」

 勇輝の身長は176センチ。スラリと伸びた脚。顔立ちも悪くはない。

見方によれば、『かっこいい』といえなくはないだろう。

それがなぜ、このような態度をとるのか。理由はこのような彼の考え方にあるようだ。

「それだからみんなユウの魅力に気付かないんだよね。ま、いいか。ユウの魅力に気付いてるのは、私だけなんだから」

「ん? なんかいったか?」

「えっ、ううんううん、何も!」

「? そ、そうか? ならいいけど」

 精一杯の色葉の愛情表現も、鈍感な勇輝には伝わらないようである。

「うん、いいの! それよりユウ、あさってから文化祭だよ。楽しみだね」

「はぁ、俺はまだそんなには立ち直れねぇなぁ」

「? ユウ、何かあったの?」

「何かあったの? じゃねぇだろ。まったく、お前の切り替えの早さには恐れ入るよ」

「ん、よくわかんないけど、私はユウの前ではいつだって元気だからね」

 ニコッと色葉が満面の笑みを浮かべる。

「じゃ、ユウ、また後でね〜」

 そういって、手を振りながら校舎へ走っていく。

「はぁ、あんなことがあった次の日だってぇのに、よくあいつはあんなにも元気でいられる」

 今日の勇輝は気分が優れない。

それもあの事件のおかげだ。

あの事件、それは、昨日の夕方に学校で起こった事件のことだ。

屋上にいた女生徒が何らかの事故でグラウンドに落下、そのまま即死。

幸いにも、目撃者はいなかったため、具体的な事件のありさまを知ってもっと気分を悪くすることは避けられたが、自分の学校の生徒がつい昨日死んだのである。気も触れようものである。

 勇輝は、こういった『死』に関する話がすごく苦手で、殺人事件のニュースを聞いただけでも吐きそうになるのだ。

ましてや同じ学校の、ましてや同級生の死。

こうして平常心を保っているだけでやっとなのだ。

「それにしても、これがうちの学校の気風ってやつか? 皆すでに和気あいあいとしてやがる。昨日のことなんかケロッと忘れたかのように」

 死亡現場は歩いていてすぐ見える位置にあるのだが、すでに吐き気がしてきているので、見ないようにして急いで教室に向かった。

 

 放課後。平凡な時間。

本来ならば、どのクラス、どのクラブも文化祭の準備に取り掛かっていて忙しい時期である。

もちろん今、勇輝がいるこの教室もクラス総動員で文化祭の準備をしているところだ。

 しかし勇輝はそんなことには興味が湧かなかった。

ただ、机に座ってボーっと空を眺めていた。

 すると、そこに色葉がやってきた。

「ちょっと! ユウも少しは手伝いなさいよ!」

 動かない勇輝に対しいいかげんにしびれを切らした色葉が激を飛ばす。

「るせぇなぁ。文化祭ったって、所詮うちは喫茶店だろ? そんなに大人数いらないだろ?」

「そういって何人も帰るんだから! ユウは手伝ってよ?」

「はぁ? 誰が手伝ったりするかよ。」

 そういって椅子から立って歩き出す勇輝の腕を色葉がつかむ。

「あ、どこ行くの?」

 その目には明らかに「サボるなよ」光線が含まれていた。

「……ちょっと散歩に行ってくるだけだ。絶対下校の時間になったら戻ってくるよ」

「絶対だよ?」

「あぁ、一緒に帰るぞ」

「うんっ」

 またとびきりの笑顔を見せる色葉。

たちまちクラス中から声が飛び交う。

「ヒューヒューゥ。お熱いねぇ、いつもいつも」

「藤森君も色葉の気持ちにいつになったら気づくんだろうねぇ?」

「永遠に気付かないんじゃない?」

「案外、藤森もまんざらじゃなかったりしてな、ははははは」

 そんな声を聞いて、色葉はただただ頬を赤く染めるだけだった。

 

 校舎から出て、グラウンドを歩く勇輝。ただし、落下現場にだけは近づかないようにした。

気がつくと、夕日があたる校舎の壁にもたれかかりながら、水泳部の練習する様をじぃっと見ていた。

(そういえば、昨日死んだ女子、水泳部員だって誰かがいっていたな)

 勇輝は今でこそ部活動には無所属だが、中学のころは水泳部で頑張っていた。

実際の成績も、そこそこのものであった。もう一頑張りすれば、県大会に挑めるぐらいのものは持っていた。

ところがある日、勇輝は水泳の練習中に足をもつれさせて溺れ死にそうになった。

何とか命は取り留めたものの、そのとき勇輝は『死』を実感したような気さえしたのだった。

 以来、水泳も止めたし、何かスポーツを誘われてもかたくなに断ってきた。

大抵はそこで諦めてしまうのだが、一人だけなおも諦めずに、しかも水泳を勇輝にさせようとする男がいた。

「げ、やべ」

 その男と目が合ってしまった。

その男とは、水泳部の男子部部長、本郷 章(ホンゴウ アキラ)。

その巨体で、水をどかすような勢いで泳ぐパワースイマーだ。

現在男子の自由形で県記録を保持している兵(つはもの)である。

その兵がなぜ勇輝をしつこく勧誘しているかというと、出身中学が勇輝と同じなので、彼の持ち味を直に知っているからである。

勇輝を自分の下において育てれば、風水高校は県大会制覇も夢じゃない。

そう思わせる泳ぎが、中学のころには確かにあった。

だからこそ、本郷はそんなにもしつこく勇輝を勧誘するのである。

 そしてそれは今回においても変わることはない。

「おっ、藤森。ちょうどいいところに」

「わ〜、来た来た。来たよぉ〜」

 勇輝は逃げようかとも思ったが、時すでに遅かった。

がっしと腕をつかまれてしまった。

「ちょうどいいところに来たァ! 今ものすごいことが起きているんだ。お前も見に来い。そうすればお前も、水泳に目覚めるだろう」

「……あの、すみません、本郷先輩。俺……水泳再開する気、ないッスから」

「んなこたァどうでもええわ! とにかく見ていけ! 本当にすごいから!」

 部長がそれほどまでにいうほどすごいことが起きているのか。

なら一体どれだけすごいことが起きているか見に行ってやろうじゃないか。

そう思い、勇輝は本郷に引っ張られるまま、プールサイドへと上がっていった。

ザバァ!

