『とらいあげいん☆かてきょ』 春・第一幕


 雪の降る中、駆け寄る少女の声がした。
「先輩、せんぱぁい!」
 制服姿にメガネをかけ、髪を後ろで束ねた少女は、ぜいぜいと息を切らしつつも、必死に駆け寄る。
 少年は振り向いた。積もりかけた雪がざりっと溶けていくのが足の裏から伝わってくる。少年は頭に積もった雪を払いながら、駆け寄る少女を向いた。
「……小野、か」
 少し考え込んで、思い出せた苗字を口にする。小野と呼ばれた少女は、瞳に若干の落胆の色を浮かべた。少年はそれに気付いていた。いや、それがわかっていた。自分の想いも、少女の想いも……。
「なんで……」
 そう言いかけて、少年は思いとどまった。いや、もういいんだ。済んだことは、忘れたほうがいい。
「せん、ぱい?」
 少年の言ったことの意味を自分なりに解釈し、戸惑いの表情を浮かべる少女。少年は、あぁ、やっぱり聞くべきじゃない、と思い、具体的に訊かなかったことを安心した。
「ごめん、なんでもない」
 その言葉が会話を遮断し、二人を膠着させた。少年は雪と土の混じった地面を見つめ、少女はそんな少年の表情をうかがうように心配そうに見る。雪だけが、二人の間の時間が流れていることを証明していた。もはや、お互いに相容れぬ不可侵の水晶。
 先にガラスを割ったのは、少女の言葉。
「あの、が、がんばって、くださいね」
「!」
 それが少年の視線を、意識を、少女に向けさせた。
「あさってから、ですよね」
「……あぁ」
 少年の声に、不安と恐怖が混じる。それを察知してか、少女はとても明るい笑顔をつくってみせた。
「大丈夫! 先輩なら、絶対に受かるわ! あ…え、えと、う、受か、ります……」
 最後のほうは、ほとんど聞き取れなかった。不自然な会話の端々に、少女の気遣いと戸惑いとを感じ取り、少年は、少し気の休まる思いがした。
「さんきゅな」
 少年は少女の頭に積もった雪を手で払った。それは頭を撫でているように見える。そして精一杯の作り笑いをしてみせた。
「で……それで、最後まで……ゴメンな」
 しかしそれは、微笑にしかならなかった。少女にはひどく悲痛に感じられた。そんな少年の表情を見ていると、少女まで泣き出したくなってきた。
 今にも泣き出しそうな少女を見て、少年は驚きもせず、左手に握っていた黒い円形の筒を鞄にしまい、自分の制服の第2ボタンに指をかけた。それをそっと、少女の手が抑えた。
「まだ、いらない」
「……そうか」
 少年は再び向き直り、少女に背を向けた。
「……じゃな」
 立ち去る少年は、奥歯を噛みしめながら。
 取り残された少女は、顔を両手にうずめ。
「ごめ……なさい、悪いのは、私……なのにぃ……」
 2月末日、卒業証書授与式。
 今年最初の雪は、この冬最後の雪だった。

4月1日(月)
『ソロモンよぉ、私は帰ってきたぁ!!』
カチッ
 朝の陽気な気分をぶち壊す中年男の叫び声は、目覚ましの上に力なく置かれた手によって止められた。
「ふぁ……朝かぁ」
 布団からむくりと起き上がった少年の名は、水鏡京紫朗。
寝覚めは最悪だった。
「羽夢のヤツ、いったい何種類のアラーム音入れたんだよ……」
 なにしろ、朝一番に耳にした声が中年男の叫び声である。純情系アイドルの甘い声とまではいかなくとも、無機質な電子音のほうがまだ幾分かはマシである。
 羽夢、という名を口にした京紫朗は、いけね、と口元に手をあてた。
 羽夢は、京紫朗の高校時代に好きだった女の子、小野羽夢のことである。高校時代、といっても、つい一ヶ月前まで京紫朗も高校生だったのだが。羽夢は、京紫朗の一年下の後輩で、同じサッカー部のマネージャーでもあった。
 好きだったといっても、高2の時にマネージャーとして入部してきていきなり惚れたわけではない。京紫朗と羽夢との間には、いろいろとあったのだ。そう、いろいろと。
 なんやかんやあって、2人はもう恋人同然のようになっていたのだが、そのことをネタに羽夢はイジメにあっていた。京紫朗は自分の存在が羽夢を苦しめると思い、羽夢から離れるようにした。そのまま、今に至る。
「……」
