『桜の季節』現代浪漫編第五話「目を開いて、両手を広げて<夜の部>」

 民家の窓から漂ってくるカレーだかシチューだかの匂いが鼻をつつく。
 空が暗くなり始めた頃、陽由真は自宅への帰り道を左足を若干引きずり気味に歩いていた。
「まったく、相変わらず桐生先輩はシゴキがきついんだから」
「だから悪かったって。おまえがそこまで体力落ちてるなんて思ってなかったからさ」
 冷ややかに笑いながら言う陽由真に寄り添うようにして歩く桐生悟が申し訳なさそうに笑いながら言う。
 ことの経緯はこうだ。本日の夕方、陽由真と桐生の両名は誰も使っていない体育館でバレーボールの練習を二人だけでしていた。桐生の希望で陽由真はバックアタックばかりさせられていた。とはいえ、桐生がレシーブをするので陽由真にトスを上げる人間がいない。仕方なく、「陽由真のサーブを桐生がレシーブミスしてダイレクトで返ったのを陽由真がバックアタックで打ち込み、それを桐生がレシーブをする」という設定の、かなり無茶な練習をやっていた。当然、ここ最近の練習を休みがちだった陽由真は体力が落ちている上にサーブを打った次の瞬間にはバックアタックを打つという激しい練習なので、本人にも予想外の早さで疲れが見えはじめてきた。しかし、桐生のほうはレシーブをするだけというこれはこれで集中力を要するが体力的に陽由真よりも楽なため、陽由真が疲れはじめていてもまったく疲れが見えなかった。そこで久々に陽由真と練習ができて気分を良くした桐生は、疲れた陽由真に「もっともっと」とこの無茶な練習を続けさせた。結果、陽由真はバックアタック時のジャンプ中に足をもつれさせ、左足首をひねってしまったのだ。
 とまぁ、そんなわけで現在陽由真は人並みに飛んだり走ったりといったことができないでいる。別段急ぐ用事がない陽由真はそれほど気にしてはいないが足首の痛みが気にならないといえば嘘になる。
 だがさっきの陽由真の言葉は別に桐生を批判してのことではない。仲の良い先輩後輩同士のじゃれあいみたいなものである。もちろんそんなことは桐生にもわかっているからこそ謝りながらも笑いを浮かべたのだ。
「でも気をつけろよ、神崎。スポーツ選手にとって怪我は天敵だからな。体を鍛えるスポーツで体を壊してちゃ本末転倒だしな。まぁでも、部活を休む理由ができたじゃないか、これで皆にうるさく言われずに済むだろ……って、聞いてるか?」
 陽由真は前方を真っ直ぐ見ていて横にいる桐生の話が耳に入っていない。
「なに見てんだ?」
 桐生も陽由真につられて前を見た。そこには小泉総合病院が見えた。病院の玄関から一人の女性が出てくるのが見えた。それは真陽なのだが、桐生は面識がない。ここからは表情までは読み取れないが、だけど、一度見ただけで顔を覚えてしまうような美人だと思った。
 陽由真が歩みを止めたので、陽由真がうわの空だった原因がその女性にあるということが桐生にもわかった。
「なんだ、あの人と知り合いか?」
「えぇ、幼馴染みなんです」
「へー、俺より年下なんだ、あの娘。かわいいじゃん、彼女か?」
「いや、そんなんじゃないとは思いますけどね」
 陽由真が苦笑混じりに答えると、桐生はおもしろそうに追及してくる。
「じゃあ、おまえのほうは好きなんだ?」
「まぁ、そりゃ」
 多少、ばつが悪そうに陽由真はつぶやいた。それは桐生に聞こえたかわからないぐらい控えめな声だったが、その態度から答えは容易に想像できた。
「じゃあ声かけてくれば?」
 気を利かせて桐生がアゴで「行ってきな」と言う。だが陽由真は歩き出そうとはしなかった。
「今日は、いいんです」
「どうして? 彼女、行っちゃうぞ」
 親切が空回りして桐生が意外そうに訊くと、陽由真は微笑を浮かべてその場の塀にもたれかかって座り込むと目を細めて左足首をさすった。
「足を、休ませたいんですよ」
