4月12日
 電車が発車した。窓に傾けた頭から心地よい振動が伝わる。やがて振動が大きくなってくると、彼は窓から頭を離し、鞄の中から新聞を取り出した。
 広げた新聞の日付は1999年11月11日。今から4年前の秋の記事。右下のほうに目をやる。なんてことはない交通事故の記事。明智夫妻の乗った自動車が交差点で大型車と追突。明智夫妻は即死、大型車の運転手は現場から逃走したがその日のうちに警察に出頭。それほど重い罪には処せられていない。
そう、これはなんの変哲もないただの交通事故。
事件と呼ぶにも相応しくない出来事。
それだけしか見ていなければ、の話だが。
彼が読んでいるのは、その記事の最後に書かれた一文。

『なお、事故の原因となったブレーキの故障には人為的な痕跡があり、これはただの事故ではなく殺人事件である可能性もある。
                 (芝村 仁)』

「……ふぅ」
 新聞記事を閉じる。記事といってもこれはコピーだ。彼が祖父から渡されたコピー。原本は祖父が持ち出してしまった。彼と同じ目的で。
 何度同じ文章を読んだだろうか。何度同じ疑問を抱いただろうか。あの事故は、事件かもしれない。
 窓から電車の前方に御おおきな山が見えた。あれを越えれば数畿市(かずきし)だ。彼がこれから住むことになる街。
 足下には大きなボストンバッグとノートパソコンが入ったバッグ。上着の胸ポケットから携帯電話を取り出して時刻を確認する。あいにく彼には、腕時計をつけるという習慣がない。
 現在時刻は13:10。これなら新しく住むことになる我が家に行く前に目的の場所に寄っていくことができる。バッグの外付けポケットから手帳を取り出して、住所録のページを開いて確認する。
 北条探偵事務所。そこには、そう書いてあった。現地に着いてからすぐに開けるように、自分の名刺を挟んでおく。名刺といってもまだ無職だから、ゲームセンターで作れるような簡単な名刺だ。以前、故郷の友人と遊びで作ったものだ。自分の名前が書いてあること以外に、特に意味はない。
 彼の名は、明智耕介。

「あいったぁ〜」
 すさまじく大きな音を立てて彼女はベッドから転げ落ちた。打った腰をさすりながらよろよろと立ち上がり、目覚まし時計を見る。すでに「おはよう」と言うには遅すぎる時間だ。
 目覚ましの針は確かに7時に合っている。時計上部にある音を止めるボタンはしっかりと押し込まれている。通常の状態よりも奥にめり込んでいて引っ張り出すには苦労しそうだ。
時刻はすでに1時を回っていた。
「はあぁ……」
 またやっちゃった。
 これが二度目や三度目じゃない。もうすぐ三桁にのぼりそうなほどの数の目覚まし時計をこれまでにだめにしてきている。これじゃお金がいくらあっても足りない。
 彼女は極度に寝起きが悪い。それこそ、彼女を無理矢理起こすのなら、腕の2,3本くらいの犠牲は覚悟したほうがいいだろう。その昔、彼女を起こそうとした今は亡き兄の右腕をとって腕ひしぎ十字固めを極めたこともある……眠ったままで。眠っていたので、必死のギブアップも全く聞き入れられなかった。結局、2分後に兄の右腕の骨は高い音を立てて折れたのである。おまけにそんなこんなの記憶は彼女にはまったくないときている。
 彼女は深いため息をついて、ベッドに座り直した。鏡を見ながら、くしで髪をとかした。
 ふと、窓の外に目をやり、街を見下ろした。
 ここは、数畿ビジネスホテルの30階。彼女は昨日、この街に出てきてここに宿泊している。出てきていると言っても、彼女の実家は山一つ越えた隣の市なのでそれほど離れてはいない。
 この街に出てきた目的は新しい寝床と仕事を確保するためである。しかし、目的地が見つからず、昨日一日を無駄にしてしまったのだ。
「ま、場所はホテルの人に訊いてわかったんだからいいじゃないの、一日くらい遅くなったって」