 はみださんほどの大きな字でガラスに『おめでと!』と書かれた目覚し時計をしばらく見つめると、京紫朗は呟きながら立ち上がった。
「めでたくないんだよな、今は」
 ふらふらと洗面所に下りていく京紫朗を、机の上に飾られた写真の中の羽夢は、笑顔で見送っていた。

 がちゃ、と勢いよく開けられたクローゼットの中に手を伸ばし、今日召すものを物色する京紫朗。
もう着ることもない学生服を横目に、普段着に目を移す。
「今日は別に何処に行く予定もないし、適当に……」
 独り言をいっていると、携帯電話が机の上の充電器の上で鳴りだした。着信メロディは、『超獣機神ダンクーガ』の前期OP曲『愛はファラウェイ』である。適当なTシャツを肩に引っ掛け、京紫朗は電話に出た。
「ただいまおかけになったクールガイは現在旅行中です。御用の方は『ピー』という音のなる前に電話をお切りください。ピー」
 ツーツーツー。
「ほ、ホントに切りやがった。おいおい!」
 京紫朗は着信の相手に慌ててかけ直した。
「もしもし、冴鬼か? 俺だけど」
「おや、クールガイは留守じゃないの?」
「おまえにはジオニックジョークは通用せんのか」
「いや〜、でもかけ直してきてくれるなんて、賢介ちゃん、も〜感謝カンゲキ雨嵐!」
 といって自分の十八番を歌い始める冴鬼賢介。冴鬼は、中学の頃から京紫朗と面識のある人物だが、親しくなったのは高校に入ってサッカー部で対面してからである。
「いやいや、そんなわけのわからん民謡はいいから、こんな朝早くから電話をかけてきた用事はなんなんだ?」
「おお、そうだ。忘れていたよ。どうだ、卒業記念と称してどっか遊びにいかねぇか? どうせヒマだろ、お互い浪人だし」
 京紫朗と冴鬼は、どちらも大学受験に失敗している。京紫朗は理系で冴鬼は文系のため、お互いに相手の勉強の詳しいところまではわからないが、たびたび一緒に勉強していたりした。
「ってなぁ、卒業してから一ヶ月、浪人が決まってからもうすぐ2週間になるんだぞ。そんなに気を抜いてたら……」
「でーじょーぶだって! んな硬いコトいわなくてもさ、まだしばらくはのんびりいこうぜ」
「むー、ホントに大丈夫なんか……?」
「おぅ、とりあえずユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ行こうと思ってるんだ」
 すでに行くことに決定らしい。
「そうそう、今日はダブルデートの予定だから」
「……はぁ?」
 素っ頓狂な声を上げる京紫朗。
「俺も京を誘ってくからさ、おまえも小野さん誘えよ」
「小野……!」
 京紫朗はいったん言葉に詰まった。
 あぁ、誰にも詳しいことは言ってなかったっけ……。
 京紫朗は友人の詰まった無責任な発言に腹を立てぬように自分に言い聞かせた。
「あ……ごめん、俺、小野とはもう……」
 京紫朗は事の成り行きを非常に簡潔に説明した。
「ってさ、それっておまえが身を引く必要はまったくなかったんじゃないか?」
 冴鬼はわからないといった感じで言った。
「……っ!」
 京紫朗は歯を噛みしめた。そんなことは、すでに痛いくらいにわかっていた。変に偽善者ぶった行為ととられてもおかしくないと、羽夢を傷つけまいと考えるあまり前よりさらに傷つける結果となってしまったと、わかっているのだ。
「悪ィ、もういいんだ、彼女のことは」
「おまえ……」
 いい思い出だったと、青春の1ページとして心のアルバムにしまっておこうと、最近になってようやくそんなふうに考えられるようになってきた。過酷な現実からの逃避だという、うしろめたさを伴って。
 冴鬼はしばらく沈黙していたが、やがてその口を開いた。
「じゃあ、小野さん誘うのはやめとくか。でも3人じゃなぁ、他に誰誘う?」
 冴鬼の声は明るかった。こんなとき、一緒に悩まれるよりも、無理矢理にでも引っ張ってくれたほうが京紫朗には嬉しかった。いい友達を持ったな、と、京紫朗は思った。
「う〜ん、でも、よく考えたら俺たち、他に誘えるような仲の女の子っていないよな……」
 冴鬼が残念そうに言った。それが受話器の向こうからも聞いて取れた。
「そーだな、さみしい高校3年間だったな」
