「おはよー」
「ろっぺろぺー」
陽気な朝の挨拶が飛び交う校門前。そんな中、僕はただ一人陽気な気分になれないでいた。
「なーに沈んだ顔してんのよ」
「おわっ。あ、危ないなっ!」
僕の背中に飛び膝蹴りをお見舞いして横顔を覗き込んできたのはるり姉だ。るり姉と僕とは同じ高校に通っていて何かと世話になっている間柄だ。無論、僕のほうが主に世話をしているのだが。
「悪いんだけどさ、体操着忘れちゃったのよ」
何を言い出すかと思えば、いきなり自分の忘れ物の話だ。
「今日二時間目が体育なのよね。だからさ、あんた、今から家帰って体操着持ってきて」
るり姉はとんでもないことをさらりと言う。今はもうすぐ始業5分前のチャイムが鳴る。今から家に帰っていたら確実に一時間目を半分以上遅刻することになる。
「……マジ?」
「大マジよ」
僕はため息をついて渋った。するとるり姉は僕の耳元に唇を近づけてきた。
「今夜触らせてあげるからお願いっ」
「……わ、わかったよ」
僕は思わずそう言っていた。
「ありがと。そんじゃ持ってきたらあたしの机の上にでも置いといて。一時間目は移動教室で誰もいないはずだから」
そう言い残して去りかけて、るり姉は何かをひらめいたように立ち止まってこちらを向いた。
「あたしのブルマでヘンなコトするなよ〜」
るり姉の顔は思う存分にやけていた。この人はこうやって弟をからかうのが大好きらしい。ま、僕だってそういうふうに扱われることに悪い気はしないけど。
校門前でるり姉を見送った僕はそのままUターンして、来た道を戻っていった。
途中、踏切で待っている間、僕はぼんやりとるり姉のことを考えていた。
るり姉は美人でスタイルもすごくよくて弟の僕から見ても文句のないくらいに魅力的な女性だ。だからこそ、僕もあんなにるり姉に弱いのだろう。
一時間目の数学の担当教師は5分以上遅刻したら欠席にする厳しい人だ。どうせ欠席になるならまるまるサボろう。結果的に二時間目から授業に出ることになるのだからずいぶんと時間に余裕ができてしまう。そんなことを考えながら僕は開いた踏切をくぐってゆっくりと歩き出した。
そもそもこんな状態で授業を聞いたって頭に入りっこない。今の僕はおそらく何を言われてもうわの空だろう。
原因は僕にある。だから誰にも文句なんて言えない。後ろで踏み切りが閉まって電車が走り抜ける音以外何も聞こえなくなった。
「僕は桐屋さんのことが好きだ!」
幸い周りには誰もいなかったので僕は今の心境を声を大にして叫んでみた。電車の音にかき消されて僕自身ですらわずかに聞こえる程度だった。胸のあたりにあるモヤモヤはほんの少しだけ晴れたみたいだ。でも、まだまだ気持ちは沈んだままだ。
僕はこの気持ちを、相手に伝えることができない。一週間前、僕は桐屋さんを体育館裏に呼び出して脅迫して犯そうとした。幸い未遂に終わったものの、強制わいせつ罪くらいにはなるだろう。おまけに、その最中に重大な事実に気付いてしまったのだ。僕は、桐屋さんのことを好きになっていたのだ。
だけど、あんな酷いことをしてしまった手前、どのツラ下げて告白しようというのだろう。僕は、この気持ちを永遠に心の中だけに閉まっておかなくてはならない。その前に、言うことが、言わなければならないことがあるはずだ。だが、僕はあの日以来、桐屋さんと校内で会っても、無意識的に視界から外してしまっている。つまり、僕は桐屋さんを避けているのだ。いや、もしかすると、桐屋さんのほうが僕を避けているのかもしれない。いやいや、そんなふうに自分は悪くないみたいに考えるのはよくない。僕と桐屋さんの間にあるわだかまりも、この胸のモヤモヤも、そして誠太郎の憂鬱の原因も、すべての元凶はこの僕にあるのだから。
僕と桐屋さんの両方が元気がないために直接関係のない誠太郎までが元気をなくしてしまっている。数少ない友人に、申し訳ないことをしてしまっていると思う。しかも誠太郎はおそらく桐屋さんのことが好きだろう。まったく、絵に描いたような、いや、それに真っ黒い絵の具で悪意のこもった落書きをしたような三角関係だ。……どうしたものか。
色々と考えているうちに家に着いてしまった。ドアの鍵を開けて中に入り、二階のるり姉の部屋に行く。この家のマスターキーは僕が管理しているのでるり姉の部屋であろうといつでも入ることができる。もちろん、普段はこんなことしてないけど。
「さて……と」
僕は一旦床にカバンを置き、部屋の中を見回した。相変わらずすごい散らかりようだ。これじゃ体操着を探すのも一苦労かと思っていると、るり姉の机の上に体操着とブルマが一着ずつ置いてあった。持って行こうと準備しておいて忘れていったのか、るり姉らしいな。
