■彼女の恋愛観

彼女の恋愛観


掲載サイト:  作者:神崎陽由真

 俺は走っていた。信号が青から黄色に変わった瞬間に横断を見限って、自転車のハンドルを交差点の西の陸橋に向けて切った。歩道橋まで十メートルというところで立ち漕ぎになり、スピードをつけて一気に坂を上る。流石に坂の終わりのあたりでは足で地面を後ろへ蹴ってなんとか上りきる。滝のような汗がさっきからアスファルトに零れ落ち、俺の軌跡をつくっている。ひっきりなしに鳴く蝉が鬱陶しい。加速し、ものの数秒で国道の上空を横切り、下り坂にさしかかる。ここで俺は右腕の時計を見た。あと五分で始業、この分なら十分に間に合う。
そう思って前を見ると、三メートルほど先に人の姿が見えた。ブレーキを握ったが、右手がブレーキに戻っていなかったので思うように減速しない。前の人は俺に気付いていない。このままではぶつかってしまう。しかしこのとき、俺の頭は驚くほど冷静な、かつ大胆な行動をとっていた。
 気付いたときには俺は自転車を左へ蹴り倒し、その反動で右へ、国道のほうへと身を投げ出していた。これでこの人は助かる。だが俺は……。
 一瞬後、後頭部に激痛を覚え、気を失いそうになるくらいの痛みに耐えながら、俺は茂みに尻餅をついた。俺は声にならない叫びをあげて、泣き顔になりながら後ろを向いた。透明の壁の向こうで幾台もの車が行き来している。どうやら国道沿いに設置されている防音板のおかげで助かったらしい。ひきかけた人のことが気になり、俺は痛みのひどい首をおさえながら立って歩道橋のほうに振り返った。そこには、歩道橋の出入り口には、俺と同じ学校の制服を着た女のコが、体は自転車に向き構え、首をこちらに向けて、口を半開きにして立っていた。俺が首を気遣いながら歩み寄って自転車を引き起こすと、彼女は呆れた顔をして言った。
「うっわ、すご、体、丈夫……」
「いやまておい」
 驚くところを間違っている女に俺は句読点を挟まずに、発声の振動に首があげる悲鳴に耐えて、すかさずツッコミを入れた。
「あのなぁ、俺の自転車見ろよ。ボロボロじゃねぇか。ほら、ここなんか、ライトへしゃげちゃってるよ。うわ、左のブレーキワイヤー切れてるし」
 俺の少々オーバーリアクションな説明に、胸を張って腕組みをしてふむふむと頷いている目の前の女。助けてやったのに、なんだこの偉そうな態度は。俺は頭にきて少し大きな声になった。
「それになぁ、俺は命張っておまえのこと助けたんだぞ。そのせいで俺の首と腰はもう使い物にならなくなってしまうかもしれない。これは一生ものだぞ。どうしてくれるつもりだ」
 我ながらあほなことを言っていると思っていると、彼女もそうとったらしく、凛とした顔の眉を吊り上げて厳しい口調になった。
「はぁ? 命奪われそうになったのはこっちよ、あなたにね。いっとくけど殺人未遂よ? これ」
 きっぱりとそう言って、学校に向かって歩いていく彼女。悔しいが、ああいう言い方をされると妙に威圧感がある。
「おい、ちょっと待てよ。くそ、薄情な人間め……あぁ、チェーンまで……」
 俺はしゃがみこんでチェーンの取り付けを始めた。早くしないと遅刻してしまう。俺は焦るあまり、かなりてこずった。カッターシャツの胸の部分が汗で濡れているのがわかって、気持ち悪くなった。
 俺がしばらく自転車と格闘していると、とっくに先に学校に向かったと思っていた女が俺の隣にしゃがみこんでいた。俺は意地になって彼女を無視して作業を続けた。だが、なかなか取り付けることができない。そんな俺を見かねてか、女はため息をつくと、鞄を足元に置き、俺を動物か虫かのように手で払いのけた。
「ちょっとかしたまえ、少年」
 やる気のなさそうな目つきでちゃちゃっとチェーンを取り付ける彼女。取り付け終わったら彼女は何も言わずに足元の鞄を持ちその場を去っていこうとした。
「お、おい。まてよ」
 俺は自転車を押して彼女の後を追った。大股で歩く彼女は足を止めずに俺のほうを一瞥した。
「急がなくていいのかい。間に合わないぞ」
「直してもらっといて、しかも指まで汚させて、先に行けるわけないだろ」
 俺はいささかの照れ隠しに視線を逸らした。彼女はふーん、と再び前を向いた。ほどなくして、学校のチャイムが聞こえた。
「どうする、走る?」
 彼女の横についた俺に、視線だけ向けて訊いてくる。
「いいよ、別に。ゆっくり歩いていこうぜ。遅れるなら二分も三十分も一緒だ」
 彼女はふっ、と笑った。口元が少しだけ緩んでいた。
「いいね。その考え方、好きだよ」
 そう言われたとき、俺は妙な感じがした。彼女のほとんど変わらない表情の微かな変化に、自分でも驚くほどに見入ってしまっていたのだ。こいつとはいい友達になれそうな気がする。このときはまだ、それぐらいにしか考えていなかった。これが、春日健一(かすがけんいち)と牧村舞梨(まきむらまいり)の出会いだった。