「でも、一応お互い彼女できたんだから、そんなにさみしくもなかったぞ」
「へいへい、お幸せに」
「ちぇっ、少しは励ましたつもりなのになぁ」
 今のが励ましなのだろうか。不器用な友人の気遣いに京紫朗は苦笑した。
「なに笑って……あ、そうだ。お茶誘おうぜ」
「え、あいつ? ……まぁ、いいけど」
 冴鬼の言った『お茶』というのは、高校時代の同級生である伊藤園茶畑のあだ名である。冴鬼とは2回、京紫朗とは1回同じクラスになった。伊藤園は、模試の成績などがあまりよくなかったのだが、京紫朗が落ちた第一志望校に合格した。
そのせいか、京紫朗は、伊藤園に対して複雑で微妙だった。
「そういやあいつ、おまえの落ちた、京都松ヶ崎大学だっけか、受かったんだってな」
「…あぁ、そうだっけな」
「じゃぁ、俺が誘っとくわ。集合時間は10時。場所は甲子園駅な。悪いけどさ、シローは京に伝えといてくれ」
 冴鬼は京紫朗のことをシローと呼ぶ。
「おい、自分の彼女なんだからさ、自分で伝えろよ」
「俺があいつに電話したらカンケーない話ばっかして10時過ぎてしまうからさ」
「あ、なるほどね」
 あっさりと承諾して電話を切った。
 京とは、冴鬼の彼女で、草薙京のこと。高校時代に、お互いに公衆の面前で告白しあってできた公認カップルというやつだ。冴鬼も草薙も、独特のテンションを持っていて、2人の間にしかないイロイロなものがたくさんありそうだ。
(甲子園駅か、俺が一番近いな)
 そう思いつつ、京紫朗は洗面所にコンタクトレンズを装着しに向かった。

 草薙に連絡を終えた後、身支度を整え、玄関から出ようとしたときに、母親の葉最尼佳に呼び止められた。
「あら、キョウ。遊びに行くの?」
「あぁ、そんなに遅くにはならないと思う」
「あ、そうそう。キョウ、バイトしてみる気はない?」
「バイト? どんな?」
「私も詳しくは聞いてないんだけど、なんでも大学生ぐらいの年齢が適任なんだって。この近所のはずよ」
「情報の出元はどこなんだよ」
「お向かいの唯牙さん。キョウでもできると思うから、考えといてね」
 唯牙さんと聞いて、京紫朗はゾクッとした。水鏡家と唯牙家の主婦の間にはなにやらただならぬ因縁のようなものがあり、仲がいいのか悪いのか本人たち以外にはさっぱりわからない状態なのである。本人たちは「勿論、親友よ」と言っているが、本当かどうかは定かではない。
そうこうを話していると、今度は父親の魚がやってきた。
「京紫朗、もう予備校は決めたのか?」
「あぁ、明日申し込みに行ってくるよ」
「いくらいるんだ?」
「え、いや、いらないんだ」
「なにぃ!!!!??」
 魚イズアスタニッシュト!
「ど、どーして!?」
「あ、いや、去年受けた模試成績で、スカラシップっていう奨学金制度があって、俺は金いらないんだってさ」
「なんと……ということは」
 なにやら指で計算しているらしい魚。
「ふむ……よし、葉最尼佳。ちょっと相談があるんだが」
「えぇ、いいわよ、あなた」
「?? じゃあ、俺、行ってくるわ」
「いってらっしゃい、気をつけるのよ」
「足をくじかぬようにな」
 よくわからない送りの言葉を背に、京紫朗は玄関を出た。
京紫朗の家は一戸建てで、甲子園駅から歩いて5分の位置にある。すぐ近くにはダイエーもあり、生活には不便しない。それどころか、近くにいかりや関西スーパーやマルナカやピーコックやコープなんかもあってかなりの激戦地。この街自体が、どちらかというと、都会に分類されるのだろうか。阪神タイガースが本拠地としている甲子園球場も、京紫朗の家の目の前にある。
球場の横を通ると、ビニールシートに寝ている人たちがたくさん見受けられた。今年のタイガースは注目だから、今日の試合のチケットを買うために、前日からいるらしい。
ダイエーの前を通過して甲子園駅に着く。
「な、なんと……」
 すでに他の三人は来ていた。草薙が最初に京紫朗に気付いた。
「あ、おーい、シロー! 遅いよ、もう!」
「遅いッたって、まだ10時じゃないだろ」
 駆け寄りながら言い訳をした。
「でもね〜、10分前には着いとかないと、甲斐性ないよ?」
