『桜の季節』現代浪漫編第四話「目を開いて、両手を広げて<昼の部>」

「ふあ〜ぁ、よくねたなぁ」
 小泉病院に朝がきた。
ここ205号室は真由専用の病室となっているが、真由が起きたときには、医師が一人と看護婦が数人、心配そうに真由を見ていた。
「ふぇ、せんしぇぇ、どうしたんですかぁ? こんな朝から」
 目をごしごしとする真由。
 実は真由は朝に弱い。事故に遭うまではいつも朝は真陽に起こしてもらわないと学校に遅刻していた。
医師はしっかりと動いている真由を確認すると安心して言った。
「いや、君が本当に起きるか心配でね。でもよかった、これであとは体の衰弱の回復を待つだけだね」
 医師がそう言うと、周りの看護婦たちも安心し、場の雰囲気は明るくなった。
「よかったね、真由ちゃん。でも、昨日みたいな無茶、もうしちゃダメよ」
「む? 昨日、一体何をしたのかね?」
「や、山岡医師、いや、べつに……」
 問い詰められた看護婦は、昨日、真由がベッドから飛び出したときに病室にいた看護婦である。
「東野クン、また反省文を書いてもらわねばならんか……」
「そんなぁ〜、医師〜」
「……まったく。それじゃ、真由クン、我々はもう行くから、何かあったらすぐに看護婦を呼びなさい。それから、無理はくれぐれもしないように。いいね?」
「はい」
 白衣を着た人間が4人、ぞろぞろと病室を出て行く。病室には真由が一人残された。
(とはいっても、退屈だなぁ。ひゅーまさん、来てくれないかなぁ)
 そう考えて、真由は思い直した。
(な、何言ってるの!? 昨日の今日じゃない! どんな顔をすれば……)
 途端に真由の顔がしょぼくれる。
(それに、ひゅーまさんには、お姉ちゃんっていうきれーな彼女がいるんだし)
 ところがまた真由の顔が笑みを取り戻す。
(でも、私が想い続けるだけならいいよね。早くひゅーまさん、来てくれないかなぁ)
 ……恋する女子高生は無敵。

 ちょうどその頃のこと。
「うわわわぁ、遅刻するぅ!」
 陽由真も朝には弱かった。
「日頃から精神がたるんでるからこういうことになるのよ」
 あわただしく台所を駆け回る陽由真を尻目にクールに朝食のハムエッグを食べているのは、自称陽由真の妹、真陰。半ば押しかけ状態でこの家に居候中だが、お互いに本当の兄妹であるかのような感情が芽生え始めている。
「学校あるってわかってるんなら起こしてくれればいいのに」
「学習機能のない人を育てるつもりはないわ」
 陽由真が過去の記憶を取り戻した日から、まだ二日しか経っていない。だが、記憶があるからこそ、打ち解けるのも早い。
「で、なんで遅刻しそうな僕が朝ごはんつくってんのさ」
 陽由真が自分の分のハムエッグを作り終えた頃には、真陰はそれを食べ終え、お茶をすすっていた。
「真陰さ、もしかして料理できないんじゃあ……」
 テーブルについた陽由真が何気なくそう言った瞬間、真陰はお茶を吹き出した。
「……」
「……」
「……本当につくれないのか?」
「な、何を馬鹿なことを。りょ、料理ぐらいは作れるわ。難しいのはできないけど……」
 どうやら本当につくれないらしい。陽由真は自分の口端がつり上がるのがわかった。この間といい、真陰の弱点がわかると妙に嬉しい。
「たとえば、何がつくれるの?」
「え、んー、ひややっこ……とか」
 下を向いて言ったこともあり、最後のほうはほとんど聞き取れなかったが、それでも十分に陽由真を笑わせる力はあった。
「はははははははははははははははは」
「な、何を笑っている!」
「得意料理はひややっこです、だって。あははは、片腹痛いのとおなか痛いの二重で死にそう。わはははは」
「ぐ……」
 真陰は思った。こいつ、いつか死なそう、と。