 急に聞こえる水しぶきが、勇輝の中の昔の感覚を蘇らせる。

(クソッ。俺だって、嫌でやらねぇわけじゃない。怖いんだ、水が……)

「ホレ、あれだ。みてみぃ」

 本郷に指差された方向を見る勇輝。

その方向には、一人のスクール水着姿の女生徒の姿が確認できた。

「あの人がどうかしたんですか?」

「いいから、黙ってみておれ!」

 ちぇ、と舌打ちして勇輝は再び彼女のほうを見る――

と同時に、すでにその女生徒は宙を舞っていた。

 その一瞬、いや、それからその女生徒が泳ぎ終わるまで、勇輝の目にはその一連の動きがコマ送りのように映った。

(しなやかな体の伸び、自然な手のかき、無理のない脚の動き……どれをとっても完璧……)

ザバァ!

 泳ぎ終わった女生徒がプールから出てくる。

すると周りにいた部員たち(主に女生徒)が一斉にその場に集まる。

「すごいじゃない! みさき、また新記録だよ!」

「…ハァ、ハァ…タイムは?」

「えっとね……」

 観衆の中の、さっき泳ぎきった女生徒にだけ、みさきと呼ばれた女生徒にだけ目を向ける勇輝。

(それに……泳いでいた時のあの前を見る顔…体とシンクロして動く手足…なんて美しいんだ)

 勇輝の中に、みさきと呼ばれた女生徒への第一印象として、近寄りがたく美しいお嬢様のような印象が芽生えた。

「どうじゃ!? あれをみてお前の中のスイマーがうずいてきただろう! さ、これを機会にこの入部申込書にサインを……」

「本郷先輩、あの娘、誰です?」

「ん? やっぱりお前も気になるか。彼女こそが、我が水泳部が誇るグレイトスイマー、剣 みさき(ツルギ ミサキ)嬢だ!」

「剣……みさき……」

 勇輝が彼女の名前をつぶやくと、当の本人が勇輝に向かい歩き始めた。

そして、勇輝の前で歩を止めた。

「………」

 勇輝の顔をじっと見つめる顔は、凛としていて神々しささえうかがえた。

「あ、あぁ、あ…」

 勇輝は何を言ったらいいかわからず、しどろもどろとしてしまった。

正直、間近にこんなにも美しい顔が置かれて、緊張しているのである。

 しばらく勇輝の顔を観察したみさきは、今度は本郷のほうを向く。

「部長さん。この人が、いつも部長さんがいっていた人?」

「ん?あ、あぁ、そうだが」

 そして今度はまた勇輝のほうを向き直る。

「ふ〜ん、あなたがあの噂の、溺れて死にそうになって水泳を怖がってる弱虫さんなのね」

「!!」

 突然みさきの口から出た挑発的でかつ皮肉的な言葉は勇輝の胸にしっかりと突き刺さった。

「お、おい、剣! わしゃ何もそこまではいっとらんぞ!」

「わかっていますよ。これは私の勝手な見解だもの」

 その顔には、余裕の表情すらも浮かんでいた。

「……き、貴様…」

「何? 弱虫さん。そんなに悔しいの? 弱虫っていわれたことが。なら、汚名を返上してみせたらどう? ここはプールなんだから、泳いでみせるくらい、簡単よね?」

 今の勇輝は、激しい怒りの炎に燃えていた。

「上等だァ! やってやるよッ!」

 このとき初めて、勇輝はみさきに怒った顔を見せた。それは同時に、初めて平然とした顔以外の顔を見せたことにもなる。

「ッ!!」

 その瞬間、みさきは勇輝から何かを感じ取った。

それが何かは勇輝にはわからないし、そんな気配にすらも感付いていなかった。

 

 そして今、勇輝は飛び込み台の上にいる。

(要するに、50メートル泳いでみせりゃあいいんだろ? いくら鈍ってるとはいえ、そんぐらいなら!)

「クスクス、本当に大丈夫なの? あの人、何年も水泳やってないんでしょ?」

「きっと強がってるだけだって。本当はへっぴり腰で動けなかったりな」

 まわりの水泳部員たちの喧噪が絶え間なく聞こえる。

(クソッ、どいつもこいつもバカにしやがって! …………!!)