 自分で自分に言い訳をしながら髪を結う。お気に入りのツインテール。二つの白くて長いリボンは姉からもらった形見だ。髪は染めていない。母親からもらった、このつやのある長い黒髪が大好きだから。
 あんまりぐずぐずしていられない。彼女はいそいそと服を着替えた。
 黒を基調としたロングスカートのワンピース。ところどころに白の模様が入っているのが気に入っている。これにひらひらのフリルでもついていればゴスロリというのだろうか。彼女はゴスロリな服装も好きではあるが、こういったシンプルなほうが大人の雰囲気を醸し出していて、先月学校を卒業して大人の仲間入りを果たした自分には似合っていると思っている。……15歳ではあるが。
 準備は整った。やけに大きなバッグを片手に、彼女は鏡に映った自分に向かってファイティングポーズをとった。
「絶対に見つけ出してあげるからね、お姉ちゃん。さぁ、待ってろ、北条探偵事務所ッ!」
 そう言って、右ストレートを放つ。もちろん、寸止めだ。寸止めになる、筈だった。
 ……案の定、鏡は音を立てて割れた。
 彼女の名は、上杉小町。

――これは、二人の男女が、それぞれに起こっている問題を、互いに助け合って解決していこうとする、若き探偵たちの物語である。

 数畿中央通り前駅。駅から出てきた耕介は昼間の商店街の人混みを見て思わずため息が漏れた。
「やっぱ荷物は新居に置いてくるべきだったかなぁ」
 そんなことをつぶやきながら、思いバッグを二つかかえて商店街へ入っていく。
 数畿市はそれほど大きな街ではない。最近になって港が出来て貿易が栄え、この中央商店街のようなアーケード街も増えてきている。港が出来るまでは都会というよりは田舎といったほうが相応しい、海に面した街だった。そこに、河合物流という会社が港の建設から街の開発に乗り出して、それが見事に成功したというわけだ。そのへんのことは、耕介もあらかじめ調べているから知っている。
 商店街の一画に立つ6階建てのビル。確かこの辺のはずだ。耕介は手帳を開きながら、一致する住所を探していく。
「お、あったあった」
 そんなに新しくないビルの2階に北条探偵事務所と書いてある窓がある。あれに違いない。
 耕介は客である。正式に調査を依頼したい件がある。しかし目的はそれだけではない。もしも人手が足りていないようであれば、所員とした雇ってもらいたい。つまりは弟子になりたいのだ。
 北条探偵事務所の所長、北条衛司は、元警察官の敏腕探偵で、彼の活躍はときおりテレビや新聞をにぎわせる。耕介はそれを見るたび、胸が躍るような気分になった。彼は探偵という職業にあこがれた。そしてできるならば、自分の依頼も。自分が探偵となることで解決したいと思っている。
 とはいえ耕介は素人だ。素人をいきなり所員として雇う探偵事務所はなかなかない。だから耕介は、素人でも使ってもらえるようにと探偵として必要な最低限のことは勉強してきたつもりだ。  もしも、今回の依頼が受けてもらえたら、そのときに頭を下げてお願いしてみようと思っている。
 何よりも、北条衛司本人に会いたい。それが、耕介の本音だ。衛司はテレビや新聞などで決して顔を出さないので、耕介はまだ衛司の顔すら見たことがないのだ。
 耕介は事務所を見上げた。
あの中に、北条衛司がいる。
そう思うだけで、胸が高鳴る。
「よし――」
耕介が一歩踏み出したそのとき、前を誰かが横切った。
「えっ」
「うわっ」
 もろにぶつかり、二人とも地面にしりもちをついた。
「あいってて……大丈夫ですか? すいません、ボーっとしてて」
 耕介は立ち上がりつつ、ぶつかった相手に手を差し出した。倒れているのは髪が少し茶色に染まっている耕介と同い年くらいの男性だった。
 男はパシッと耕介の手を払いのけて自分で立ち上がった。そして耕介をにらみつけた。
「ったいなぁ、どこに目ェつけてあるいとんねんボケ!」
 なんだ? 関西弁?
