突然降り始めた雨から逃れて勇太はデパートに入った。入り口付近はちょっとした広場になっている。勇太はその隅のほうのベンチに腰を下ろした。
「うあー、髪もカッターもずぶ濡れだ。まだ月曜日だけど、洗濯機逝き決定だなこりゃ」
 カバンを開けて教科書やノートが濡れていないか確かめていると、勇太の隣に誰かが座った。
 勇太は別段気にも留めなかったが、相手は勇太を見て驚きの声をあげた。
「あ、もしかして、森崎くん?」
 「え?」と勇太が顔を上げて横を向くと、そこには髪のみならず顔面中を濡らした少女の顔があった。
 見れば服も濡れている。と、そこで勇太は、少女の着ている服が自分と同じ学校の制服であることに気がついた。
「あー、えっと、確か同じクラスの……」
 そこで言葉に詰まってしまう。
 確かに見覚えのある顔だ。だが、勇太にはどうしても相手の名前が思い出せなかった。
「あ、もしかして私の名前覚えてくれてないとか?」
「う……ごめん、図星」
「ひどいなぁもぅ、同じクラスなのに」
 口を尖らせて言うが、少女の表情は笑ったままだった。
「ご、ごめん。次からはちゃんと覚えるようにするよ」
「うん、ありがとう。でも慣れてるから気にしないけどね。ほら、私ってあんまり目立たないじゃない? だから、存在感薄いかなーって自覚はあるんだ」
「……」
 なんか、結構痛いことをさらりと言われてしまった。勇太は、かけるべき言葉を失ってしまった。
 それにも構わずに、少女は濡れた髪に手櫛を通しながら勝手に自己紹介を始めた。
「私は田中鈴木佐藤。ありきたりな名前だから、すぐ人に忘れられちゃうの、もう慣れたけどね」
 言われてみれば、そんな名前のクラスメイトがいた気がする。勇太は4月に行われたクラスのオリエンテーリングを思い出した。確か、あのときに同じ班になったはずだ。
「そっか、田中鈴木佐藤さんだったか。ごめん、忘れてたよ、今度からは忘れないようにする」
「うん。でも、できたらでいいよ。本当に私、何のとりえもない普通の女の子だから」
「……」
 なんだか、頭にきた。勇太は、田中鈴木佐藤が自分のことを悪く言うのが我慢できなかった。だから、こんなことを言ってしまったのかもしれない。
「……そんなこと、言わないでよ」
「え?」
 普段よりも低い勇太の声に、田中鈴木佐藤が素っ頓狂な声を上げる。
「確かに田中鈴木佐藤さんはクラスでも目立たない存在かもしれないけど、でもこうして話してみると思ってたよりもずっと気さくで話しやすいし……その、十分かわいいし
 最後のほうは羞恥のせいで声が小さくなってしまったが、田中鈴木佐藤にはしっかりと聞こえた。田中鈴木佐藤は意表を突かれた言葉に、思わず顔が熱くなった。
「な、なに言ってるのよ森崎くん。わ、私なんかをかわいいなんて言ったりしたら、その、世界中のかわいい女の子に失礼だよ。あはは……あっ!」
 田中鈴木佐藤の笑みはすぐにかき消えた。いや、かき消された。勇太の手が、田中鈴木佐藤の両肩を掴んだからだ。
「ダメだよ、そんなふうに自分のことを悪く言ったら」
 勇太は田中鈴木佐藤を直視してそう言うと、視線を下にずらしてうつむいた。
「田中鈴木佐藤さんは、自分で思ってるよりもずっと魅力的だと思う。だから、田中鈴木佐藤さんがかわいくないなんて言ったら、世界中の女の子に嫌味になっちゃうよ」
「森崎くん……」
 田中鈴木佐藤は目頭に熱いものを感じた。今までなるべく「普通に」生活しようと心がけるあまり、何事においても逸脱しない、つまり個性的ではない人間になってしまったことを自分でも少し悔いていた。そうしたコンプレックスが、勇太の一言で吹っ飛んでしまったように思えた。「かわいい」の一言で。