 へへへ、舌を出す陽由真はものすごくわざとらしい。桐生は今は何か会いたくない理由があるんだろうと察して、これ以上は追求しないことにした。
「そっか、ならいいけど」
 この先輩はこういう、気持ちの良い友達がいがあるから好きだ、と陽由真は思った。
 今日のところは、真陽と会わないほうがいい、と陽由真は考えたのだ。真由のお見舞いに行っていたであろう真陽の、真由との時間はたとえ病院から出て家に帰っても続いている。特に実の姉妹なのだから自分よりも感じることが多いのだろう。それを今自分が出ていくことは、なんと言うのだろうか、静かな泉に石を投げ込むというか、波長を乱すというか、とにかくそういう邪魔をする気にはなれなかった。
 真陽が見えなくなると、桐生は腕時計を見ながら「どうしようか」と言った。
「俺、家まで送って行ったほうがいいか?」
 陽由真の足を見て言うその目は本当に気遣ってくれているようだ。だが、実際に歩けないほどでもないので陽由真は平気だと言う代わりにすっくと立ち上がった。空腹で多少の立ちくらみはしたが。
「いえ、この通り自分で歩けますよ」
 そう言って陽由真は歩き出してみせた。これで桐生も安心したようだった。
「じゃ、俺こっちだから。気をつけて帰れよ」
「えぇ。先輩も、気をつけて。さよなら」
 お互いに手を振って病院前のT字路で別れた。
 ふと見上げた真由の病室はまだ明かりがついていた。思えばまだ面会時間は終了していないはずだから今から行けば真由に会える。しかし陽由真はそのまま歩みを止めなかった。
「……今日は、やめとくか」
 さっき、真陽と会わないことにした理由と同じだ。真由にとっても、真陽と会った時間は今もまだ続いているはずだった。やはりそれを邪魔することはしたくない。
 道の端に転がっていた空き缶を拾って自販機横のゴミ箱に投げ入れるとカコンという音が日没直後の静かな住宅街に心地良く響いた。

 帰ってきた陽由真にはなんとなく違和感があった。というよりも、懐かしさを感じた。既視感とでも言うべきか。鍵を開けた瞬間から、家の中に誰もいないことがわかった。
「真陰」
 いないとわかっているが、それでも呼びかけてみる。
「……」
  だが、帰ってくるのは静寂のみ。やはり陽由真の直感どおり、家の中には誰もいないようだ。
  いつものことだ。家に帰ってきて誰もいなくて、一人で夕食を用意して食べて、勉強やテレビもそこそこに眠りにつくなんてことは、陽由真にとって日常茶飯事のはずだ。
 ……だけど、この胸の中をよぎる空虚感はなんだろう。
 その答えはすでに出ていた。家の中に、誰もいないことだ。
 陽由真はリビングに入り、明かりをつけた。テーブルの上は綺麗に拭かれていて、食事の用意が置いてあるわけでもない。
 それから陽由真は真陰の寝室をのぞいてみた。襖をそっと開けると、中の様子がわからないくらいに真っ暗だった。
 すでに出ていた答えは、そこで、ようやく実感となって陽由真に襲いかかった。
 いや、答えは限定されたといったほうがいい。誰もいないからではなく、真陰がいないから。他の誰でもない、真陰が目の前にいなかった。
 陽由真の中で真陰は、彼が思っていた以上に大きな存在になっているらしかった。たかが二日間、されど二日間、この家で一緒に暮らしたという事実は、陽由真にとって何事にも代えられない真実なのだ。
 自分の鼻をすする音が聞こえた。どうやら自分は泣いているらしい。陽由真はぼんやりとそんなことを思った。頬を拭うと、手の甲に涙が付着した。そのことが彼に泣いているという事実を確信させ、もう、涙は止まらなかった。
 さっそうと現れたかと思えば、妹だと言い出して居候を決め込んだ真陰。クールな言動とは裏腹のかわいらしい一面。陽由真は知らず知らずのうちに真陰に慰められていた。両親を亡くし何もかもを絶望したこの家で、たった一人のありもしない肉親を演じ自分を励ましてくれたのは他でもない真陰だったのだ。
