自称大手食品メーカー勤務サラリーマン織田信長、大地に立つ


 我が名は織田信長(おだ・のぶなが)。この町から電車で駅二つ行ったところにある大手食品メーカーの支社に勤める三十一歳のサラリーマンである。我の仕事といえば毎朝オフィスに出かけていって新米OL君たちの仕事っぷりを見守り、時には厳しく叱ったりする、つまり、そう、管理職のようなものなのだよ、うむ。……多分。
 実を言うと、最近までの記憶が我の脳から欠け堕ちているのだ。ついこの間まで自分が何をしていたのかがわからない。なんとなく、暗くて狭いところで冷や飯を食べていたような気もするのだが、それ以上思い出そうとすると背筋が震え始めるのでやめておくことにしているのだ。
 まぁともかく我は今、出勤中だということだ。おぉ、駅が見えてきた。確か電車に乗るには切符とかいうものを買わないといならないのであったな。えっと、財布はどこに入れたであろうか。
 我が財布を探そうと思って立ち止まると同時に、後ろから何かが我を追い抜いて行こうとした。
 昔、リアル戦国夢想で鍛えた動体視力を持つ我にはその後ろ姿がはっきりと見えた。紺のブレザーの裾から覗く白いブラウス、すらりと伸びた脚を包もうにも短くてかなわないチェック柄のスカート。間違いない、女子高生しかいない!
 そう思った瞬間、我は条件反射的に手を伸ばし、離れ行く直前の女子高生の姿を目前に投影し、そこへ次元を連結し、その右手首を確かに掴んだ。
「きゃうっ」
 腕を引かれた女子高生が華奢な叫び声を上げて立ち止まってこちらを向いた。我の顔を見た瞬間、ひきつった顔になり、驚愕したように一歩、後ずさった。それ以上は、我が腕を掴んでいるから後退できまい。
 ふむ。後ろ姿だけでは完全に判断することがかなわなかったが、やはり可愛らしい顔をしておる。驚いた顔もまた良いものだ。大方、我のワイルドな魅力に声も出ないでおるのであろう。
「あのっ……何か御用ですか?」
 ふむ。目前の女子高生が我にあぷろーちをかけておる。非常に好ましいことである。
 我がお礼の印に手の甲にキスをしようとすると、少女はそれを拒み、手を引っ込めようとした。
 ふむ……流石に人目につくところでこの行為は女子高生には恥ずかしかったであろうか。しかし、英国ではこれしきのことは挨拶で済ませるべきことなのだ。君もそれをよく覚えておくといい。
 我が再度、手の甲へのキスを試みようとすると同時に、少女に異変が起こった。
 突然、少女は唇をゆがませ、頬を紅潮させ、苦しそうな表情になったかと思うと、両足をがくがくとさせ始めた。
 立っていられないのだろうか。我の魅力に腰が抜けるほど惚れ込んだというのだろうか。ここまでの威力を持っているとは、我も罪作りな男である。
 見れば、必死で立っていようとする少女の表情には扇情的なものがあり、荒い息が白くなって空気と混じり、我はそれを吸う。そして飲み込む。今、我はこの空間において、この少女と同化したのだ――。
「おい、なにをやっているんだ!」
 突然、叫び声がしたかと思うと、何者かが背後から我にしがみついてきていた。
「通報があったから来てみれば、またオマエか……ちょっとはおとなしくしていられないのかっ」
 首を曲げてみてみると我にしがみついているのは、青い服に青いズボン、青い帽子に身を包んだまさに青の男だった。なんか帽子と胸にはカッコイイ紋章がついている。
 瞬間、悪寒が走った。なんの報せかはわからないが、我の体内そして脳内の細胞全てが、確かに告げている。青はダメだと。そうだ、この青の男は悪の男なのだと。
 ここまで過敏な反応をするとは、我の記憶はこの青の男にどれだけ酷い目にあわされたのであろう。おそらくこいつは我の宿敵に違いない。
 ともあれ、ここは逃げるが得策だろう。なんか相手は棒のようなものを取り出したし、腕を掴んでいる少女は喘ぎながらもがいている。これでは一見しただけの人間が我を悪と捉えても不思議ではないであろう。加えて、ここに残って弁解をしたところで、人間の第一印象というものは存外に強く、一度抱いた我が悪であるという認識はなかなかに覆ることはないだろうと推測される。となれば、ここは逃げるが勝ちというものである。
 惜しいのはこの女子高生である。折角我の目に留まったのだ、我の后にして欲しかっただろうに。しかし高校生という事がわかっただけでも収穫だ。下校してくる時刻、つまり夕方以降にこの道で待っていればいいだけなのだからな。ではさらばだ、名も知らぬ女子高生よ、しばしの別れを甘んじて受け入れようではないか。次に逢うときには、名前を聞かせておくれ。
 我の熱い思いが通じたのであろう、女子高生は腕を解放された途端、脱兎の如く駅に向かって走っていった。その目には涙さえ浮かべていた。ひとときとはいえ、我との別れがよほどに心苦しかったのであろう。その気持ちは我にもよくわかる。
「え、ちょっとキミ、話を聞かせて……っておい、オマエも逃げようとするな!」
 我はすでに女子高生が走った方角とは逆へ向けて走り始めていた。女子高生の思わぬ行動に気を取られていた青の男の一瞬の隙をついた見事な作戦である。
 この狭い町では、逃げる場所に限界があるやもしれん。
 だが、我は運命と出会ってしまった。今から思えばあの苦しげな女子高生の表情は我に何らかの助けを懇願しておったのかもしれん。次に逢ったらそのへんのことにも相談に乗ってやらねばな。重大な仕事が一つ出来てしまったようだ。出会ったからには我はこの運命に身を投じるとしよう。そして名も知らぬ女子高生よ、余生を我と楽しく過ごそうではないか! はははははははははははははははははははははは!!
 我は雲一つない空に向けて高笑いを上げた。
 次の瞬間。
 何か固いもので、後頭部を、殴られた気がして。
 そんな気がした直後、我の意識は深い闇の中へと堕ちていった――。



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