 ここは関東。耕介は生まれも育ちも関東なので、ほとんど聞いたことのない関西弁を耳にして少しとまどった。
 この男は不良というのだろうか。夜の倉庫街なんかでたむろっていそうだ。こんな昼間から出歩いているのを見ても、何か仕事をしているとは思いづらいと耕介は思った。人のことは言えないが。
 なんとか落ち着いてもらおうと思った耕介は、こっちへ近づいてくる気配に気が付いた。男の背後、さっき耕介が入ろうとしていたビルから出てきた誰かが、こちらの様子に気づいたようだ。
 不良の男もその人物に気づいたようだ。
「なんや、オッサン?」
 男はその男性を見てめんどくさそうに言った。別に知り合いというわけではなさそうだ。
「あー、こらこらキミたち。ケンカはいかんよ、ケンカは」
 この男性もまためんどくさそうに言う。
 男性は本当に「オッサン」と言うのに相応しく、無精ひげが中途半端な長さに伸びている。なんとなくサラリーマンなどのまっとうな仕事には向かない人だなぁと耕介は思った。背広を脱いでいてワイシャツ姿になっているのが、少し若々しさをかもしだしている。脱いだ背広はおもむろに肩にかけていて、どことなくプロの雰囲気のようなものを感じた。
(案外、この人、探偵だったりしてな)
 耕介はビルの出入り口を見ながらそんなことを思った。
 耕介も忘れていたが、耕介たちはケンカしている最中だと思い出した。これってケンカっていうのか……?
「なんやねん、オッサンには関係ないやろ」
「まぁまぁそう言わずに。ん。キミは……」
 男性は関西弁の顔を見て何かに気づいたようだ。
「キミ、確か木之下のじいさんところの子だよな」
 どうやら男性は関西弁のことは知っているらしい。関西弁から「げっ」という声が聞こえた。
「な、なんでオレのこと知ってんねん」
 関西弁は耕介に向き直った。その顔は、かなり渋かった。
「ま、今日は勘弁しといたるわ。今度から気ィつけて歩きぃや」
 関西弁の声からは怒気が消えていた。それだけ言い残してさっさと行ってしまった。
 いったい、なんだったんだろう。耕介は男性のほうを見た。彼は涼しげな顔をして去っていく関西弁の背中に向けて手を振っている。
「……」
「……あ、もう一人いたんだっけ。じゃあどうする? 空手か、柔道か」
「なんの話です?」
「冗談、冗談」
 言ってわははははと笑い出す男性。本当にわけがわからない。
「とりあえず、助けていただいてありがとうございます」
 一応、礼を言っておいた。男性は首を振って答えた。
「何、礼には及ばんさ。あの子はいろいろと変な子だけど、悪いやつじゃないから仲良くしてやってくれ」
 仲良くも何も、相手の名前すら知らないんですが、と言いそうになったが、言ってもあまり変わらなさそうだったのでやめておいた。
「おっと、ぐずぐずしてたら電車が出ちまう。それじゃおじさんはこれで」
「あ……ちょっと」
 探偵事務所の人ですか、と訊こうと思ったが男性は足早に立ち去っていった。
 どうもあの人は探偵のような気がしてならない。電車に乗るってことはどこかに調査に向かうのだろうか。事務所の所員さんだろうか。もしも所員さんだとしたら、今後もう一度会う可能性がある。何しろ、これから耕介は北条探偵事務所の依頼人となり、出来れば所員になろうというのだから。
 気を取り直して、ビルの中に入る。エレベーターがあったが、2階に行きたいので階段を昇る。
 このビルの2階に入っているのは北条探偵事務所のみだった。耕介は意を決してドアを開けた。
「失礼します」
 入ってすぐにおかしいなと思った。目の前にあるデスク、応接用のソファ、ドアがない給湯室。そのどこにも人の姿がないのだ。
 耕介が困惑していると、どこからか呼ばれる声がした。
「……だれ?」
 耕介ははっとして声のする方向を向いた。誰も座っていないデスクの下から、小さな女の子が姿を現した……というより、もとからそこにいたが、背が低いので耕介が気づかなかっただけである。
 どうやら、今この事務所にはこの女の子しかいないようだ。
「えっと、北条衛司さんはいらっしゃいますか?」