 あれから一年。俺は高校二年になっている。それなりに仲の良い友達もいて、それなりに学業もこなして、それなりの高校生活を送っている。一年前、俺が殺しかけた女、牧村とは今年の春、同じクラスに編成された。俺と牧村は今まで、まあ、いい友達といった関係でいる。見た目はなかなか、いやむしろかなりのものだと思うが、性格がずけずけしているせいか、男子と変わらない感覚で接することのできる相手だ。だから、色恋の話題にはなかなかならない。だが、それには別の理由もあると思う。牧村は俺が色恋の話を持ち出しても、いつもの真面目なのかどうかよくわからないジョークであっさりとかわしてしまう。俺には、牧村が意図的にそういう、恋愛について、拒絶しているように感じられる。だからどうだっていうと、返答に困る。俺はあいつを恋に目覚めさせてやろうとか思っているわけでもないし、あいつに気があるわけでもない。ただ、友達として気にならないといえば嘘になる。どうして牧村は、恋をしようとしないのか、と。
 七月の半ば、期末考査を目前にして校内の緊張感が高まる時期。その日の放課後、俺は図書室で勉強していた。
 えーと、『ガラス棒の屈折率nのとりうる範囲を示せ』、か。ううむ……。
 俺が物理の難問で悩んでいると、ポケットに片手を突っ込んだ女生徒が向かいの椅子を指差して俺を覗き込んでいた。普通ならだらしない格好も、この長身の牧村がやるとかっこよく見えてしまうのだから驚きだ。
「ここ、いいかい?」
 牧村は俺の返答を待たずに座った。もちろん俺も否定する気などなかった。
「こないだの現国の授業休んじゃってさ、ノート見せてよ」
 そういって牧村は現国の教科書の表紙をこちらに向けた。
「あぁ、ちょっと待ってろ。えぇと、確か、太宰治だったっけ?」
「ふぅん、あの色ボケか」
 我が国の誇る文豪に対して罵声を浴びせる牧村。俺はその言葉に少しひっかかるものがあった。これが初めてではない。牧村が、いわゆる恋愛批判をするときには、いつも言葉にとげがある。なんでこいつはこんなにもかたくなに恋愛という感情を否定してしまうのだろう。
「確かに、入水心中をはかって最後の最後で腰がひけて自分だけ助かっちまったってのは、情けない話だよな」
 俺はノートを渡しざまに、適当な知識で答えた。すると牧村はやる気のない声で、そうじゃなくて、と切り出した。
「うまくいきもしないのに、何度も何度もだらしなく恋愛なんてもんを続けるのがバカみたいじゃない」
 牧村が言いながら教科書を開く。太宰の写真の横に、『色ボケ』と書いてある。何をメモってるんだ、こいつは。
「だけどさ、太宰は恋愛に絶望しながらも、何度も情熱的に恋愛してる。それって、やっぱり恋愛にそれだけの価値を見出しているからじゃないか?」
 俺は少々の苛立ちもあってか、反論の姿勢に出た。なんだか、俺自身が否定されているような気がしたから。だが、牧村はこのぐらいじゃ引き下がらなかった。
「だから恋愛は怖いんじゃない。無限の価値と、無限の可能性を秘めているから。それが壊れたときの絶望は、計り知れない。失望は期待の二乗に比例、男と女の愛なんて漸近線。だったら恋愛なんて最初からしないほうがマシでしょ」
 正直、牧村の意見に俺は反対できない。俺も、似たような恐怖感を感じている。今、気になる娘はいるんだけど、そんなふうな不安や焦りは確かにある。一緒にカラオケやボーリングやビリヤードに行っても、遊んでいるときは楽しいけど、帰り道になると別れたくないからいろいろと気を遣ったり、次の約束を取り付けておかないと不安だとか、様々なことで精神を磨耗していると思う。牧村はそんな俺の心中を悟ったかのように続けた。