 勇輝が固まってしまった。

「どうした、藤森? ここで復活を見せてくれるんじゃなかったんかい」

「部長さん…。彼、本当にそんなにすごかったんですか?」

 みさきが勇輝に関する質問をする。

「ふむ。中学のころの切れ味は相当良かったと思うぞ」

「ふふ……そうですか」

 心なしか、みさきはわずかに微笑んでいた。

「い……行く!!」

 勇輝が今、飛び込む――はずだった。

飛び込み台の上にいたときのポーズのまま、宙を舞う、というよりは、台から落ちていったといったほうが正確である。

ドッポーン

ザブッ バシャァッ

 勇輝がプールから顔を出す。

「……くっ、くそっ!!」

 その一瞬後、プール中が笑い声で溢れたことはいうまでもない。

(俺が…足が震えて飛べなかったなんて……)

 情けなさそうにしている勇輝のところに、みさきがやってきた。

勇輝が見上げると、みさきが手をこちらへ伸ばしてきている。

「大丈夫? 上がれる?」

 夕日が濡れた髪に輝いて、なんともいえない美しい光景だった。

「ちっ…。次は負けねぇからな」

「水に入れただけでも上出来だと思うけど」

「俺はあんなのじゃ満足しない」

「水恐怖症はもういいの?」

「あんたにのせられて、どうでもよくなっちまった」

「それはそれは」

「あんた、いい奴だかやな奴なんだか……」

「自分でもどっちなのか迷ってるわ」

「ははは、おもしれぇ奴だ! …ぃよし、本郷先輩。」

「ん? なんじゃ?」

「明日も来て、いいですか?」

「入部してくれるか?」

「くっ……」

 すぐこれだ。この先輩はもう……。

そう思いながらも、このみさきとの決着をつけずには気の済まない勇輝だった。

「ま、体験入部ということで」

「上等だ。歓迎しよう」

がしっ

 本郷と握手を交わす勇輝。

これがまた、彼の新たな出発、そして数奇な運命のめぐり合わせの結果ともいえる。

どちらにせよ、これでやっと一日が終わる。

文化祭まで、あの二日……………。

<第一章        了>

★第二章 文化祭前日

「初日からまた随分と、やってくれたわね〜」

「ごめんなさい。でも楽しかったの」

「まぁ、いいわ。残された時間はまだまだあるけど、いい? 時間内に探さなきゃならないのよ? わかってるでしょうね?」

「そ、それはもちろん。あははー」

「はぁ、ほんとにわかってんだか。じゃ、今日もいってらっしゃい」

「うぃ、いってきま〜す」

 

 今日の風水高校はすべての授業を中止し、文化祭準備にあてている。

したがって、勇輝たちは朝から延々と明日のための準備や打ち合わせなどをしなくてはならないのだ。

 しかし勇輝にはそれが面倒でたまらなかった。

普段夜更かししているため、彼の睡眠時間の大半は学校の授業中なのである。

もちろん授業がないのだから存分に寝ればよかろうというものだが、まわりが準備だの用意だのに明け暮れている中では、うるさ過ぎて眠れないのである。彼にとって授業中は先生の声とチョークの音がちょうどいいララバイに聞こえるいわば絶好のスリープタイムなのである。

それに何より、クラスの皆が頑張っているというのに自分だけが寝ているなんていうのは、気がひけるのである。

なら何か手伝えばよいのだが、勇輝はいかんせん多人数で何かをするのを嫌うため、こうして机にひじを突いて窓からプールを眺めているのであった。

 プールを見てみると、水泳部が練習をしている。

この学校での文化祭で運動部が出展するものといえば、大抵が簡単なものであるのが定番である。

たとえば喫茶店であったり、ラーメン屋であったり、ワッフル屋であったり。

そのため、用意が簡単なので、ほとんどの運動部はこうして文化祭直前まで各々の練習をするのである。

それも、文化祭中は一切の部活動を禁止されているからである。

「水泳部は今日も練習か……」

「え、なに、ユウ、また水泳始めるの?」

「うわっ、い、いたのか、色葉」

「いたのか、とは何よぉ。失礼なんだから」

「あ、いや、悪かった」

(ん? 今日は妙に素直ね)

 いつもとは違う勇輝に少し戸惑いはしたが、色葉はいつもと変わらぬ口調で話し続けた。

「ねぇ、ユウ」

「何だ?」

「水泳、さぁ…。そろそろ始めてみたら?」

「………」

 色葉は勇輝と同じ中学であったので、当然勇輝の水恐怖症の理由は知っている。

だが、色葉にすれば、泳いでいるときの勇輝が一番輝いているのだ。

だからこうして、本郷ほどではないにしろ、彼をもう一度水泳に目覚めさせようと頑張っているのだ。

「水がダメならさ、うちに来ない? 剣道だったら水をかぶる心配もないしさ」

「………」

「ねぇ、ユウ?」

「…いや、もう、水は怖くはないんだ」

 水を怖くなくさせてくれた、そんな女がいた。

今の勇輝は、水への恐怖心よりも、みさきへの対抗心と興味であふれていた。

 容貌・雰囲気だけならばあれだけ美しい、天女といってしまっても構わないくらいなのだが、実際に話してみるとあれだけ憎たらしく鬱陶しく、だけど憎めない奴。

そんな彼女に、勇輝はささやかな好奇心さえ抱いていた。

「ホント!?」

「あぁ、本当だ」

 そういってまた昨日と同じように立ち上がる。

「え、ユウ、どこ行くの?」

「……散歩」

「あ、あぁ、そうか。散歩か〜」

 勇輝の考えることが未だよくわからない色葉は、首を傾げるばかりだった。

 