 陽由真は真陰の存在がいかに自分に影響を及ぼしていたかを噛みしめた。そして、そっと真陰に感謝をした。

 ひとしきり嗚咽が収まると、陽由真は外出の準備をした。何のためか。それはもちろん、真陰を探すためだ。
 常識的に考えて、午後七時の段階で帰宅していないからといってそれほど心配することはないだろう。少なくとも真陰自身の行動には、心配は無用だろう。彼女は陽由真以上にしっかりとしている。
 だがそれはあくまでも、常識的に考えた場合の話だ。陽由真は忘れてはいない。真陰の裏側には、あの阿沙加がいるということを。
 陽由真は、阿沙加のこともプラスに思いたいと思っている。おそらくそれは、真陽も真由も同意見だろう。何より、阿沙加と表裏一体になっているのは他でもない真陰なのだ。真陰と阿沙加の桜の精のころの関係はよく知らないが、真陽や真由、そして真陰自身の様子を見ていれば陽由真にも見当がつく。ふたりは、並々ならない親しい間柄なのだろう、と。
 だから陽由真は、阿沙加のことも前向きに考えたいと思っている。阿沙加を敵として見たくはない。だが、実際、阿沙加が何をするか、陽由真にはまったく見当がつかなかった。だが、真陰が魂をわけあうのを良しとしている以上、少なくとも悪い手段に出たりすることはないと、いや、そんなことはあってほしくないと、願った。
 とにかく今は、真陰を探すのが先決だ。たとえ阿沙加と入れ替わってどこかで何かをしていたとしても、とりあえず接触してみないといけない。
 何か、嫌な予感がしていた。早く、行かないと。
 陽由真は何かに急かされるように靴にかかとが入らないまま家から駆け出した。

 桜が散る中、少女は風の流れのかすかな変化を感じ取った。
「……来る。四つの魂の受け皿となる、器が」
 ささやく少女は、だけど、哀しげな目をしていた。
「私は、生まれたい」
 それは、少女のはじめての自我。
「そして私は、生きたい」
 それは、少女のたったひとつの願い。
「だけど……」
 のばした手のひらに、桜の花びらが静かに落ちる。
「私は、もう……何も失いたくはない」
 それは少女の本心か。少なくとも、贅沢な欲望ではないと、少女は確信している。桜の花びらを握ると、ほんのちょっぴりだけひんやりとした。この桜が、自分を落ち着かせているようで、少しだけ嬉しかった。
「……訣別のときは近い。せめて、私は私として」
 桜の樹の幹に手のひらを重ねる。
 来るべきときを目前に、阿沙加の心は不思議と落ち着き払っていた。

 家を出た陽由真は真っ直ぐに小泉大学に向かった。なぜだかわからないけど、真陰と阿沙加と陽由真、それに真陽と真由まで絡む場所といえば、太陽桜しか思い浮かばなかった。
 考えてみればあたりまえのことだ。彼らは以前にも、太陽桜の下に集ったことがあった。そのときは悲しい結末を迎えたが、今度こそは、今生こそは、誰も悲しませちゃいけない。自分の運命は、自分で切り開く。
 真陰ならば、阿沙加ならば、太陽桜にいるはずだ。そこで、自分を待っているはず。行けば何が起こるのかはわからないが、行かないと何も起こらないということはわかる。ならば行って、できる限りのことをしよう。
 陽由真は力の限り走った。

 着いてみれば、そこは一種異様な空間を形成していた。太陽桜は自らが輝きを放ち、舞い散る桜が映画の演出のように美しい。『太陽桜は生きている』という伝説を、改めて認めざるを得ないようだ。
 その大きな桜の樹の下に、同じく光を纏った少女が立ち尽くしていた。
「真陰……」
 だが彼女が現在、真陰であるか阿沙加であるか、はっきりとはわからない。
 でも陽由真は真陰の名を呼んだとき、普段なら返ってくるはずの真陰のわずかな意志の波長がないことに気付き、目の前の少女は阿沙加であると仮定した。
「君は……阿沙加か?」
 静かに頷く少女。
「……やはりか」
「……」