 この、いかにも男勝りな話し方をするのが、冴鬼の彼女の草薙京である。170を越える身長で、女子の中では常に一番打者、エースアタッカー、番長だった。しかし勉強のほうはからっきしで、この春浪人が決定している。スタイルがかなりよいため、異性からのみならず、同性からの人気も絶大であった。
「まぁまぁ、京。時間には間に合ってんだから、大目に見てやろうぜ」
 どうどうと京をなだめるのが冴鬼賢介。背は高く(180以上)、スラッとした体形で、顔は爽やかタイプの中性的な雰囲気を漂わせている。外見は、文句なくいいのだが。
 そもそもこの二人が恋人になったきっかけというのが常人からはかけ離れている。どういう経緯からか、図書室で本投げ合戦をすることになり、司書さんも図書委員も文芸部員も偶然その場に居合わせた受験間近で赤本に釘付けの一般生徒もこのドサクサにまぎれて高い本を盗もうとしていたコソドロも第一報を受けて止めようと入ってきた怖い古文の先生も、みんな気絶してしまってもなお生き残っていたのがこの二人だという。この伝説は、今も我らが母校科学要塞学園に忌まわしき記憶として封印されている。(実話)
 その後、お互いに格闘家としてウマが合ったらしく、「つきあう」こととなったらしい。とことんメビウスリングな方々である。
「よぅ、シロー。久しぶりだけど、元気?」
 先の二人に比べると、背も低く、目立った感じもない顔のこの男が、伊藤園茶畑。この男、頭には常にシャンプーハット、腕には名探偵コナン御用達の時計型麻酔銃、メガネはスカウター仕込み、晴天時でも長靴を着用、将来の夢は鳴尾征服、趣味はシャドウアート、特技はソックスウォッシュ、座右の銘は「無知を恐れよ。汝、偽りの知識を偽れ」、などという、つまりは変人なのだが、ウマが合ってしまったがために、この輪の中にいる。
「じゃ、そろそろいこうか」
 冴鬼が改札口を指差して言った。
「ちょっと待って。なにか飲み物買ってこーよ」
「え〜、どうせ俺のおごりなんだろ?」
 京の提案に、不満げに応える冴鬼。
「う〜ん、なににしよかな〜?」
 京紫朗が自販機の前で迷っていると、伊藤園が声をかけてきた。
「あ、シロー。最近はね、この緑茶がオススメだよ」
 といって伊藤園が指差したのは、「銀河系緑茶」というたいそうなロゴが入った商品だった。
「な、なんだこれは……。うまいのか?」
 明らかに怪しい商品名に、お茶とは思えない銀の缶。とても上手いとは思えない。
 京紫朗がそう思っていると、伊藤園はそれを見透かしたようにいった。
「ふふふ、この僕の眼を甘く見ないでいただきたいな。この緑茶の原料となった茶ッ葉は、伊藤園株式会社が静岡の頑固で頑固で絶対に自分の土地から取れた茶は売らないとおっしゃっていた農家の方を、この世のものとは思えない金額で買収して購入したものなんだよ。その味たるや、銀河も超えちゃう!まさに義務=銀河南無!!絶好調であぁる!!!!」
 拳を握り締め暑く熱弁する伊藤園を見て、その場にいた3人は声をそろえて言った。
「なあ、お茶。おまえんち、ほんっとーに伊藤園株式会社の重役クラスじゃないんだろうな?」
「あははは。なにいってるんだよー、違うってー」
 伊藤園は無邪気に笑って否定した。誰もが疑念を持っていた。伊藤園は伊藤園株式会社についての裏事情に詳しすぎるのだ。
「じゃ俺はこっちにするよ」
「あ、あたしも」
 一抹の不安を感じたのか、冴鬼と草薙は、となりの自販機のスポーツ飲料を買った。京紫朗は友人の勧めを無下にするのも悪いと思い、銀河系緑茶を購入した。ことの発端となった伊藤園は、京紫朗と同じ販売機の、「トリコロールミルク」という商品を買っていた。

 昼前のよくわからない憂鬱感漂うこと極まりないこの時分、ダイエー甲子園店地下2階では、昼食の食材を求めてやってきた主婦たちの戦場と化していた。
「いらっしゃいませー、本日はマグロのお刺身をたいへんお安くご奉仕させていただいております! 栄養も豊富、夏バテにはお魚がいっちばん! へぃ奥さん、みてってくんなせぇ!!」