 今日の勇輝の愛想の悪さには、理由があった。

その理由とは、水泳部にある。

とりあえずみさきを黙らせる、という意味でも、みさきに近づく、という意味でも、勇輝は水泳部に今日も接触する手段を探していた。

いくら昨日、体験入部にこじつけたからといって、今は文化祭準備期間だ。

そうやすやすと半部外者を練習させてくれるほど暇な部活は多くない。

 しかし、窓からプールを眺めていて、今日でも練習していてかつ、その練習に本郷とみさきが参加している今ならば自分をプールに入れてくれるだろうと思ったわけである。

 そして勇輝はプールサイドのフェンス前にやってきた。

「本郷先輩〜!」

 フェンス越しに大きめの声で呼ぶ。

それに気付いたらしく、泳ぐ順番を後ろの部員に譲り、本郷はフェンスのところまでやってきた。

「おぉ、藤森! 今日はどうした?」

「いや、今日も泳がせてもらおうかと思って」

 いいながら、飛び込み台の上にたつみさきを見据える。

本郷もそれに気付く。

「ほぅ、やはり剣が気になるか。あいつならお前の中に眠るスイマーソウルを蘇らせてくれると信じていたのだ」

「はい。すっかり呼び覚まされてしまいましたよ」

「ふむ。よし、よかろう。着替えて準備運動して、空いてる場所にでも入って、適当に泳いでろ」

「え、でも……」

 勇輝は普通に泳ぐのさえままならない自分が、他の部員の邪魔にならないかを心配した。

だが本郷はそれをすでに見透かしているようだった。

「案ずるな。他の部員にはお前の事情をすでに説明してある。まともに泳げるようになるまで、水遊びでも何でもしてろ」

「…どうも、ありがとうございます、先輩」

 自分のことをわかっていてくれるというのは、心地よかった。

確かな満足感を抱えながら、勇輝は更衣室へと向かった。

 

 今日数回目の飛び込み台の上に立つ美少女が一人。

「みさき〜、今度こそいけるわ。記録更新よ!」

「頑張れ〜、みさき〜」

 ギャラリーから様々な応援が飛ぶ。

各部員たちは、それぞれの練習を手放してまでみさきの泳ぎを見ている。

本来ならばこういうときは部長である本郷が皆を練習に集中するよう促さねばならないのだが、本郷自信がみさきの泳ぎにすでに見入っているのでプールはもう誰にも止められないみさきの一人舞台となっていた。

(もうそろそろ時間が押しているからね……。泳げるのも最後かな? なら、最後に記録を叩き出して見せる!)

 みさきがぶわっと華麗なフォームで飛び込むと、ギャラリーから歓声が起こった。

「おぉ、すげー!」

「きれいだなぁ…」

 皆、それぞれが勝手な感想を思い、中には口にしている者もいる。

しかし当の本人であるみさきは、何としても今回で記録を出そうと必死に泳いでいる。

(あと20! もう少し!)

 みさきがそう思った瞬間――

目の前に黒い物体が存在していた。人の頭だ。

「――!?」

ゴッチーーーーーン

 慌てて避けようとするが、すでに間に合わず衝突してしまった。

「!!!!」

 プールサイドに、鈍く大きな音が響いた。

 

「いっつつつつぅ……。頭が割れそうだ…」

「それはこっちの台詞よ! どれだけびっくりしたと思ってるのよ!」

 勇輝とみさき。ぶつかったもの同士プールサイドの日陰でそろって頭を冷やしている。

「なんだよぉ、俺はただ水に慣れようと思ってのんびりと浮いてただけじゃねぇか。そこにあんたが突っ込んできたんだろ」

「どぅ考えたってあんたのほうが悪いでしょうがぁ!」

「なんで?」

「もう、折角記録が出ると思ったのに」

 みさきがふてくされた。

そんな表情は第一印象とは違い、可愛いものがあると思う勇輝。

「ま、頭冷やしてからもっかい挑戦するんだな」

「今日はもうだめなのよ」

「なぜ?」

「今日はもう、必要以上の体力を使ってしまったから、帰らないと……」

「ははは、おもしろいこというな、あんた。体力の回復を待ったら……」

「それじゃだめなのよ!」

「?」

 不可解な言葉に首を傾げる勇気。

(この〜、折角記録出ると思ったのに〜。何か仕返ししてやらないと気が済まないわね〜)

 みさきの頭に邪心が入った。

「ねぇねぇ、あんた!」

「……俺はあんたじゃねぇ。藤森 勇輝って名前がある」

「そんなら私にだって剣 みさきっていう名前があるんだからさ、名前で呼んでよ」

「あぁわかったよ、みさき」

 そういってから、勇輝は初めてみさきの名を呼んだことに気が付く。

時はすでに遅い。勇輝は『みさき』という音を口にしたことが恥ずかしくてしょうがなかった。

「でさぁ、勇輝」

 さらに名前で呼んでくるみさき。

勇輝はこの恥ずかしさに耐え切れなくなりそうだった。

「な、なんだよ」

「明日もさぁ、泳ぎたくない?」

「え? そりゃぁ泳ぎたいが、明日から文化祭で部活動は禁止だろ?」

「二人で部長さんに頼み込めば何とかしてくれるって」

 二人、という言葉に勇輝は微妙に快感を覚えてしまっていた。

二人だけで水泳。それも悪くはない。

それに早いところみさきとは勝負の決着をつけなくてはならない。

バカにされたままでは悔しすぎる。

 でも、あの部長がそう簡単に事を進めてくれるとは思わなかった。

「そ、そんなこと、簡単に頼めるかよ」

「頼むる頼める。勇輝が正式に入部さえすれば、部長さんも有頂天になって即OKくれるよ」

 それを聞いて勇輝は背中を押された気分になった。

「ん、よし。わかった、水泳部に正式に入部するよ。それで……みさき…との勝負に決着もつけられるしな」

「え? 勝負? 何それ?」

「おい、お前が先にいったんだぞ。俺に泳いで見せろって」

「え、あんなの、もういいよ。だってもう、水に入れるでしょ?」

「それじゃダメだ!みさきの前できちんと泳いでるとこ見せてやるから!」

「あ、うん……わかった」

「そうと決まれば早速入部だ」

「あ、うん」

 ひたむきな勇輝にちょっとだけ罪悪感を感じてしまうみさき。

(でもまぁ、いいよね。私に満足に泳がせてくれなかった、ほんのお返し)

