もっともっと……。この牝奴隷に自分の置かれている状況という者を教えてあげないといけない。御主人様に歯向かうとどういう目に遭うか、身をもって知ってもらわないといけない。一生抜け切らない傷を心の底に植えつけてやる―――――
「……!」
 そこまで考えたところで、僕の思考は停止した。そしてその直後、一瞬だけ誠太郎の顔が脳裏をよぎった。

 百地誠太郎。僕の悪友であり、もっとも親しい友人だ。僕の恋愛相談に乗ってくれたり、予測もしないところで女の子とめぐり合わせてくれたりと、あいつには世話になりっぱなしだ。
 写真部のエースで、良質の被写体(=かわいい女の子)を捜して校内を走り回るあいつの姿は、方向性すら間違ってはいるが、確かに輝いている。
 その輝きを、僕は今、消し去ろうとしている。
 誠太郎は、校内の女のコの情報に詳しい。僕が廊下で知らない女の子とぶつかって惚けたりしていると、いつのまにか近寄ってきて「あれはどこどこの組のだれだれだ」なんていとも容易く教えてくれる。
 その誠太郎が、桐屋さんのことについて教えてくれるときだけ、なんだか様子が違ったんだ。
 あれは、桐屋さんと知り合って間もない頃だった。彼女のことをほとんど知らなかった僕は、彼女の趣味でもわからないかと思い、誠太郎に話し掛けてみた。
 だけど、誠太郎から帰ってきた答えは意外なものだった。
「あのコは、やめといたほうがいい」
 誠太郎曰く、桐屋さんは授業をサボることが多く、いつも一人でいるような少し問題のある生徒だというのだ。
 思えばこのときから僕はどうかしていたのかもしれない。誠太郎がそう言ったときの顔は、ひどくつらそうに、切なそうに見えた。このとき僕は、誠太郎と桐屋さんとの間になんらかの――一方的かどうかは考慮に入れずに――つながりがあると確信したんだ。
 あれからどうも僕はおかしくなったみたいだった。夏の暑さにやられたわけじゃない、とっくに夏になってるんだ。でも、どうにも胸のあたりがむかむかする。イライラが、どうしてもおさまらないときがある。
 僕は帰宅部だから、こういったストレスを校内で発散してから帰る術を持ち合わせてはいない。かといって家に帰ってもるり姉にこき使われてなかなかにストレスがたまる。まあ、これはこれで楽しいこともあるのだが。
 そんな僕に引き換え、写真部という部活動をしている誠太郎は放課後になると一際輝いて見える。他聞はどうあれ、少なくとも僕にはそう見えるんだ。僕には、誠太郎が羨ましくて仕方がなかった。誠太郎のようになりたいとか、直接的な願望はなくても、せめて誠太郎が味わっているのと同等の充実感を味わいたかった。
 このときまではただの、憧れだったのかもしれない。でも、光と影が常に隣りあわせなのと同じように、プラス思考とマイナス思考だってゼロという壁を隔てて隣り合わせなんだ。憧れ、が、憎しみ、に、変わるのは時間の問題だったのかもしれない。
 いつもの帰り道、住宅街をひたすら歩いて帰るのは退屈だな、と思って、ある日僕はいつもは通らないような駅前の商店街まで足を伸ばしてみた。そこで偶然誠太郎と会って話していると、僕達の横を一陣の風が過ぎ去って行った。いや、正確に言うと、人が通り過ぎた。
 見ると、メール便だった。だが、自転車や乗っている人のシルエットになんだか見覚えがあった。
「あれは……」
 僕の言葉を遮って、誠太郎が、
「桐屋さんじゃないか」
 というと同時に、カメラのシャッターを切っていた。
「おい、それは盗撮っていうんじゃないのか?」
「内緒にしといてくれよ。現像できたら一枚焼き増ししてやるから」
「え、くれるの?」
「あぁ、いいよ」
 そう言ってくれた誠太郎の笑顔は、いやに爽やかだった。
 その笑顔を見た途端、何もかもをぶち壊したくなった。目の前の笑顔も、その笑顔に繋がってる一本の線も、その線の向こう側にある源も――――。

 そう思って、今日、計画を実行に移した。でも、こんな時になって、手が動かなくなってしまった。誠太郎のあの笑顔を思い出してしまった。そして目の前の女のコの、苦痛に歪む表情を。
 これは、恨みつらみの発散のためだった。ただそれだけのつもりだった。
 でも、本当は違った。
 桐屋さんに卑怯だのなんだのとけなされて、本気で悔しがってる自分がいる。桐屋さんがつらい思いをしているのを我慢できない自分がいる。桐屋さんに酷いことをしている自分を嫌悪している自分がいる――――。
 頭の中がゴチャゴチャで何をどうしたらいいのかわからなかった。
「……?」
 僕の腕の中で桐屋さんは僕の行動を測りかねている。桐屋さんは運動神経はいいはずだから、今この隙に僕に蹴りの一撃でも浴びせてカメラと写真を奪って逃げるくらいはできるはずだ。でも、写真にはネガがあるのだということぐらい、もちろんわかっているのだろうか、それとも心酔しているのか、その場から動こうとはしなかった。
「桐屋さん……」
 僕はやっとの思いで声を振り絞り、手から力を抜き、桐屋さんから一歩離れた。
 桐屋さんは驚いたようで、すぐにこちらを向いて身構えた。だけど、もう僕にはこれ以上何かしようっていう気力は残っていない。たとえ頼まれたとしても。
「……どうしたの?」
 明らかに様子のおかしい僕に気付いたのだろうか。桐屋さんは落ち着くと、心配そうに声をかけてきた。
 なんでだ。なんでさっきまできみを凌辱しようとしていた男にそんあに優しく接することができるんだ。優しさに、涙が出そうになったが、ぐっとこらえた。僕は、桐屋さんの顔も見ることができなかった。
 僕はそのまま後ずさり、体育館の壁に背中を預けると、もう膝にも力が入らなくなり、その場に座り込んでしまった。
 心配そうにこちらを見る桐屋さんを見上げずに、僕は言った。
「もう、いい」
「え?」
「もう、いいから。行って、いいから」
 そう言うと、桐屋さんはしばらく迷ってその場でおろおろとしていたが、やがて「そ、それじゃ」なんてうつむいて言うと、校舎に戻って行った。去り際に、一度だけこちらに振り返ったけど、僕は気付かないふりをした。
 桐屋さんの気配が消えた。頭の中が真っ白だ。いや、さっきのゴチャゴチャの中心部分にあったものが、はっきりと白の中に目立っていた。
 ぜんぶ、何もかも、僕の勘違いだったんだ。
 まさか、僕が、桐屋さんを好きになっていたなんて……。




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