 真陽が迎えに来て、陽由真は大学へ行った。昨日と同じように、真陰は一人になった。そして昨日と同じように、自分の魂の中のもう一つの人格に接触を試みた。
 昨日の一件で、阿沙加も少しは心を開いてくれたはずだ。わずかな希望だが、その希望をつくってくれた有馬には感謝しなければならない。少しはこちらの言うことを聞いてくれればいいのだが。真陰はそう思いながら、自分の意識の奥深くにもぐりこんでいった。
「阿沙加、もう起きた?」
『……』
「ふふ。あなたの寝坊も相変わらずなのね。早起きすれば好きなときにあの人に会いに行けるのにね」
『……!』
「……起きた?」
『あの、ひと?』
「昨日、大学で会った、有馬幸太郎。好きなんでしょ?」
「……有馬。そうか、有馬というの……」
 真陰は阿沙加も一人の女の子であるの言うことをわかってあげたかった。恋だってするし、悩みだってある。阿沙加は精霊としての任務とか責任とか、一人で背負うには重過ぎるものを背負っている。転生してまでそんなものにこだわる必要はないのだと、わからせてあげたいのだ。
「ねぇ、阿沙加。これからは、できるだけあなたとこの体を入れ替わって、あの人と会わせてあげようと思っているの。だから……」
 長老を説得する方法を教えて欲しい。そう言おうとした真陰は、次の阿沙加の言葉に耳を疑った。
「……無駄。私が、もらう」
「……!」
 突如、真陰を痛烈な喪失感が襲う。油断していた真陰はいとも簡単に魂の表層部分を阿沙可に奪われる。
『うぅ……な、なにをするの、阿沙可』
 魂の内側から真陰が語りかける。
「もはや長老などは関係ない」
『あ、あなたは……』
「真陰、おまえが今生に降りた直後、長老は亡くなられた」
『なんですって! 長老様が!?』
「えぇ。今年の異様に早い春の訪れは長老が突然死んでしまったために起こっている異常現象」
『そんな……じゃあ、あなたは……』
「この混乱に乗じて様々な精霊が動いている。私もそのうちの一人だけど」
『いったい、なにをするつもりなの……?』
「ここで、魂を支配してこの肉体を私のものにする。そして、今度こそ……生きる」

 昼休みの大学。陽由真と真陽は学生食堂で一緒に昼食をとっていた。なんだか久々にのんびりと食事をしている気がした。
 あの日、前世の記憶を取り戻してから今日まで、あまり落ち着く日がなかった。真陽たちの前世が桜の精だとか考えなくちゃいけないことは山ほどあるけど、今日ぐらいは落ち着いたっていいだろう。だって、目の前の真陽がこんなにいきいきとしているのだから。
 そう思って陽由真は向かいの席に腰掛けている真陽を見た。自分でつくってきた弁当の包みを広げている。その様子は終始落ち着かず、陽由真とは対照的にそわそわしている感じがある。
「真陽、どうしたのさ。少し落ち着きなよ」
 ちょうちょむすびをほどくのにてこずっている真陽を見かねて陽由真が声をかける。自分が焦っていることがばれてしまった真陽は恥ずかしそうにうつむく。
「だって……」
「そりゃ、嬉しいのはわかるけどさ。真由ちゃんが目を覚ましたんだから。でも昼間のうちからこれじゃ逆に真由ちゃんが心配するよ」 「うぅ……」
 真陽はうめいた。とはいえ、陽由真の言葉が嫌味や皮肉ではなく、単なる冗談であると言うことは重々わかっている。
「抗議が終わったら、一緒に真由ちゃんのお見舞いに行こうか」
 陽由真は目の前に置かれた活火山マーボー丼を突っつきながら言う。
 だが真陽は少し困ったような表情になった。
「あの、えっと、それがね」
「何か用事?」
「ううん、そうじゃなくて。できれば、今日は私だけで行きたいなぁって」
「僕がいないほうがいい?」
 陽由真はできる限り穏やかに訊いた。
「ん……真由と、二人だけで話がしたくて」
 なるほど、と陽由真は思った。確かに真由が目覚めた昨日、真由の自由な時間を独占してしまったのは陽由真だ。真陽は真由の姉妹なんだから、久々に再会して積もる話もあるのだろう。それに、今の真由にはなるべくたくさんの人とふれあう必要がある。そう思い、陽由真は頷いて箸を置いた。
「そっか、そうだね。じゃあ、真陽一人で行っておいでよ。僕は今日は真っ直ぐ家に帰るよ」
 陽由真の言葉を聞いて、真陽は陽由真の家に押しかけた同居人のことを思い出した。
「そういえば、真陰は」
「ん?」
 すでに陽由真は活火山マーボー丼と格闘中だった。陽由真は熱すぎて辛すぎる丼を一旦置いて、答えた。
「真陰がどうしたって?」
「真陰は、その、真由のこと、どう思っているのかなって」
 陽由真は、真陰が押しかけてきた日から今までを振り返ってみた。真陰の言動は、何かに向かって一貫していたように感じる。そして真陰が何を大切にしているのかも、ここ数日でわかった気がする。
「あいつはクールだから表には出さないけど、真由ちゃんが目覚めて絶対嬉しいはずだよ。真陽も含めて、前世では三人とも桜の精だったんだろ? なら、親友じゃないか」
「桜の精、か……」
 真陽の微妙な表情の変化に、陽由真は気付いていなかった。
 陽由真の言うとおりであれば、前世に桜の精だった親友はもう一人いることになる。それが阿沙加。阿沙加も自分たちの親友、そう呼べるのだろうか。真陽たちが桜の精だった頃の阿沙加は、ちょうど今までの真陰のように、感情を表に出すことがなく何を考えているのかわからない風だった。だけど、真陰に対してだけは違った。真陽は思う。阿沙加は真陰に対してだけは親友なんだと。何が違ってもそれだけは違って欲しくないと願った。真陽は、罪悪感にも似た親しみを真陰に感じていた。