「部長さ〜〜〜ん」

「ん、おう! 何だ、剣。それに藤森まで。二人そろってどうかしたんか?」

「あ、先輩、実は俺、正式に水泳部に入部させてもらおうかと……」

がしっ

「え?」

 勇輝の両肩に、本郷の両手のひらがたたきつけられた。

じ〜んと痛みが伝わってくる。

(い、痛い……)

「よくいってくれた! 藤森よ! この忙しい時期に人材が増えるとは願ったり叶ったりじゃ!!」

「で、明日のことなんスけど……」

 いいかけた勇輝の言葉をさえぎり、本郷の口が開いた。

「よ〜ぅし! 今日の練習はここまでだ! 明日から3日間使わないから当番はしっかりと掃除しとけよ。当番以外の奴はこれから明日のための最終準備と打ち合わせじゃァ!」

「えっ? えっ?」

 戸惑う勇輝。

本郷が彼のほうを向き直り、にこやかに話し掛ける。

「よし! 藤森にも存分に力仕事を手伝ってもらうからな!」

「よかったね! 正式に入部、おめでとう!じゃ、私、掃除当番だから」

「って、おい!!」

がしっ

 勇輝はみさきの腕をつかんで無理矢理に引っ張っていった。

「ちょ、ちょっと。どこ行くのよ?」

 勇輝はみさきをプールサイドの隅の薄暗い物陰に連れ込んだ。

どんっ

 みさきが逃げられないように両手で閉じ込め、壁に対しよつんばいになった。

「な、なによ? どうする気? こんなところに連れ込んで。強姦でもする気?」

「にやけながらんな冗談いうな!」

「ひゃん」

 みさきは驚いたように体をひねってみせた。

「あのなぁ、さっきのぁいってぇどぉゆぅつもりでぇ?」

「ゆ、勇輝ィ、キャラ変わってるって」

「いいから答えろ」

 勇輝の目がすわっていた。

「もう、いいじゃない。どうせ正式に入部してればいつか勝負できるでしょ」

「そ、そりゃまぁ、な」

「だったらいいじゃない」

 ぽん、と肩をたたかれる。

(いいのか、俺? こんなんで許しちまって)

「じゃ、私、掃除あるから〜」

 そそくさと立ち去ろうとするみさき。

「……あ、ちょっと待った」

「何? まだ何かあるの?」

「ずっと気になってたんだが、ここの部員っていうのは、つい一昨日に同じ部活の仲間が死んでしまっているってぇのになんでこんなにも元気で明るく振舞えるんだ?」

 勇輝はずっと謎に思っていたことをみさきにきいてみた。

思い当たるふしはいくつもあった。ここの部員は、あの事件があったのにも関わらず、元気すぎるのだ。

部長の本郷は士気低下を防ぐための空元気のためと思えるからまだしも、他の部員も全員が和気あいあいとしている。

とても一昨日部員に不幸があった部活などとは思えない雰囲気である。

 みさきはこの質問を受けて一瞬身震いをしたが、すぐに顔を戻していった。

「多分、皆、悲しみを心の底にしまい込んでいるんだよ。決して表に出さないように。皆して泣き出したりしないように。皆、強いからね、この部活の人たちは」

「……」

 そういっているときのみさきの笑顔は、どこか哀しみを含んだような表情だった。

「それにね、皆、元気に振舞っているんじゃないよ。心から、元気で、明るいもの」

 それだけいって、掃除当番の輪の中へ戻っていった。

最後に見せた笑顔は、今にも消え入りそうに弱く儚いものだった。

 

 ようやく、大変な大変な力仕事が終わった。

最後までリタイアせずに頑張ったのは、実に本郷と勇輝の二人だけだった。

「がはは! よく頑張ってくれた、藤森よ。これで安心して明日が迎えられるというもんじゃぃ!」

「……」

「? どうした、藤森! 元気がないぞ、そんなに疲れたのか?」

「本郷、先輩……」

「何じゃ?」

「こんな話、イヤかもしれませんけど、別に答えなくってもいいッスからね」

「なんじゃい、変なやつじゃのぅ」

「あの、一昨日、水泳部の女子部員で亡くなった人って、誰なんです?」

「何ィ?」

「あ、いや、その、別に興味本位できいてるんじゃなくって、その……」

 死んでもなお、その存在が皆にあんなにも元気を与えてくれる。

一体、どんな人だったんだろうと思ったのである。

 しかし、本郷の口から出た台詞は、意外なものであった。

「何をいっとるんじゃ、藤森! 縁起でもない冗談を!」

「え……?」

「んな冗談ゆうとる暇があったら、お前は一刻も早く水に慣れて泳げるようにならんかぃ! がははは!!」

 そういって本郷は、勇輝を残して帰っていく。

(ちょっと待て! 一体、どうなってるんだ!?)