体操着を手にとった僕は内心ドキドキしていた。るり姉の裸なんて何度も見たことがあるが、あの見事な裸体がこの中に入るのだと思うと、頭がカーッと熱くなってくる。男としては健全なのだろうが、弟としてはいただけない。はやく折りたたんでカバンにしまえば済む話なのだが、僕はすぐにはそれができなかった。
胸のあたりが少し薄くなっているのはこの体操着が2年と数ヶ月もの間使い古された証拠だ。
「るり姉……」
僕は校門前でるり姉に耳打ちされた言葉を思い出していた。
「今夜触らせてあげるから……」
あの言葉が耳にまとわりついて離れない。るり姉のあの甘い声だけはどうしても慣れることができないでいる。これまでもるり姉は再三僕を誘惑してきた。僕は必ずといってもよいほどその誘惑に負け、言いなりになってその報酬として夜にるり姉のリードはあるもののその身体を自由にさせてもらえる。ただし、本番行為はNGで。それはまぁ、姉弟ということでアタリマエだが。それを今晩も楽しめるということだ。僕は今から興奮していた。そして、目の前の体操着がさらに興奮を駆り立てる。
もう少しで体操着とブルマを顔に擦り付けてしまうところだったが、すんでのところでそれを我慢した。
「今夜は、これを着てもらうとするか……」
僕は、頭に浮かんだ煩悩をそのまま口にしていた。
かなりのんびりしていたので、再び学校に着いたときはもう一時間目が終わろうとしているころだった。
「やばいやばい。早くるり姉の机に体操着置いていかないと、ヘンタイ扱いされる、るり姉に」
るり姉とはそういう人だ。
るり姉の机に置いて教室を出ようとしたとき、女生徒とぶつかりそうになった。
「きゃっ」
「すいません。あ、有森先輩じゃないですか」
「あら、勇太君」
その人は学校のマドンナとも噂されるほどの魅力的な先輩だった。
「うちの教室から出てくるなんてどうしたの? るりちゃんに何かご用だった?」
落ち着いた物腰で訊ねてくる有森先輩。
「あ、いえ、姉が忘れたものを届けに来たんです」
「そう……。あの、早く出たほうがいいわよ。この教室、女子の更衣室になるから」
わずかに頬を染めながら言う有森先輩は非常にかわいい。
「あ、すいません。それじゃ僕、もう行きますね」
有森先輩に別れを告げて2年の教室がある校舎に向かって渡り廊下を進む。
歩きなれた1・2年校舎に入った途端にチャイムが鳴って大量の生徒が教室からなだれ出てきた。これならまぎれやすくて丁度いい。そのまま自分の教室に入ろうとすると、後ろから呼び止められた。
「あー、一時間目サボりなんていけないんだー」
「む、その声は弥子か?」
振り返ると、案の定、そこには弥子が僕を見上げていた。見上げるといっても、10センチほどしか身長差がないので微々たるものだが。
彼女は向井弥子といって、僕の幼馴染みだ。小学校以来、最近までまったく会っておらず、同じ高校の後輩だということを知ったのもついこの間である。
「なんでサボったってわかったんだ?」
「カバン持ってるからすぐにわかるわよ」
あ、なるほど。じゃあ、有森先輩にもサボったと思われてるかもしれないな。まぁ、実際にサボったんだけどね。
「で、何の用だよ生意気な後輩」
「ふーん。そういう口きくんだったら教えてあげない。大勢の後輩の前で恥かけば?」
「ん? ま、まさか」
嫌な予感がしたので僕は教室のドアの上の札を確認した。
「や、やっぱり……ここは一階下の一年教室だったか」
「あーあ、もうちょっとで勇太の恥ずかしいところが見れたのに」
そういう弥子は困る僕の姿を見て楽しそうだ。
「危なかった、助かったよ。それじゃな」
弥子に助けられたのが癪なのでお礼もそこそこにさっさと退散しようとしたが、またも弥子に呼び止められた。
「あ、そうだ。今日、私あんたのところに行くから」
「はぁ?」
「家に遊びに行くって言ってんの」
「なんで」
「るりちゃんに呼ばれたから」
「ふ、ふーん」
僕の知らないところでるり姉が約束していたらしい。まさか朝の約束を破るつもりなのだろうか。なんてことをここで言うわけにもいかず、生返事を返しておいた。
放課後、僕は部活動もしていないので残る理由もなく、さっさと校舎を出た。校門の横の駐輪場に桐屋さんが立っていたが、またもぼくは自然に視線を逸らしてしまった。いいかげん、謝らなくてはいけないな、とは思うが、なかなか行動に移せないでいる。
そんな僕は、今は家に帰ることが何よりも楽しみだった。
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