 昼休みももうすぐ終わろうかという時、陽由真が次の講義の教室に向かって廊下を歩いていると、研究室から見知った顔が出てきた。
「あ、桐生先輩!」
「ん〜? あぁ、神崎か」
 この人物は桐生悟(きりゅうさとる)。陽由真と同じバレー部の先輩で大学の三回生である。いくつか単位を落としながら進級してきたので、陽由真と同じ講義を受けることもある。
「たまには部活にも顔出せよ」
 桐生は高校時代からの陽由真の先輩で、ここのところの陽由真の練習不参加に関しては寛大にみてくれている。「お前にも何か事情があるんだろうな」という、話のわかる先輩だ。
「すいません、落ち着いたらまた部活にも行きますんで」
 そこまでいって、今日は特に用事がないことを思い出した。
「あ、じゃあ、今日行きますわ」
「はぁ? 今日は練習日じゃないだろ」
「あ、そっか」
 あまり練習に出ていないので、練習日を失念してしまっていたらしい。だが桐生はすぐに笑って答えた。
「ま、いいぜ。俺も最近お前のバックアタック拾ってないからなまってたんだよ。二人だけで自主トレといくか」
「あ、はい! すみません、わざわざ」
「いいってことよ。じゃ、また後でな。俺は腹減ったから学食行く」
「え、先輩、次の講義は? 確か一緒でしたよね?」
「昼休みいっぱい使ってゼミされたらたまんねぇよ。サボりだ、サボり。神崎、出席カードだけ書いて提出しておいてくれ」
「は、はぁ……」
 そのまま桐生は陽由真とは逆方向に歩いて行った。あれは完全にサボる気だ。
「相変わらず、エネルギッシュな人だなぁ」
 陽由真は苦笑いと共にため息を吐いた。自分も二年後はああなるんだろうかと思うと心配半分期待半分。いや、心配のほうが少し大きいか。どっちにしても、おもしろい先輩を持ったものだと思った。

 小泉病院屋上。
そこに立っているのは真陰。いや、真陰の身体を借りた阿沙加と言ったほうが適切か。陣はすでに斬ってある。あとは術を唱えるだけで阿沙加の願いはかなうはずだ。
春の暖かい風がゆっくりと吹き抜けてゆく。真陰の短く切りそろえられた髪を揺らす。阿沙加はすでに一時間以上もそこに立っていた。
すべてが割り切れるとは言わない。そんなことを言っては嘘になる。だけど、どうしようもないことだってある。
「生きたい……」
 真陰の声を借りて、阿沙加がつぶやく。
「生きたい。そして、手に入れたい」
 それは、阿沙加の願い。薄幸で、使命に縛り付けられて過ごしてきた千年間。その果てに、彼女はどうしてもつかみたいものを見つけた。そのためには、彼女は存在しなければならない。
「……」
 ゆっくりと、呪文を唱えはじめた。それなりの時間と労力を要する。集中しなければならない。
 だが……一抹の不安が、彼女を襲った。