後に残ったのは、謎ばかりであった。

                             <第二章 了>





★第三章 文化祭1日目

 

「あれでよかったの? 変な約束までしちゃって……」

「う〜ん、どうなんだろ」

「それにしても私が操作ミスする人間がいるなんてね」

「私もあの時はびっくりしたわ」

「でもまんざらでもなかったんじゃないの〜?」

「あ〜、それって責任転嫁っていいません〜?」

「いいのよ、どうせ責任は私にあるんだから。あなたは思う存分に残りの時間を楽しんでくるといいわ」

「うん、ありがとう。本当に、色々と」

「いいのよ、別に。それより、もう半分を切ってるんだから、目的のものはできる限り今日中に見つけるように」

「は〜い」

「ま、遊ぶなとはいいませんがね。私も人のことはいえないから……」

「ふふふ。それじゃ、いってきま〜す」

「いってらっしゃい」

 

 悩める青年がいた。

勇輝は、昨日の晩からずっと思考を張り巡らせてきた。

だが、一朝一夕では人の頭はフル稼働で動いてはくれない。

 でも、勇輝は彼なりに必至になって考えた。

まず、昨日のうちに、本郷にした質問と同じ質問を、教室に戻って色葉や別のクラスメイトに対してしてみた。

ところが、帰ってくる答えは、「知らない」ならまだしも、「何いってんの?」とか、「何の話?」といった感じの回答ばかりだったのである。

先生にも聞いたが、「タチの悪い冗談をいうな」と怒られてしまった。

「……一体、どうなってんだよ…」

 要するにだ。

皆、あの事件のことを忘れているんだか最初から知らないんだかわからないが、あの事件のことを今この時点で知っているのは、勇輝自身と、昨日プールで問い詰めたとき答えてくれたみさきの二人だけということになる。

(でも、絶対におかしいぜ。あの日、あの事件は連絡網でまわされたはずだ。なら、少なくともうちの学校の関係者は全員が知っているはずなのに)

 いくら先生でも、あの怒り方はおかしい。怒るならば、「人の不幸を興味本位で知ろうとするな」ぐらいが適当だろう。先生は、あの事件のことを知っていて当然なのだから。

 なのに、勇輝とみさき以外、誰も事件について知っている素振りもない。

「……」

 ずっと考えていてもしょうがない。

勇輝はそう考えるとすくっと立ち上がり、学校へ行く準備をした。

「ま、このことはあとでみさきにでもきくとして……」

 時計を見る。

緑の光が7:20と指し示す左に、『11・19・01』と映し出されている。

「…今日は文化祭だったな」

 泳げないとわかると、準備していた水泳の用意が入った袋に手をかけることもなく部屋を出た。

 

 今日の風水高校はいつにも増して活気づいている。

そう、今日こそが1年にたった1度の文化部の祭典、文化祭なのである。

すべての文化部が全力を持ってアピール、そして次期へ向けての部員獲得にいそしむのだ。

「はぁ……。今日は一段と騒がしくなるなぁ」

「何いってんの、ユウ」

 教室でまたいつものようにボーっとしていると、色葉がこれまたいつものように声をかけてくる。

いつもいつも、勇輝の思考を突き動かしているのは、色葉の言動だった。

しかし、最近、特にここ二日間は違っていた。

その微妙な変化に気付いていない色葉ではなかった。

 だからこそ、勇輝の異変が心配で、以前にもましてひっきりなしに声をかけているのだ。

「なぁ、色葉」

「うん? 何? ユウ」

「俺の机と椅子はどうした?」

 昨日まで肘をついていた場所がないことを色葉にたずねた。

「あのねぇ〜、ユウがどっかいっちゃうから皆でユウの机移動したんでしょ!」

「なんで移動したんだ?」

「この教室は3-Eの展示会場になっているから」

「何? 聞いてないぞ、そんな話は!」

「ユウがショートの時に寝てて先生の話もろくに聞かないからでしょ!」

「う……」

 悔しいが色葉のいうとおりなので勇輝も反論ができなかった。

「それで、全員の机を視聴覚準備室まで運んだってわけ」

「ふ〜ん、あの無駄に大きい部屋だな?」

「そうそう」

 二人がそんな話をしていると、チャイムが鳴った。

「あ、いよいよ始まるよ! 楽しみだね、ユウ」

 色葉がそういったときには、すでに勇輝は廊下に出ようと戸のところまで歩いていってしまっていた。

「ちょ、ユウ! 当日にまでどこに行くの?」

「その辺ぶらぶらと。どうせ俺がいても邪魔なだけだろ?」

「う〜ん、確かに……」

「そんなはっきりと……」

「あ、ごめんごめん。言い過ぎちゃった」

「はぁ、まぁいいよ。じゃ、行ってくる」

 

 色葉にはああいったものの、勇輝が教室を抜け出した真の理由は、みさきを探すことにあった。

会って、あの日の事件について何か少しでも知っていないかをききたいのだ。

 プールに行けばまた会えるだろう。

勇輝はそう思い、足早に校舎を出て、プールに向かった。

 しかし、そこにはみさきの姿はなかった。

勇輝はたくさんの部員が作業をしている中を抜け、本郷のもとへと歩いた。

「部長」

「ん、おぉ、藤森。今日も元気か?」

「はい、部長も元気そうで。あの、みさ、いや、剣さんは……?」

「剣? さぁ、今日はまだ来ておらんようだが」

「来てない…。そうですか、ありがとうございました、部長」

 それだけいうと、勇輝は踵を返し、プールサイドから出て、みさきを探しに再び校舎内へと入っていった。

(そういや、あいつのクラス知らなかったな。一体どこにいるんだ?)