 明らかに小学生低学年以下の女の子に対して敬語になる耕介。女の子は北条衛司の名前を聞いて反応したようだった。
「おにいちゃん、お父さんの友達?」
「あ、いや、友達ってわけじゃないけど……って、お父さんってことは、きみは所長の娘さん?」
「うん、瑛っていうの。おにいちゃんはなんていうの?」
「俺は明智耕介、よろしくね」
「うん、よろしく」
 無邪気に笑顔を浮かべる瑛。
「それで、おにいちゃんはお父さんになにか用事?」
 英は一人で退屈していたらしく、積極的に耕介に話しかけてきた。
「うん。衛司さんに依頼をしたくてね」
「依頼……」
 依頼という言葉を聞いた途端に、瑛は複雑な表情をした。
「どうしたの、瑛ちゃん?」
「うん……お父さんはさっき出かけちゃったけど、おにいちゃんはここで待つつもり?」
「あ、そうなんだ。じゃあ待たせてもらうことにするよ」
 さっき出かけたということは、ビルの前で出会った男性が衛司本人だったのか。イメージと結構違う本人像に、軽くショックを受ける耕介。だが、もっと強いショックが瑛によってもたらされた。
「待っても無駄だと思うよ?」
「え……どういうこと?」
「お父さん、何日かわからないけど、しばらくは帰ってこないの」
「そ、それはどうして?」
 瑛は首をかしげた。瑛にも理由は知らされていないらしい。
「何かの調査に出かけたんじゃないかな?」
 耕介は思いついたことを言ってみる。しかし瑛は複雑な表情を崩さない。
「お父さん、昨日、所員さんたちに他の事務所を紹介してたから……」
 事務所から人をいなくした?
 耕介は何か変な感じがした。
「所長が戻ってこなくて、所員が一人もいないんじゃ、瑛ちゃんはどうするの?」
「親戚の叔父さんのところにしばらくお世話になりなさいってお父さんが言ってた」
 瑛によると、その叔父という人は今日迎えに来る予定らしい。
「家には帰らないの? お母さんは?」
「家はここだし、お母さんはいないの」
 耕介は軽率な質問をしたことを後悔した。相手は小さい女の子だ。どうしてもっと気を遣ってやれないんだ、と。
「そうか……」
 衛司はいない。所員も一人としていない。どうやら衛司はこの事務所を続けるつもりがないようだ。もしそうでないにしても、しばらくの間は休業にするつもりだろう。ということは自分の持ってきた依頼も受けてはもらえないということである。まさか瑛に依頼にするわけにもいかない。
 耕介がこれからどうしようかと考え込んでいると、いきなり勢いよく事務所のドアが開いた。
「たーのもー!」
 陽気な声とともに現れたのは、中高生くらいの少女だった。長い髪をツインテールにして、黒のワンピースを着ている。このかわいい少女が腕を振り上げて仁王立ちしている姿はなんともミスマッチだった。
「……」
「え、えーと……」
 瑛も耕介も突然のことにどう対応していいかまったくわからなかった。少女は耕介に一瞥をくれると、事務所の中に一歩入ってきょろきょろと中を見回し、誰もいないことがわかると再び耕介に視線を戻した。
「北条衛司……じゃないわよね、流石に」
 少女は腕組みをしながら耕介を値踏みするかのようなまなざしで見た。
 それは当たり前だ。35歳の敏腕探偵にしては耕介は若すぎるのだ。たとえ中高生が見てもそれは簡単に判断できる。
 耕介は、ことのいきさつを簡単に説明した。衛司が出かけたこと、しばらくは戻ってこないであろうこと、しばらくの間は事務所を閉めるつもりだろうこと、瑛は叔父の家に預けられること、叔父はもうすぐ迎えに来るということ。
 少女は黙ってそれを聞いていたが、話に一区切りつくと、溜まっていたものがあふれ出したようにまくしたてた。
「ちょっと待ってよ、なんで北条衛司いないのよ! せっかくこの私、天才中卒美少女新人探偵、上杉小町が即戦力として働きに来てあげたのにー。昨日は一日中ここを探し歩いてて足がぱんぱんになっちゃったのよ、どうしてくれるのよ女の子の柔肌を! だいたいね、事務所閉めるんなら報告ぐらいしなさいってのよ、この私、天才中卒美少女新人探偵、上杉小――」