 マニュアルどおりの口調からだんだんと地が出てきてしまう店員に近づいていったのは、他称『彩京買い物アマゾネス』の異名を持つ、唯牙近衛その人だった。
「ちょっとお魚屋さん、安い安いっていうけどこのマグロ、この量で498円はちょっとぼったくりじゃありません?」
 近衛はいきなり値切りだした。
「それに、この色はなに? 仮にも鮮魚とあろうものを、こんな色で売りに出すのはどうかと思いますけど」
「な、なにいってんすか、奥さん!」
 店員は内心、「やな女に当たっちまった」と思った。
「うちの魚は新鮮そのものですよ! ほら、現に他のお客様にも大好評でございますとも、ええ!」
「ふぅん……ならいいわ。こっちにも奥の手があるから」
 ごそごそと鞄の中を探る近衛。
「じゃ〜ん、コープのチラシ〜」
「な、まさかっ……」
 近衛は突然、手にした他店のチラシを頭上にかざし、声高に叫びだした。
「え〜、呑気にお買い物中のおまぬけ主婦の皆々様方へご朗報でございます〜。なんと、マグロのお刺身が本日、コープではここよりも48円安いよんひゃ……」
「あぁ、奥さん! 参りました! 参りましたから、380円でご奉仕させていただきます!!」
 店員はついに折れた。
「あっらぁ〜、まけてくださるの〜? ラッキー♪」
 ちゃちゃっと380円のシールを貼らせ、マグロの刺身を買い物篭の中へ入れる近衛。そして手にしていたチラシを店員に渡した。 「宿題、お勉強♪」
「か、かしこまり……」
 店員はガチガチ震えていた。
 近衛が魚の売り場を通り過ぎ、肉の売り場に入ろうとしたとき、彼女を呼び止める声があった。
「あら、唯牙さんじゃありません?」
「え? あぁ、こんにちは。水鏡さんじゃないですか」
 呼び止めたのは、葉最尼佳だった。
「見てましたわよ、唯牙さん。あの店員さんたら、唯牙さんの背中を鬼を見るような目で見ていましたわよ。流石は『たたみかけの値切り』でご高名なだけありますわね、おほほ」
「そんな、恐縮ですわ。水鏡さんの『威圧の値切り』には、まだまだ敵いませんわ。皆さん、水鏡さんのこと、地獄の使者だなんてお呼びになるんですよ、おほほほ」
「あらあら、それを言ったら唯牙さん、常に拳銃持ってそうな黒スーツ&サングラスの男たちを引き連れているあなたはさしずめ歩く死神といったところでしょうか、おほほほほ」
「えぇ、なんのことでしょうか? そんな方々、何処にもいらっしゃいませんことよ?」
「そりゃあ、こんなスーパーの中で発砲撃退されでもしたら今後の追跡に関わりますからね、彼らもバカではないということですよ」
 テロリストもビックリな会話を繰り広げる二人にサイコロステーキの試食を勧めようとした新米女性店員は、とんでもないことを耳にしてしまい、「あわわわわ……」と、うろたえていた。
「わ、私は何も聞いていない……そぅ、聞いてニャいのヨ……」
 二人が様々な危険な世間話を人目もはばからずに繰り広げ、互いの買い物を済ませ、レジに並んでいると、葉最尼佳が思い出したように言った。
「そういえば、唯牙さん。このあいだおっしゃっていたバイトの件なんですけど、うちの愚息などいかがです?」
「まぁ、水鏡さんの息子さんが? それなら心強いわぁ。あ、でも、京紫朗くん、今年は浪人でしょう? 大丈夫かしら、バイトで拘束して」
「大丈夫ですよ。キョウはああ見えて、動きたがりなんです。部活がなくなってから今までウズウズしてましたから」
「そうですか、そういってもらえると助かりますわ」
「いえいえ。それじゃあ今夜、キョウをお宅に御挨拶に伺わせますね。あ、ところで、どんな仕事なんですか?」
「あぁ、それを言うのを忘れていましたね。実はですね……」

 11時過ぎ。冴鬼、草薙、伊藤園、そして京紫朗の4人は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(以下USJ)内の軽食店で少し早めの昼食をとっている……ハズだった。
「草薙、ここのサラダ美味いよ、ちょっと食べてみなよ。ほら、お茶も」
 ちなみに、京紫朗はお茶を勧めたのではなく、お茶(伊藤園茶畑)に勧めたのである。