 少女の呟きがあまりにも小さかったので陽由真には何を言ったのか聞き取れなかった。それでも陽由真は聞き返さず、じっと少女の口元に集中する。
「こんなことだろうと思っていた。どうせ私の思惑など、上手くいかないに決まっている。私の運命は、消滅の方向へとまっすぐ向いているのかもしれない」
 淡々と話す少女。その瞳は、何も映していないとさえ錯覚させる。
「この時点で、私の計画は水の泡。いや、もっと、ずっと以前から、失敗していたのかもしれない」
「どうしたんだ、阿沙加。なにがあったんだ?」
「なにも……そう、なにもなかった。私は、なにもできなかった……」
 少女の瞳に、少しずつだが、哀しみの色が混ざりはじめる。
「私は、永遠を求めていた。永遠に続く時間が欲しかった。輪廻のたびに人と人とが別れ、それまで互いを結び付けていた鎖が切られてしまうのは、我慢ならなかった。この人とずっと一緒にいたいと思っても、ひとたび輪廻の輪をくぐればすでに赤の他人。私は、永遠に続く絆が欲しかった。そんなものは、この世に生きていては手に入らないと思った。私は、人以外のものに永遠を見出そうとした。そうして行き着いたのが、永久の命を持つ、精霊」
「……だから、桜の精になったのか」
「精霊になれば、別れなどはないと思った。永遠が手に入ると思った」
 けれどそれは違っていた。少女は儚げに言った。
「そこには永遠なんてなかった。あったのは永久に続く苦しみと悲しみだけ。千年の間、任務に忠実に働いてきただけ。誰との別れもなければ、出会うことすらない」
 でも、と少女は続ける。
「精霊になることで一つだけわかったことがある。それは、生きていたときには見えなかったもの……運命の糸」
 運命の糸。
 それは、目には見えない、人と人とをつなぐ絆の象徴。生まれ、死に、生まれ、また死んでも固く結ばれた、生きたという証。それがあるから、人はまた巡り会える。それがあるから、生きることは決して無駄ではなくなる。
「私は、私が一番欲しかったものを、すでに持っていたことに気付かずに、この手でかなぐり捨ててしまった。永遠なんていう、幻想を求めて」
 少女の声には抑揚がなかった。情のこもっていない、というのとはあまりにもかけ離れた平坦さ。哀しみという色のみで彩られた音。
「あるとき私たちはあくまで任務の途中に生きている陽由真に出会った。正確には、真陽と真由が、と言うべきか。私はあの時、陽由真を利用しようとした」
「僕を……?」
「あの時点で真陽も真由も……真陰ですらも、陽由真に心を許していた。下界で存在するためのかりそめのものとはいえ三人共に魂は確実に存在していた。魂の受け皿となる器も、三人と同じ場所にあった」
「ま、待てよ……何の話をしてるんだ?」
「平安の世。あの時、長老の命を受けた私は陽由真たちを輪廻の鎖の中へ閉じ込めた……結果的には」
「結果的に? でも、それが長老の命令だったんだろ? だったら、阿沙加は本当は、何をしようとしていたんだ?」
「生まれようとしていた、この世に。そして、もう一度生きようとしていた。長く精霊を続けていた私は、人として生きることが恋しくなった。だから、もう一度人間として、生涯をまっとうしたいと考えた。そこに、絶好の機会が巡ってきた」
「それが……あの時?」
 少女は答えない。答えないことが肯定しているのだとでも言うかのように、話を続ける。
「だから私は、実際の魂である陽由真に他の三人の魂を共鳴させ、その強大な霊力によって精霊界の結界を破り、下界に堕ちようとした。下界に堕ちてしまえば、長老とはいえ直接関与できることはないから。そこまでしてでも、私は魂を手に入れたかった。完全に条件はそろっていた。だけどそこで、思わぬ邪魔が入った」
 はじめて、少女の表情が歪んだ。
「それが、真陰だった。真陰は、とっさに私の思惑に気付いて、自分の身を……魂を呈して他の三人を庇った。そのせいで、私の魂への干渉は陽由真まで届かずに、失敗に終わった」
