最近、桐屋さんの様子がなんだかおかしい。休み時間に廊下で見かけると、いつもなら気だるそうに保健室か校舎外へ向かうのに、最近は踊り場でそわそわとしながらうちのクラスの様子をうかがっているようだ。
何か、気になることでもあるんだろうか、うちのクラスに。俺は、桐屋さんの視線の先がすごく気になった。
俺、百地誠太郎は、桐屋さんのことが好きだ。写真部のエースで、数々の女の子を(勝手に)被写体にしてる俺だが、自分でも意外なほどに奥手なのだ。その証拠に、俺が今恋をしている桐屋さんの写真は過去に一枚しか撮ったことがない。ある日、森崎と一緒に帰ってると、駅前で桐屋さんがメール便のバイトをしてるのを見かけた。そのときの、自転車に乗って街を自在に走り回る桐屋さんの姿は、とても輝いて見えた。俺は、無意識のうちにシャッターを切っていたんだ。……勝手に写真を撮ったことに、少し罪悪感を覚えた。
森崎というのは、俺の友達の森崎勇太。こいつは帰宅部で、特に特徴もない奴だけど、なぜだか憎めない奴で、俺の写真部としての情報網をよくこいつの恋愛のために提供してやったりもする。
そうそう。おかしいと言えば、この森崎も最近なんだか辺だ。俺に対して妙に他人行儀だ。以前は、もっとバカな冗談を言い合っていたものだが、最近はあいつのほうから話を切り上げることが多い。なにか悩み事でもあるのだろうか。そういえば森崎は、桐屋さんに対しても何か妙だ。
森崎が俺に桐屋さんについて訊いてきたときはいささか驚いた。もしかしたらこいつは、俺と同じく桐屋さんのことが好きなのではないか、そんな思いが頭をよぎった。だから、あんなことを言ってしまったのかもしれない。
「あの娘は、やめといたほうがいい」
今から思えば、桐屋さんに関する悪い噂から、もっともらしいものを選んで森崎に話していた。すると、森崎は嫌そうな顔をしながらも、「そうだな」と言った。桐屋さんは見た目は文句なしにかわいいから、こいつも外見だけみてるのかな、とか思って、俺は安心した。俺は心底思う。自分は卑怯な奴だ、と。
この一件で、森崎は桐屋さんからは手を退くだろうと思い、軽い気持ちで桐屋さんの写真の焼き増しを森崎に渡した。ま、どうせかわいい娘の写真だから欲しいだけだろう、と。今思うと、桐屋さんには失礼な話だ。
……考えてみれば、桐屋さんと森崎の様子が変になったのはその次の日からだ。あの二人の間に、何かあったのだろうか。
森崎はと言えば、桐屋さんから話しかけられても無視する有り様だ。前はそんなことはなかったのだが。俺が安易に悪い噂を教えてしまったせいだろうか。
対する桐屋さんは、恥ずかしそうにもじもじしながら森崎に話し掛ける。他の人間の前では決して見せない態度だ。俺はうっすらと感じ取った。桐屋さんは、森崎のことが好きなんだろうな、と。俺のこの想いは、無駄に終わるのだろうか、と。
だけど、肝心の森崎があの調子では桐屋さんの努力のほうが無駄に終わってしまっている。本来なら心配すべき二人の異変を、俺はむしろ好都合だと想ってこの隙に二人の間に付け込もうとか、そういうことを考えてしまっている。つくづく思う、俺って卑怯だ。どうしようもなく卑怯だ。
というのがまぁ、ここ一週間ぐらいのこと。そして俺は今、放課後の駐輪場で今から帰るのだろう、桐屋さんの姿を見かけた。
駐輪場には彼女意外誰もいない。桐屋さんがきょろきょろとあたりを見回したので、俺はなぜか咄嗟に身を隠して桐屋さんの様子を覗き見た。純粋に、桐屋さんの一挙手一投足に関心があった。隠れながら、俺は今、ストーカーなんだろうな、とうっすらと思う。
桐屋さんは何をするのかと思ってみていると、彼女はその場に座り込んだ。
パンク修理でもするのかと思ったが、ぺたりといった感じで座り込んだので、気分でも悪くなったのかと思い、俺は彼女に駆け寄ろうとした。だが、俺の足は彼女の声によって制止させられることになった。
「んっ……くあぁっ」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。俺は駐輪場の入り口から桐屋さんの姿をなんとか視界にとどめた。膝から崩れ落ちそうになったが、なんとかコンクリートにしがみついて堪えた。まだ意識が理解しきっていないが、本能的にはわかっているようだった。
桐屋さんは、明らかに、自慰行為をしていた。
「う、あふぅ……」
徐々に息が荒くなっていく桐屋さん。その声には、甘い響きが混じり始めた。その音に、俺は脳が溶けそうになる。
好きな女のコが、目の前で、自慰行為をしている。この常軌を逸した状況は、俺の状況判断能力を鈍らせるのには十分だった。つい、淫らに喘ぐ桐屋さんに見惚れてしまっていた。
「あ、あ、うぁぁっ……も、りさき…くんんぅ!」
その言葉を聞いた瞬間、世界が止まった気がした。ここからでは背中しか見えないが、確かに桐屋さんは「森崎」の名前を口にした。わかっていた事実だった。しかし、現実としては認めたくないことだった。それを、好きな女の子本人の口から聞かされるなんて……。しかも、こんな状況で。
もう止まらなかった。止められなかった。おそらく、とっくに理性なんてものはどこかに飛んでいって、俺の頭はいかれちゃってるんだ、そう思うことにした。そう思ったほうが、楽だと思ったから。
息を荒げている桐屋さんに背後から近づく。特に気をつけていないので足音ですぐに桐屋さんに気付かれた。
桐屋さんがこちらに上半身だけで振り向く。
振り向いた桐屋さんは、制服が少しはだけていて、これから直に身体を触ろうかというところだった。その行為に火照ったせいか、ほのかに上気した肌、首筋に繋がる鎖骨、はだけた胸元、そして少し涙ぐんでいる瞳……そのどれもが、桐屋さんが「美しい」ことを全力で表現している。……俺は、煩悩に、負けた。
『里未初犬伝』めにゅーに戻る