 小町、と名乗った少女の口を耕介がふさぐ。
「あにふんほほぉ!」
「いいから黙れ」
 小町を落ち着かせてソファに座らせ、耕介も向かいのソファに座った。
「えーと、最初から整理してみよう。上杉さん、きみは要するにここで雇ってもらいたかったってこと?」
「そうよ。私を雇えば、この世に解けない事件はないわ。なんたって、私は天才中卒――」
「だぁぁぁ、それはもういいから!」
 ソファから立ち上がってポーズをとる小町。耕介から見てもかっこいい。かわいらしい容貌にひどくミスマッチだ。
 耕介はこめかみを押さえた。頭が痛い。今日は妙なことばっかり起こる。
 座り直そうとした小町の視界に、ふとデスクの椅子に座っている瑛の姿が入った。
「きゃー。なにこの子、かーわいー!」
 突然、瑛に走り寄って抱きしめる小町。瑛は少々とまどいつつも嬉しそうだ。
「いや、なにっておまえ……さっきの話聞いてなかったのか? その子が衛司所長の娘さんの瑛ちゃんだよ」
「むかー。おまえってなによ、おまえって」
「ん、あぁ。悪い」
 耕介はつい乱暴な口調になったことを詫びた。
「それから、さっきみたいな『上杉さん』なんて堅苦しい呼び方もやめてよ。私のことは小町でいいから――」
 言いかけたところに、突然、デスクの上の電話が鳴り出した。耕介も、小町も、瑛も、一瞬沈黙して電話に釘付けになる。
「えっと……」
 耕介がどうするべきか瑛に視線で訊く。だが瑛は首を振るだけだった。瑛は事務所の電話に出たことは当然だろうが一度もないようだ。
 なおも電話は鳴り続ける。
「……あんたがでなさいよ。見たとこ、一番年上なんだし」
 小町の提案はもっともだ。仕方がなく、耕介が電話に出ることにした。もしも仕事の依頼だったら断らなきゃいけないし、この小町もどう考えても素人にしか見えないのでろくな対応ができるとは思えなかった。
「もしもし。北条探偵事務所ですが」
『衛司さんかい?』
 電話の向こうの声は、やや老けた中年といった感じだった。
「あ、いえ、所長……は今出ておりますが、依頼でしたら申し訳ありませんが……」
『あーいやいや、いいんだ。それよりキミ、所員さん?』
「はあ、まぁ」
 いちいち説明するのも面倒なので、この際所員ということにして話を進めることにした。
『じゃあ悪いけど衛司さんに伝えといてくれないかな。やっぱりウチじゃ預かれないって』
「えっ、何をです?」
『衛司さんの娘さんだよ。悪いけど他を当たってくれって言っておいてくれ。それじゃあ』
「え、あの、ちょっと!」
 耕介の呼びかけも虚しく、電話はすでに切れた後だった。
「……」
「なに電話で焦ってんのよ、カッコワルイったら」
 受話器を置きながら沈黙する耕介に小町が言った。
「で? なんの電話だったの?」
 耕介は小町と瑛に向き直った。
 一瞬だけ、瑛の顔をみる。
つまり今の電話は、瑛を引き取ることができない、とまぁそういう内容だったわけだ。そんなことを、瑛の前でどうどうと言うことはできない。
耕介は悩んだ挙句、やはり瑛には自分の口からは伝えないことに決めた。
「小町、ちょっと……」
 手招きしながら事務所を出る。小町も首をかしげながらついてくる。瑛は小町に「待っててね」と頭を撫でられて嬉しそうにうなづいていた。あの笑顔を壊すような報告は、やっぱり本人に、しかも赤の他人から、すべきではない。耕介は複雑な気持ちになった。
 事務所のドアを閉めて、耕介は小町に電話の内容を告げた。瑛を引き取ることになっていた叔父が、何か事情があって引き取ることができなくなった、ということを。
「そうなんだ。じゃあ、はやく瑛ちゃんに教えてあげないとね」
 小町はあっけらかんとしていた。早くも瑛に真実を伝えんと、事務所のドアノブに手をかけた。耕介はあわてて止めに入った。
「ド、ドアノブが照れているッ!?」
「……はぁ?」
 まるで精神異常者を見るような目を耕介に向ける小町。いや、精神異常者に違いはないのだが。だが耕介にしてみれば小町がドアを開けるのを思いとどまってくれたので作戦は成功である。