「後に辛いことが待ち構えているってわかっていながらそこに飛び込んじゃえるなんて、信じられないわ。それであとになって結局後悔するんだったら、それって所詮は一時の感情とか気の狂いってことでしょ。私は卒業アルバムも開けないような大人になりたくはないわ」
「けど、そっから得られるものだってあるはずだろ。そういうのを繰り返して、いつか本当の愛にたどり着けるんだろ」
 いつのまにか俺は自分を弁護するみたいになっていた。
「幸せだよ、そううまくいけばね。でも実際は、本当の愛でとどまっていられる人って少ないよ。結婚と離婚を繰り返して、やっぱり最初の相手のことが本当に好きなんだって気付く場合もある。でもそれじゃ、取り返しつかないじゃない。私はね、男の子の友達たくさんいて、仲のいい男もあんた含めて結構いるけどさ、そういうの抜きにして付き合いたいわけ。今を笑って走って転がって、青春でしかできないようなバカやって謳歌したいの」
「恋愛は、青春でしかできないバカじゃないのか?」
「しこりを残す、という意味ではね。でもそれはただの愚行だから」
 こいつは……。自らを男の中に染めて、自分を自分の壁にしているのか。俺は、そんな牧村の考え方を、すごく悲しいものだと思えた。
「おまえさ、恋愛したことあんのか? したことある奴なら、きっとそんなことは言わないと思うぞ」
 失恋した後数日間でなければ、と続けようとしたが、牧村に遮られた。
「私はないけど。親とか、まわりの人間とか見てると、そういう結論にたどり着いたのよ」
「ないってなぁ、おまえ。実際に経験しないとわかるもんか」
「経験したら終わりよ。眠ってしまったが最後、二度と完全に覚醒はできない。それが恋の魔法ってやつ。魔法っていうかむしろ呪い?」
 微笑交じりで言う牧村。
「そういうあんたはしたことあんの? レンアイ」
 無機質な台詞が俺に降りかかる。思い出しかけていたドップラー現象の公式が飛んでしまった。
「……今してるよ」
 多少の気恥ずかしさもあったが、別に目の前の女が好きなわけでもなし。ならば恋愛中であることぐらい、知られても問題はないだろうと思った。
「なぁんだ、結局あんたも色ボケの、しかも進行形の熱病患者か」
 生まれて初めて経験する罵倒だった。
「わ、悪いかよ、恋してちゃ」
「別に。あんたみたいなの他にもいっぱいいるから、私の参考にはならないってだけ。嫌なものなのに、嫌な目にあっても、まだそれを求め続ける。そんな熱狂的信者の意見じゃあね」
 牧村はノートを写し終わり、俺に差し出した。そして自分の荷物を片付け始める。
「ごめ、今日はもう帰るわ。また明日ね」
 眠そうにあくびをして席を立つ牧村。俺はノートを受け取らずに言った。
「最後に、一つだけ。人を好きになるって、いいもんだぜ」
 俺は照れくささもあって、なぜか顔がにやけていたらしい。牧村もつられてくす、と口元を弛めた。
「大きなお世話」
 それだけ言い残して、牧村は図書室を出て行った。俺は思った。難儀な奴だな、と。あいつにもいつか、俺がいま満喫しているものを知る日が来るんだろうか。そんなことを思いながら、ノートの上に出てきた数値に答えであることを示す下線を引いた。シャーペンの芯の先の乾いた音が、静かな図書室内に心地良かった。


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 恋愛の一つの価値観としてこういうのもあるのかなと思って、書いてみました。感想、酷評など、よろしければお願い致します。


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