 一方、そんな田中鈴木佐藤の意を解さずに、勇太は目を力いっぱいに見開いていた。幸い、うつむいていて田中鈴木佐藤からは顔面が見えないために、不審がられることはない。勇太の視線を釘付けにしているのは、言うまでもなくその視線の先にある制服である。雨に打たれて水分を過剰に吸収した田中鈴木佐藤の制服は、彼女のふくよかなぷよぷよにぴったりと張り付き、見事にそのラインを誇張していた。勇太はこのとき、心から自分に透視能力がないことを神に感謝した。
「森崎……くん?」
 勇太の思惑を知る由もない田中鈴木佐藤は、うつむいたまま微動だにしない勇太を心配して名前を呼んだ。
 呼ばれた勇太は、これ以上制服を見ていては怪しまれると思い、かといってあわてて顔を上げても不自然だと思い、なるべく平然を装ってゆっくりと頭を上げた。
「あ、大丈夫。ちょっと立ちくらみ……座りくらみがしただけだから」
「……?」
 田中鈴木佐藤は首をかしげると同時にくしゃみをした。そこでようやく、自分と勇太が濡れているから寒いのだということに気がついた。
「なんか、冷えない?」
「うん、デパートの空調が効いてるから、濡れた体だと余計にね」
「あ、そうだ」
 両手をぱん、と合わせて田中鈴木佐藤が嬉しそうに言う。
「どうせ雨もまだ止まないし、着替えないと風邪ひいちゃうから……」
 この台詞の続きを聞く前に、勇太の脳内にはある淫靡な響きが満ちていた。その詳細について多くは語らないが、田中鈴木佐藤本人が言った言葉は、予想とまったく違ったものだった。
「一緒に、ここで服買わない?」
「え?」
 あまりに突拍子もない提案に、勇太の思考は一瞬停止した。そんなことは意に介した様子もなく田中鈴木佐藤は続ける。
「ここの6階にカジュアルな服が安いお店が入ってるの知ってる? 私、ちょうど新しい服が欲しかったところだし、選んでるうちに雨が止むかもしれないし、一石二鳥でしょ♪」
 自分の提案がまさに名案とでも言うように嬉しそうな田中鈴木佐藤。確かに時間つぶしにはちょうどいいかもしれないが……、と思い、勇太は一応止めようとした。
「あ、あのさ……」
「あ、もしかして今、お金ない?」
「え、いや、そういうわけじゃ……」
 実は持ち合わせはあまり多くはないが、ここで「お金がない」と言うのも情けない気がして言い出せなかった。しかし、有頂天の田中鈴木佐藤は人の話をまったく聞いていない。
「よかったら私、貸してあげられるよ。昨日、競馬で大儲けしたから」
 なにやらけしからぬことを言っているような気もするが、今の勇太にはそんなことに構っていられる余裕はない。
「決まりね。じゃ、行こうよ」
 そう言って、立ち上がって勇太の腕をひく田中鈴木佐藤。
 雨に濡れたカッターシャツの袖口から、田中鈴木佐藤の手のひらの温かさが伝わってきて、勇太は一瞬だけ、ほろ苦い青春のような感覚に見舞われた。
 その一瞬の赤面に田中鈴木佐藤は気付いたのか、あわてて手をぶんぶんと振り、
「あ、こ、これは別に、デートとかそういうのじゃないからね。学校帰りに友達同士で服を買うなんて普通でしょ。うん、普通、普通。あははっ」
 短い笑みで言葉を切り、再び勇太の腕を取ってエスカレーターに引っ張っていく。
 学校帰りに友達同士で服を買うことは確かに普通だと思う。だけど、濡れた制服を着た男女がデパートで服を買うなんて絶対に普通じゃない。とは、言いたくても言えない勇太だった。




『里未初犬伝』