「と、とにかくっ、瑛ちゃんには教えないほうがいい」
「なんでよ」
「あの子は見たところまだ小学生だ。お父さんがいなくなっただけでも心細いだろうに、今度は身寄りがなくなったなんてこと、流石にショックが大きすぎるだろ」
 耕介がまくし立てると、小町は一瞬目を伏せたが、すぐにまた耕介をにらみつけた。
「そんなの、大人の意見じゃない」
 小町の声には、さっきまでは感じられなかった、不安とか恐怖とか憎しみといった感情が込められていた。
「そうやって問題を先送りにしてどうするの?」
「そりゃ……結果的に先送りになっちゃうけど、俺たちだってまだあの子のことよく知らないし、もう少し落ち着いてからでも」
「心配だからって、周りが腫れ物扱いして、それで本人がどんな気持ちになるかわかってるの?」
「……!」
 耕介には返す言葉がなかった。
 小町は小さくため息をついた。
「ごめん、言い過ぎた。でも、私は真実を知らされない悔しさを知っているつもりだから。やっぱり瑛ちゃんにはこのこと、話したほうがいいと思う」
「……わかった。俺も、別に瑛ちゃんを仲間はずれにしようなんて思っていたわけじゃないんだ。悪かった。瑛ちゃんには、お前から話してくれ」
「またおまえって言った」
 小町は「ふん」と吐き捨てて、事務所に入った。耕介も事務所に入り、応接用のソファに腰掛けた。
 小町と瑛がなにやら話しているが、耳に入ってこない。耕介はさっき小町に言われた台詞を何度も反芻していた。

「心配だからって、周りが腫れ物扱いして、それで本人がどんな気持ちになるかわかってるの?」

 すぅーっと、目を閉じて、過去に思いを馳せた。あの頃、自分はどう思っていただろう。学生の身分で、何もできなくて、何もやらせてもらえなくて……。

「ちょっと、聞いてんの?」
 過去を思い返しているうちに、耕介は少し眠ってしまったらしい。見ると、向かいのソファに小町と瑛が座ってじゃれあっている。なんでこんなに打ち解けるのが早いんだろう、なんて思う。
「電話のことは話したのか?」
 耕介が聞くと、小町の代わりに瑛が頷いて答えた。小町は「いい子ね」と瑛の頭を撫でて付け加えた。
「でね、ちゃんと瑛ちゃんと話もつけたんだ」
「話? なんのことだ?」
「私がここに来た目的、忘れたの?」
「バカみたいな中卒の女が、探偵に憧れて雇ってもらいに来た、だっけか」
「バカみたいな、は余計よ」
 じゃあ「中卒」は余計じゃないのか。実際、自分の肩書きに「中卒」と入れているあたり、履歴上ハンデとなることにも誇りを持っていると言えるのかもしれない。どちらにせよ変な奴だと、耕介は思った。
「で、それとこれとどういう関係があるんだよ? 雇ってもらおうにも、ここはもう閉めるみたいだし……」
 それにお前みたいな奴を誰が雇うかよッ、とは言わないでおいた。
「その点は安心よ」
 小町が人差し指を立てて言う。
「このビルって貸しビルみたいだったから、さっき管理人に電話してみたら、まだ解約されてないし、解約するっていう話をされたこともないんだって」
「行動が早いな」
「へへへ〜、なんたって天才中卒美少女新人探偵だからね〜」
「まだ解約されてないってことは……」
「この私の登場をすでに予想していたということね! 流石は北条衛司、やるわね!」
 目の前のバカはほっといて……耕介は頭の中を整理した。
 事務所を空けておいてまだビルの解約をしていないということは、少なくとも近いうちに帰ってくるという意志があるということか。だが、衛司所長は所員に他の事務所を紹介している。ここからは、事務所を閉じるという意志が感じられる。これは一体どういうことだろう。
「……というわけで、瑛ちゃんと相談した結果、この天才中卒美少女新人探偵、上杉小町が、所長代理として事務所をきりもみすることにあいなりました、ってこと」
「……え?」
 耕介は聞き捨てならないことを耳にして、強制的に思考を中断した。
「きりもみじゃなくて、切り盛り、だろ?」
「あ、そっか」
「じゃなくて! おまえが所長ってどういうことだよ!? そんなの衛司所長が認めるわけないだろ!!」