 しばらく歩いて探していると、文化祭の客も増えていき、流石に探しづらいほどの混雑になった。

(仕方ない、終わるまで待つか……)

 そう決めると、勇輝は階段を上り、屋上へのドアを開けた。

ここで一眠りすれば文化祭が終わっているだろう。探すのはそれからでいい。

軽く、そう思っていた。

 だが、勇輝はドアを開けた瞬間、意外な声を耳にすることになる。

「!……勇輝」

「え? ……なんだ、みさきかぁ。びっくりさせやがる」

「びっくりしたのはこっちよ。なんであんたこんなところにいるのよ?」

「人ごみは苦手、っつうか、嫌いでな。ここでこうして、寝ようと思って」

 いいながら、手ごろな場所でごろんと横になる。

すると、その横にみさきが座った。

「そっかぁ」

「そういうみさきのほうはなぜこんなところに?」

「私? 私もね……人がいっぱいいるの、あんまり好きじゃないの」

 そういったときのみさきの瞳は、遠く彼方の地平線を見つめていた。

その少し悲しげな表情が、勇輝の中で昨日の消え入りそうな笑顔に重なった。

 胸を痛くする勇輝。その痛みと切なさに耐えられなくなり、つい口から声が漏れる。

「お前は、みさきは、何者なんだ……」

「えっ……」

 勇輝のその言葉は、誰に問うでもなく、独り言のようにさえ聞こえた。

そして、みさきは勇輝の言葉に必要以上に驚いた。

「俺をこんなにも不安定な気持ちにさせる…。こんなにも俺の中に余韻を残す、お前は一体……」

 ほのかにみさきのことが好きなのかもしれない。

その気持ちが今、口に出てしまった。

 しかし勇輝は恥ずかしがりも後悔もしていない。むしろ堂々としている。

あの事件についての話など、もう頭の片隅にもなかった。

ここで二人で同じ時間を過ごせる。

勇輝はそのことが嬉しくてしょうがない自分に気付いていた。

「勇輝……」

「風が気持ちいいから、俺は寝るぜ」

「……それじゃ、私はそばにいよう」

「あぁ」

 心地よい風の中、勇輝は眠りにおちていった。

 

 再び勇輝が目を覚ましたのは、すっかり日も落ちてからだ。

目を開くと、眼前には満点の星空が広がっている。

むくっと起き上がってみると、フェンスにくっついて空を眺めている少女が一人。

「みさき」

 名前を呼ぶと、その少女は振り返った。

「勇輝、見て。星が、こんなに綺麗。……まるで、空が落ちてくるみたい」

「やめとけ。それ以上いうとどこぞのニュータイプが騒ぎ出すから」

「えっ?」

「い、いや、なんでもない。……そういや、今みさきが立っている場所ってちょうどあの事件での落ちた場所の推測位置と同じ場所だな」

「!! ……う、うん。そうだね」

「あ、わ、悪い。怖がらせちまったか?」

「ううん、いいの」

「そうか。……なぁ、なんで文化祭、友達とまわったりしなかったんだ?」

「……今、会っちゃうと、別れが寂しくなるから……」

「! おい、お前……」

「私ね、近いうちに遠い場所へ行くんだ。本当はもっと早くに行かなきゃならないんだけど、どうしてもやらなきゃならないことがあって、まだここにいるんだ」

「遠い場所って……」

「ふふ……」

 かすかに笑うと、みさきは屋上を歩き回ってきょろきょろと空を見上げまわした。

そして、彼女の目に大きな円が捕らえられると、勇気のほうへ振り向き、指差していった。

「あそこ」

 みさきが指差したのは、月だった。

「な……こ、こんな時に冗談いうか?」

「ふふ、まんざら冗談でもないよ。それだけ遠いってこと」

「そ、そうか……」

「もうそろそろ私、行かなきゃならないんだ」

「またいつか……会えるか?」

「…………」

「…………」

「保証は、しないけど」

「生きてる限り、必ず、な」

「!……う、うん」

「な、なぁ、今日は……」

「も、もう、行かなきゃ」

 すっと、勇輝の脇を抜けてみさきが走り出した。

「お、おい!」

 すかさず勇輝も走り出す。

二人は、階段を降りて、すっかりと静まり返った校舎内を走る。

(ハッ、ハッ……ど、どこへ行く気だ?)

 ちょうど勇輝のクラスの前を通ったとき、、まだ校舎内に残っている何人かの生徒のうちに、色葉がいたのが見えた。

色葉もまた、勇輝の姿を確認して、すかさず声をあげる。

「ユウ! なにやってんの?」

 叫び、窓から顔を出す。

そこへ勇輝が走り抜け様に前を指差し答える。

「アイツを、追いかけてるんだ!」

 すると、色葉は廊下の奥を眺めて首をかしげた。

「あいつ……? 誰もいないよ?」

「!!!!」

 それを聞いて、勇輝の足がぴたりと止まった。

そして色葉に向き直り、彼女の肩をつかむ。

「お、おい、色葉、お前……アイツが、彼女が見えないのかっ!?」

「わわわ、え、お、女の子、なの?」

 勇輝は驚愕した。

どうやら本当に色葉にはみさきの姿が見えないらしい。

周りにいた生徒も、皆首をかしげていることから、自分以外、みさきの姿が見える者がいないのだ。

勇輝の中で、嫌な予感が渦巻いた。

それを確かめるため、勇輝も再度みさきを追って走り出した。

しかし、みさきを見失ってしまった。

「くっ、どこだ! みさき!」

 今なら頭の回転はすこぶる速かった。

勇輝はとっさにグラウンドに出ると、電気のついている部屋を確認した。

職員室に、自分の教室に……視聴覚準備室! あそこだ! あそこしかない!