「もし、成功していたら……僕たちはどうなっていたんだ?」
「魂が磨耗し、おそらくは消滅していた」
「……」
 陽由真は今の阿沙加の話をにわかには信じられなかった。あのときの阿沙加が、そんな恐ろしいことをしようとしていたなんて。
「私の干渉は直接真陰の魂を襲った。結果、私は真陰の魂を半分だけ乗っ取るという形になった。真陰は干渉によってふくれあがった霊力に気付くとそれを利用して真陽と真由と真陰の魂を具現化した。でも、私はそのことで光明が見えた気がした。裏側に隠れる直前の最後の力を使って私は自分たちを輪廻の鎖に閉じ込めた。今後、何度生まれ変わっても、私たち四人は必ず近しい仲となる、強力な運命の糸をつくった」
 そのへんの話は真陰から聞いて知っている。だが、阿沙加ほど詳しく知っているわけではなかった。
「真陰は、そのことを知っていたのか……」
 陽由真の呟きは少女には届かない。
少女は伏し目がちだったのを直し、陽由真と直面した。
「私は再び機会をうかがっていた。四人がそろって転生すれば、必ず機会は巡ってくるはずだと信じて。そして、千年経った今、ようやく好機はやってきた……かに見えた」
 陽由真に見えた少女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……こうやって、感情によって生まれ出る涙さえもコントロールできるようになった。自分の体じゃないとはいえ、半分は自分のものにした。そして……今生に未練も出来上がった。もう、後戻りはできないし、これ以上先に進んでしまうこともできない」
 少女の声は、徐々に抑揚のある、感情的な声に変わってきていた。
「私は状況を作った。私の力は運命を司るもの。すべての事象にはその結果に行き着くための原因がある。私はその原因を変えるために因果律に細工をした。私たち四人に起こる事象すべての原因を、この世界の意志レベルまで広げた。原因が変われば当然、結果も変わる。すべてはおおむね予定通りにいった。陽由真の両親は他界し、それによって陽由真は真陽に心を許した。真陽と真由の絆は特別強かったから、私が何もしなくても再び姉妹として生まれてきた。私が陽由真と接触するだけで、真陰も陽由真と接触せざるを得ない。そして……真由が事故に遭うことで、必要な素材は病室という狭い空間に集まる」
 そう言われた瞬間、陽由真は脳髄に雷撃が疾った気がした。
 手のひらは汗で滲んで握っても全然握ったつもりがしない。
 おちつけ。
 落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け!
 肩から先ががちがちと震えた。膝も立っているのがやっとなぐらいにおびえている。なのに、首から上はまるで熱湯をかけられたかのように熱い。
 ぎり、という音が聞こえた。知らず知らずのうちに歯を食いしばっていたようだ。その力が強かったのか、歯茎から出血するのを感じた。口の中で血の味がして、そこで陽由真の頭はやっと幾分か落ち着きを取り戻したようだった。
「あ……さ、か……」
 歯ががちがち震えてうまく喋ることができない。
 陽由真は必死に現実を理解しようとした。しかし、そうすればするほど、彼の考えたくないところに真実がある気がした。
 つまり、両親が死んだ原因は、陽由真が孤独な青春を過ごした原因は……真由が事故に遭った原因は、すべて目の前の少女にあるということで……。
「でも落ち着いて」
 少女のその一言で、無意識に殴りかかろうとする体を押さえ込むことができた。
「私のその思惑も、結局すべては失敗に終わった。私の計画は、病室という空間を使って平安のときと同じことをしようというもの。最初に四人そろったときは真陰に体の主導権があった。昨日もそう。でも、今日はまだ明るいうちからこの体の主導権を握ることができた。もう、時間がなかったから、今日しかなかった」