「北条衛司が認めても認めなくても、これはもう決定事項なのよ! それに、今私たちが出て行ったら、瑛ちゃんは本当に独りぼっちになっちゃうのよ。私たちがそばにいてあげないとダメでしょ」
「わたし『たち』?」
 小町の言葉に一抹の不安を覚えた耕介は聞き返してみた。しかし、返ってきた答えは案の定、耕介の頭を悩ますものだった。
「あんた、探偵助手ね。名探偵には、いい助手が必要っていうしね。私も下僕が欲しかったところなのよ」
「待て待て待て! そんなことを勝手に決めるな、そこに俺の意志が入る余地はないのか!」
「ないわ」
「ないのかよ……」
 あっさりと切り捨てられて、その場にうなだれる耕介。さらに小町が追い討ちをかける。
「それに、私も瑛ちゃんも女の子だし、未成年なのよ? 男手もいるし、何かあったときに必要なのは男でしょ。依頼人だって、探偵が未成年じゃ相手にしないわよ、きっと」
 だったら俺が所長をやるべきなのではないか、その意見は軽く無視された。
「それにさ、瑛ちゃんもほら、私たちになついてくれてるみたいだしさ」
 小町がはじめて他人の意見を採用した。瑛を見ると、屈託のない笑顔を耕介に向けている。
「ほんとに、いいの?」
 耕介は不安混じりに訊いたみた。ここで「いいよ」と言われたらもう打つ手はなしだ。自分は強制的に探偵助手として働かされるだろう。しかもこの、自称天才中卒美少女新人探偵のもとで……。
 耕介が真面目な顔で訊いたので、瑛は少し戸惑っていた。助けを求めるようにちらりと小町のほうを見た。それに気付いた小町は、優しく瑛の頭を撫でてあげた。
「瑛ちゃん。自分で決めるのよ。瑛ちゃんがこの事務所を続けたいって言うんなら、続けたらいいんだから。私たちはそのお手伝いをしてあげるよ」
「珍しいな。おまえが他人の意見に耳を傾けるなんて」
「なによ、悪い? それに、私はおまえじゃないって何度言ったらわかるのよ!」
「それを言ったらおまえだって、俺のこと『あんた』とか呼びやがって!」
「あんたなんか、あんたで十分よ!」
「おまえもな!」
 瑛はしばらく、目の前であーだこーだと言い合う二人を眺めていた。そして、なんだか「いいな」と思ってしまった。この二人と仲良くなりたい。小さいながらに、目の前の二人に親近感を覚えた。なにか、自分と同じ雰囲気をもっている、と。もちろん、二人に聞かれたら否定されるだろうけど。
「いいよ」
「「え?」」
 まさに取っ組み合いのケンカになろうとしていたそのとき、耕介と小町の耳に瑛の声が入り、そこでケンカは中断された。
「瑛ね、おにいちゃんもおねえちゃんも好きになりたいの。だから、いっしょに事務所をやっていこう、ね?」
 好きになりたい。
 そんな言葉を面と向かって聞かされて耕介はいささか照れた。どうやらそれは小町にとっても同じらしい。顔をそむけて咳払いをしている。
「ま、まぁとにかく、そういうわけだからこれからよろしくね」
 照れ隠しに小町は耕介に握手を求めた。その手は、とても小さく、耕介は自分にはこれを、この子達を守ってやる責任があると感じた。経緯こそ小町の強引な提案によるものだったが。
 よくよく考えてみれば、ここで諦めて故郷に帰るよりも、事務所に居座って衛司の帰りを待ったほうがいいのではないか。いつになるかはわからないが。だがそれなら事務所に入ってくる依頼をこなすことでなんとか生活費を捻出することができる。しかし問題なのは、こんな素人の集まりで、まともに仕事ができるのかというところにあった。
 だが耕介はもうこの際余計なことは考えないようにした。憧れの北条探偵事務所での仕事。自由に自分の追っている事件を調査できる。願ってもない環境だった。それに、高校にも行かずに探偵事務所に就職しようとしている小町の思惑にも、興味がないわけではなかった。
 結論に達して、耕介は差し出された小町の手をそっと握り返した。
「こちらこそ、よろしく頼むよ」
 瑛は、手を取り合う二人を楽しそうに眺めていた。
 これが、若き二人の探偵が誕生した瞬間である。