女は困っていた。
「はぁ、はぁ……」  今、自分の目の前に広がっている光景がどれだけ常軌を逸していたとしても耐えられる自信はあった。……そう、自信だけは。
 だが、実際は違った。いざ現実を目の当たりにしてみると、胸の中にどうしようもない虚無感が生まれてくる。
 赤く染まった自分の掌を見た。これと同じものが自分の中にも流れていると思うだけで鳴りだした鼓動は止まらなくなる。
 腕を流れる血はまだ暖かい。まだ、生命の生々しさを帯びている。この液体が自分の身体を覆い尽くして溶かされるような気がした。頭が熱くなってくる。めまいもしてきた。
 ……駄目だ。罪悪感に苛まれている場合ではない。
 女は口だけで深呼吸をして、さっき床に落としたものをもう一度拾い上げる。刃渡り10センチ弱の果物ナイフ。刃先からはまだぽたぽたと音を立てて赤い液体が滴っている。
 震える腕に無理矢理力を入れ、おそるおそる目前の骸に刃を入れていく。どうしていいかわからない。とりあえずおおざっぱに切り開いてみる。
「……!!」
 一瞬にして激しい吐き気が込み上げてきた。目をそむけたくなるのをなんとかこらえて、それを見下ろす。
 本当に、どうしていいかわからなかった。
 女はしばらく逡巡すると、立ち上がって携帯電話を取り出した。メモリーから、目当ての番号を呼び出す。ディスプレイには「蘇我甚平」と表示されていた。
 そのまま通話ボタンを押す。数回のコールで電話はつながった。
「……蘇我だ」
 低い男の声。電話の相手がわかっているため、余計なことを言う必要はない。
「どうした。この時間ならもう済んだんじゃないのか」
 穏やかな口調ではあるが、言葉には相手を威圧する迫力がある。
「まさか……土壇場になって怖くなった、とか言うんじゃないだろうな」
「そ、そんなことは、ないよ」
 男のすごんだ声に、女は完全に恐れをなしてしまっていた。
「じゃあちゃんと殺ったんだろうな」
「あ、あぁ。殺しは、したけどさ……」
「けど、なんだ?」
「……」
 女は少しとまどったが、ここで嘘をついても仕方がないと思い、意を決して言った。
「その、後のことだよ」
「なんだ、まだなのか」
 男は苦笑混じりに言った。しかし、続けて乾いた声でにべもなく言う。
「さっさとバラせ」
 男の声に、女は青ざめるような気がした。倒れたくなるのをなんとかこらえて、電話の相手に言葉を返す。
「あたしゃ、専門家じゃないんだ。開いてはみたけど、何がなんだかさっぱりだ。ここから先はあんたらに任せたいんだけど……」
「なんだと、てめェ」
 男の声色が明らかに変わった。怒気を含んだ声になる。
「自分の立場ってもんがわかってねぇようだな」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。できないものはしょうがないじゃないか」
 女は全身に冷や汗をかいて寒気がするほどになっていた。
「……ふん、まあいいだろう」
 男はしばらく考えてから言った。
「それはそこに置いておけ、こっちでなんとかする。てめェは早く戻れ、自分のいるべき場所にな」
「わ、わかった」
「せいぜい上手くやりなよ。ヤバイと思ったらすぐに消すからな――」
 それだけ言って、男は一方的に電話を切った。耳の中に電子音がこだまする。
 電話を切って、ナイフをしまう。証拠を残してはいけない。こんなに異常な状況なのに頭はすこぶる速く回転している気がする。
 その場を立ち去ろうとしたとき、壁の向こうから何やら音楽が聞こえてきた。
 歌だ。この歌は、聞いたことがある気がする。随分昔のような、それでいて最近のような、そんな不思議な感覚に見舞われた。この異常な空間にいる自分を呼び覚ますその歌を、もっと聴いていたかった。心地よかった。
 気が付けば、目を閉じていた。すべてを忘れたい。すべてをなかったことにしたい。砂時計を逆さまにすることで時間を戻すことができるならどれだけ幸せだろうか。いったいどこで間違ってしまったのだろうか。どこで道を踏み外してしまったのだろうか。だがもう後戻りはできない。血塗られた幕はあがってしまった。自分にできることは完璧に踊ることだけ。
 ゆっくりと目を開く。歌は終わっていた。そこで、やっと、胸の奥の空虚感が実感を帯びて脳に送られた。

 あたしは、人を、殺したんだ――