「時間が、ない……今日しか」
 その言葉には違和感があったが、陽由真はそのまま少女の話に耳を傾けた。
「でも、最後の最後の機会も、失敗に終わった。……原因は三つ、一つ目は……」
 少女はおもむろに空を仰いだ。輝きを放つ太陽桜の下から見上げる空はうっすらと群青色に見える。少女が見上げた方向は、今は大学のレポートでも作成しているであろう、真陽の家の方向。
「真陽と真由の絆が、私が思っていた以上に強かったということ」
 器に魂を共鳴させるためには、一瞬でもいいから魂同士の絆を断たなければならない。だが、真陽と真由、永遠の姉妹の絆は誰よりも強く、たとえ一瞬の間でも、切れることはなかったのだ。
「そして二つ目。これは私にとっても不可解なのだけれど……陽由真がいなかったこと」
 そう、器がなければ当然、それに共鳴させることなどできやしない。
「今、ここで教えて。陽由真は何故、今日、病室に来なかったのかを」
「……そりゃ、あの二人には、二人だけの時間が必要なんじゃないかと思ったからだよ。真陰が僕のことを兄だと思ってくれて僕も嬉しいし、なんだか兄弟とか姉妹とか、そういうのって大事だななんて考えてたし」
 それを聞いて、少女はようやく納得したような面持ちになってその顔に笑みを浮かべた。
「ふふ……やはりそうか」
「やはり?」
「陽由真は真陰の影響で今日、病室に行くことをやめた。邪魔者がいないことにより、姉妹の絆はより強まった……私の行動を邪魔する事象の原因を突き詰めれば、すべて真陰に行き着くわけか」
 ため息交じりのような声。疲れたような声。そして、どこかあたたかみのある声。
「結局、私のしていたことはただの一人相撲だった……私はこの体で凶行を企み、そして私はこの体にそれを阻まれた……」
「阿沙加……」
 陽由真は少女に同情の念を抱いた。だが、簡単に同情の言葉など、かけられようはずもない。
「……先に謝っておく、陽由真。陽由真がここに来るように仕向けたのも私。伝言役になってほしくて」
「伝言……真陰にか?」
「そう。もう時間がないから私が消える前に。陽由真には最後まで悪いことをしっぱなしだと思っている。許してくれとは言わない。むしろ、許さないでほしい。私という、阿沙加という一人の人間がいたことを、ずっと覚えていて憎んでいてほしい」
「待てよ。時間がないとか、消えるとか、どういう……」
「私は間もなく消滅する」
「っ!」
 陽由真は絶句した。
「消滅って、阿沙加……」
「大丈夫、私は消えても真陰とこの体は残るから安心して。平穏な生活が戻るだけ」
 少女は柔らかな笑みを浮かべていた。
「私という概念の存在自体が磨耗している。無理をしすぎたから」
「存在って……」
 だから、さっきのようなことを言ったのか。存在を覚えておいてほしいから憎んでほしいなんて、言ったのか。だとしたら、そんなの哀しすぎる。
「私と真陰は表裏一体だから、今は完全に眠っている真陰に話しかけることはできない。だから、私が消滅して、眠っていた真陰が目覚めたら、私が言うことを伝えてほしい。ごめんなさい、私はきっと真陰に嫌われているでしょうけど、私は真陰のことが、好きだっ……たよ、って……」
 最後のほうは涙が込み上げてきてうまく言うことができなかった。しかし、その内容は十分、陽由真に伝わっていた。
「ちがう!」
 唐突に、陽由真は否定した。
「ちがうだろ、そんなの! 真陰は阿沙加のこと、嫌ってなんかいないよ!」
 思わぬ反論に少女は呆然となっている。
「真陰から聞いたよ。おまえたち、親友だったんだろ? なら、そんなこと言うなよ」
「でも、私はその親友である真陰をも犠牲にしようと……」
「だから! 真陰は自分が犠牲になったんだろう!?」
「ッ……!」
 陽由真の気迫に、少女はものも言えない。