「おねえちゃん。テレビ見てもいいよ?」
「ううん、いいの」
「そっか。じゃあ……」
「気を遣ってくれなくてもいいわよ。逆の立場なんだから」
 そう言いながら真陽は、買ってきた物の中からヨーグルトを取り出して真由に差し出した。真由はまだ体が回復していないので、あまり固いものは食べられないのだ。
「ちょっと待っててね、今リンゴむくから」
「う、うん……」
 真由はベッドに寝ながら布団から顔だけ出して真陽を見た。
 ついこの間まであった、いや、まるで昨日もその姿を見たかと思うぐらい、その姿は記憶に新しかった。
 なのに、真由は空白の数ヶ月間を過ごしてきた。その間に、自分も、周囲の状況も随分と変わっていた。目立ったところでは、目覚めた瞬間から、前世の記憶があるのだ。だが、真由個人にとって、それはさほど重要なことではなかった。大事なのは、自分が眠っていた間に姉に、そして陽由真に起こった出来事である。
 昨日と今日の状況を見る限り、真陽と陽由真はうまくいっているらしい。そう思うと真由は、どうしてもはがゆさを覚える。
 自分がもしあの日、陽由真に想いを打ち明けた日、交通事故になど遭わずに無事に今までの時間を過ごせていたら、今陽由真の隣に自分がいる確率は少しでもあるのだろうか。どうしても、「もし」「たら」「れば」の並列時間世界に思いを馳せてしまう。
 こんなことではいけない。折角目を覚まして自分というものを取り戻したのだから、今という時間を、自分に与えられた時間をしっかりと生きなければならない。真由はそう強く思うと同時に、しかし自分の想い、願いを諦めきれずにいる。
 想い続けるのは自由、と言うのは簡単だが、実際にずっと想い続けるだけというのはかなり苦痛である。苦しいし、もどかしいし、何より虚しい。かなわぬ恋とわかっていながらも相手を想い続けられる少女漫画の主人公に軽い嫉妬を覚えた。
「どうしたの、真由? 体、だるい?」
 真陽が心配そうに真由の顔を覗き込んでいる。どうやら考えにふけっているうちに深刻な表情をしていたらしい。
 真由はすぐさま即席の笑顔を作ると、元気に否定した。
「なんでもないよ。あ、リンゴむけたんだ。いただきまーす」
 真由はベッドから上半身だけを起こして、ベッドに備え付けられたテーブルの上のフォークを手に取り、皿に盛り付けられたリンゴの切り身を一つ、口の中へ放り込んだ。
「んー、やっぱり新鮮なリンゴはおいしい」
 真由が心底から美味しそうに言うと、真陽からも心配そうな表情は消え、嬉しそうに微笑んだ。
「奮発してちょっと高いリンゴを買ってきたのよ」
「へー、どうりでおいしいと思った。ありがと、おねえちゃん」
 ありがとう。おねえちゃん。
 昨日までは真由の口から再びこのような言葉が聞けるとは夢にも思っていなかった真陽は、真由の言葉を聞いて目頭が熱くなる気がした。真由に気付かれないように、ごほ、と咳き込む。
「おねえちゃん、大丈夫? 風邪?」
「ん、ううん。なんでもないよ、真由」
「そう。よかった、お姉ちゃん、いつもなんか病人っぽくて心配なんだもん」
 真由の心配だという言葉を聞いて、真陽はもう耐えられなかった。
「真由……わた……しん、こっち……」
 心配なのはこっちのほうだ。涙に遮られて、最後まで口にすることはできなかったが、言いたいことは真由にちゃんと伝わっているようだ。
 真陽はそのまま、うつむいてひっくひっくとしゃくりあげている。つらいのは真由も同じだから、真由に頼ってはいけない。真陽の最低限のラインがそこにはあった。
 だが、真由は真陽の首に腕を回し、そのまま真陽の身体をベッドに引き込んだ。
「真由っ……」
 どさっ、と二人でベッドに倒れこむ形になる。
 真由は姉の体重が自分にのしかかってくるのを感じた。
「おねえちゃん。私、幸せだよ」
 二人の顔は、鼻先がくっつきそうなくらい近くにあった。
「私のために泣いてくれるおねえちゃんや、ひゅーまさんや、なんだかんだいって真陰ちゃんも私のこと心配してくれてたみたいだし……もちろん、阿沙加ちゃんも」
「真由ぅ……」
 驚きで一度は静まりかけた真陽の嗚咽が再び始まった。今度は大粒の涙を伴って。その涙は、真陽の頬から真由の頬へと落ちていく。真由は、この涙の温かさがおねえちゃんのあたたかさなんだ、と思った。
「おねえちゃん……」
 真由が腕にぎゅっと力を込める。姉を、大好きな姉をもっと近くで感じていたかった。自然と真陽もそれに応じる。
「真由……私、わたし……よかった、まゆぅ……」
 真由は真陽の頭を優しく撫でた。
 昨日大泣きしたのは自分だから、今日は真陽の番だと思った。

 再び屋上。
 真陰の身体を借りた阿沙加は、膝を地面について速い周期で深呼吸を繰り返していた。なんとか鼓動が速くなるのを抑えている。
「はあぁ、はぁぁ……」
 結果的に、阿沙加の画策は失敗に終わった。原因は三つ。
 そのうち二つは真由に関することだから阿沙加にはどうしようもないことだった。だが、理由の一つに、阿沙加の意志があった。
「私は……生きたい。でも……真陰を、失いたくはない……」
 矛盾する彼女の願い。両方をとる道を探す時間も余裕も彼女にはない。ならばどちらかを切り捨てねばならない。しかし阿沙加はどちらも切り捨てられなかった。どちらも、彼女にとって、かけがえようのない、大切なものだから。