 勇輝はそう確信すると、全力で視聴覚準備室まで走った。

バンッ

 勢いよく、そのドアを開ける。

そこには、窓から差し込む月明かりのうち、敷き詰められた机をぬって入ってくる光だけを浴びる少女、みさきがいた。

手には、一冊の本を持っている。

「間に合った……」

 みさきが精一杯に笑いながらいう。

「みさき、なんで、急に走っていったりするんだ……」

「勇輝、ごめん…。もう、会えなくなる……」

「! どうして! さっき、生きていれば必ず会えるって……」

「うん、生きていれば……ね」

「!!」

「うすうす感付いてない? 私は…3日前に死んだはずの人間よ」

 今、勇輝の恐れていた悪夢の予感が、現実のものとなった。

「そ、それって……」

「そうよ。あの事件で死んだのは、この私なの」

「そ、そんな……」

「信じられないと思うけど、本当のことよ。私は一度死んでしまったのだけれど、どうしてもやらなきゃならないことがあってここにいるの」

 屋上でいっていたことの本当の意味がやっとわかる勇輝。

「……月に帰るっていうのは、本当だったのか」

「まぁね」

 まだ疑問はあった。なにをやり残してこの世に残っていたのか。

なぜ勇輝だけがみさきの存在と非存在を同時に認識できていたのか。

だが、勇輝には、「みさきと会えなくなる」ということだけで、頭が一杯だった。

「みさき、いっちまうなよ。一緒に、生きていこう」

「だめ、それはできないわ。私は死者だから。私が戻ればこの世界もあるべき姿、私が死んでいたはずの世界に戻るはずよ」

「そ、そんな、そんなことって……」

「私のことなんか心配しないで。さっきの娘、色葉ちゃんっていうの? 彼女がいるじゃない。もう死んでしまっている私なんかより、あの子を愛してあげて」

「みさき……俺は、お前のことが好きだと思う。愛していると思う! なのに、なんで、結ばれないんだよぉ!」

「ごめんなさい。私が余計なことをしたから」

「お前は……みさきは、これで満足なのかよ?」

「私は、これ、見つけたから」

 そういってみさきは、つかんでいた本を見せた。

「それ……」

 すると今度は、置いてある机を指差していう。

「これ、勇輝の机だよね」

「あ、あぁ」

「これは、生前の私の日記。愛する人への想いが綴られているの」

「……」

 目の前の光景すべてがいとおしすぎて、言葉も出ない勇輝。

「でもね、これはほんとはもう、この世にはなかったんだよ…」

 いうと、みさきの手からその日記が光に包まれて消えていった。

なんとも幻想的な光景であった。

「ほんとはね、あの日記、私の中にあったんだ。そしてそれももう、見つけたから……」

 みさきは真っ直ぐに勇輝を見据えた。

「こうして勇輝への想いを…。そしてそれを、伝えることもできたから……もう、思い残すことは……」

「俺にはある!」

「!!」

「折角、お互いの気持ちが通ったんだろう! これで終わりなんて、悲しすぎる!!」

 勇輝の言葉は、みさきに対してというよりも、過酷な運命を差し向けた神に向かっていっているかのように聞こえた。

「勇輝……」

「なんだ? みさき」

「あなたは私を見てくれていた? 私はね、入学したころから、ずっと藤森勇輝のことを、見ていたよ」

「……俺もだ」

「ほんと?」

「あぁ、名前は知らなかったけど、ずっと、無意識に見ていたよ。まさかこんな形で仲良くなれるとは思ってなかったけどな」

「あはは、それは私も同じだよ」

「…俺たち、会わないほうがよかったか?」

「ううん、そんなことないよ。私たち、会えてよかった。少なくとも私は、そう思ってるよ」

「そうか、みさきさえそう思ってるなら、俺からは何もいえないよ」

「……」

「……」

「ごめんね、本当にごめんね……」

 最後の言葉だけは、涙ぐんでいた。

そうしてみさきは、日記と同じように、月の光の中へ消えていった。

                                  <第3章 了>


★最終章 文化祭2日目


 すっかり晴れ渡った文化祭2日目。

今日が本当の意味での本番とばかりに張り切る部活もあるくらい、2日目は中だるみしやすい大切な日である。

 

 ここ勇輝の教室では、『静かな喫茶店』が経営されていた。

「ねぇ、ユウ! 一体、どうしたってゆうのよぅ!」

 この日が始まってからずっとユウが無口なのを心配して色葉が声をかけている。

「……」

「もう、ずっとこの調子なんだから……」

「なぁ、色葉」

 やっと、勇輝が口を開いた。

「な、何?」

「死んでる人間と生きてる人間とじゃ、もう二度と、生きてるほうが死なない限り会えることはないと思うか?」

「えっ……」

 いきなりの観念的な質問に、戸惑う色葉。

それに構わずさらに続ける勇輝。

「俺はな、生きてる人間のほうが生きている間に精一杯に頑張ったら、いつか死んでいった人間ともどこかで会えるような気がするんだ。……だから、生きている俺たちは、『今』を頑張って生きなきゃいけないのかもな」

 そういったときの勇輝の顔にはどこか清々しげなところがあった。

「う…うん! よくわかんないけど、そっちのほうが絶対にユウらしいよ! うん!」

「よし!」

 すくっと立ち上がる勇輝。

「さんきゅな。背中押された気分だよ。さって、文化祭第2日目、張り切っていきますかぁ!」

 一晩、何も勇輝は落ち込んでいたわけではない。彼は彼なりに、何とか前向きで健康的な考え方を見つけ出したのだ。

それが、『今』を生き、『今』を一所懸命に頑張ること。

それが、『みさき』に教えてもらったこと。

 まだ、文化祭という名の彼らの青春は、始まったばかりである。

 文化祭終了まで、あと2日――

                                <最終章 了>