「平安のときを思い出せよ。阿沙加、言ったじゃないか。真陰がみんなを庇ったって。あれは阿沙加の邪魔をするためにやったんじゃないよ。親友が道を踏み外そうとしているのを止めたんじゃないか! 自分の魂を楯にして。親友じゃなきゃ、そこまでできないよ」
「……」
 少女は、何を言っていいのかわからなかった。目の前の青年は、本来自分を憎んでしかるべきなのに、それなのに、今、自分を励ましている。
「そりゃ、僕だっておまえのことは許せないよ。だけど、人を憎むのは性に合わないんだ。だから、真陰と真陽と真由の友達に、阿沙加って奴がいたって、そう、覚えておいてやるよ。幸い、僕は阿沙加とはあんまり親しくないから、泣かずにいられる。笑顔で見送ってやるよ。……真陰たちが悲しむ姿を見る役は、ちょっぴり嫌だけどね、でも僕が担うよ」
「あ……」
 青年の優しい言葉に、胸が詰まって、少女は嗚咽と共に泣きはじめた。
「あと、阿沙加。君は嘘をついているよ」
「……?」
「さっきの計画が失敗した理由ってやつさ。あれ、二つとも嘘だろう? たとえ真陽と真由の絆が今より弱かったとしても、たとえ病室に僕がいたとしても、結局計画は失敗に終わっていたよ。本当の原因は三つ目だったんだ。さっきは言ってくれなかったけど、僕にもわかったよ」
「……私」
「うん。阿沙加自身が原因なんだ。君が、自分の意志で、真陽と、真由と、そして、親友である真陰を犠牲にしたくはないと願ったから、計画は失敗したんだよ。誰がなんと言おうと、この先の世に君がいなくとも、そこには確かに君の、阿沙加という一人の人間の自我があった。これだけは、僕が保障するよ」
 ……あぁ、なんて。少女は思った。これほどの救いはない。
「……陽由真。お願いがある、聞いてもらえる?」
「なんだい?」
「真陰への伝言を、変更したい」
「なんて?」
 少女は顔をあげて答えた。
「ありがとう」
 最後は、つきぬけるような笑顔だった。

 阿沙加の存在が抜け、真陰が気絶してから目覚めるまで、それほど時間はかからなかった。目覚めた真陰は、陽由真を見るなり彼の胸で泣いた。どうやら、裏側で一部始終を聞いていたらしい。
 ひとしきり泣き終えると、真陰は何事もなかったように立ち上がり、
「なにしてるの、帰るわよ」
 と、クールに言い放って大学を出て行った。
 太陽桜は、もう、輝きを失っていた。
 陽由真が後ろから近づくと、真陰は顔を見ずに言った。
「阿沙加は……救われたかな?」
 陽由真は魂の受け皿として、一人の人間として、そして兄として言った。
「あぁ、きっとね」
「何故そんなに自信があるの?」
 真陰の問いに、陽由真はへへ、と笑って答えた。
「だってさ、桜の精の長老ってもう死んだんだろ?」
「えぇ……そのはずだけど」
「だったら阿沙加にはもう縛りはないはずだしさ。それに、俺は願ってるんだ。この世界に阿沙加が生まれ変るように、って。だからさ、真陰も願ったらいいよ。僕らの魂って、そういう力があるんだろ?」
「……そうね」
「わかってくれた?」
「あなたが底なしに前向きで能天気ってことがね」
「ぇー!」
「置いていくわよ、そんなところで激しいリアクションしないで、恥ずかしいから」
 陽由真を無視して歩く真陰。その内心では、陽由真の言葉に救われていた。
 願えばいい。底なしにポジティブな考え、だがそれも悪くはないと思える。願い、願い続けていれば、この星のどこかでまた会うことができるかもしれないから。今度は、お互いに、一人の人間として。

                    <現代浪漫編・完>

<あとがき>
 一応、これで一つの区切りがつきました。『桜の季節』のお話がすべて終わったわけではないですけど、現代浪漫編はこれで終わりです。この先が続くかどうかはまだわかりませんが、余力があれば書きたいと思います。まだ消化していないエピソードも山ほどありますしね(ぉぃ)。