「うん、結構いけるね」
「わっ、ホントに美味しいよ、これ。ほら、賢介も食べなよ」
「……」
 冴鬼は目を点にして口を開けたまま、窓の外に目をやって呆けていた。
「にしてもさ、大阪って人が多すぎるよね」
 伊藤園がプチトマトを頬張りながら言った。
「しょうがないよ。大阪は関西最大の都市なんだし」
 なおもむしゃむしゃとサラダにかぶりつく京紫朗。
「それに、USJに代表される観光地もあるし」
 クールにコーヒーをすする草薙。彼女の言葉を聞いて、冴鬼は口を開けたままでテーブルに向き直った。
「……あのぉ、それに関して一つ、質問があるのですが……」
「あ、すいません! コーヒーのおかわりお願いできます?」
 草薙は咄嗟に話を打ち切って店員に話し掛けた。
「そういやシロー、さっきの銀河系緑茶、もう飲んだ?」
 伊藤園が上ずった声で京紫朗に話し掛ける。京紫朗もついつい声が裏返りそうになった。
「あ……ああぁぁ、あれね。うん、微妙な味……」
「ふむ、大衆に広めるには時期尚早……と、メモメモ」
 伊藤園は鞄から手早く手帳と万年筆を取り出し、さらさらっと何かをメモった。
「お茶……そんなことをメモって、なにに……」
「え? あ、いやいや、ほんの参考にね、ウン」
「なんの参考だよ……」
 伊藤園と京紫朗がやりとりしている間に、草薙は隣で口が開きっぱなしの冴鬼に妙に明るく笑いかけた。
「ど、どうしたの、賢介? こっちに着いてからずっと放心状態じゃない。来ようって言い出したの、アンタなんでしょ?」
 バシバシと背中を叩く草薙。
 瞬間、冴鬼の眼が鋭く光り、雄たけびとともに立ち上がった。 「うおおおおおおおぉぉぉぉ!!!!」
 その叫び声に、3人ともが呆気にとられてしまった。勿論、店内が静まり返ったのはいうまでもない。
「ぷぷぷぷぷじゃけるなよ、貴様ら! 俺はUSJに行こうと言ったんだ。誰が海遊館に行きたいなどといった!!」
 そぅ、冴鬼の言うとおり、彼らはなぜか大阪の有名な水族館、海遊館に来ていた。
「キミはさくっちか」
 伊藤園がすかさずツッコミを入れる。しかし冴鬼はそれに動じずに憤慨した。
「どこの世界にUSJに行って海遊館に到着する奴がいるんだよ、しかも3人も!」
 拳を握りテーブルを叩きながら泣き崩れる冴鬼。彼の頭の中では、なぜあの時この3人を止めなかったんだろうという後悔と自責の念が渦巻いていた。
 甲子園駅のホームに上がった直後、冴鬼はUSJに一度も行ったことがないことが判明した。そこで、京紫朗と草薙と伊藤園の3人は、行ったことがあるから先導するよ、と言って電車の中では終始冴鬼を眠らせていたのだ。起きてみるとそこは海遊館。以後、現在に至るまで彼は呆れて物も言えなかった。
 3人は、USJとは改称した海遊館のことだ、と思っていたのだ。
 地図を読まない草薙と地図が読めない京紫朗、そして地図を食べる伊藤園。4人の中で、まともな方向感覚を持っているのは冴鬼しかいないのである。この3人に先導を任せたこと自体がそもそもの間違いだったのだ。幸い、今回は方向音痴のせいで海遊館に来たわけではないのだが。
「げ、元気出しなよ、賢介。アンタらしくもない」
 苦笑しながら賢介の顔を覗き込む草薙。冴鬼はうつむきながら涙声でうなった。
「俺はなぁ、今日のために1週間以上も前から、アトラクションのコース計画を立てていたんだぞ! それをなぁ……」
「……冴鬼」
「……っ!」
 京紫朗が冴鬼の肩に優しく手を置いた。冴鬼は涙目のままの顔を上げる。
「いいか、旅とは本来、地図など持ち歩かずに、自分の足で道なき道を踏み分けていくものだ。未知との邂逅、明日への希望、それが旅の醍醐味なんじゃないのか?」
 京紫朗は精一杯やわらかに言ったつもりだった。冴鬼が今にも大泣きしそうだからだった。
「……でもな、シロー。これは行楽なんだよ?」
「うっ……それを言われると……」
 1週間以上の労力が水の泡になったことを思うと、一気に悲しみが込み上げてきて冴鬼はついに泣き出した。
「うわ、こいつマジ泣きだ。恋人として情けないよ……」
「ふむ、シローのふうらい的処世術も、冴鬼には通じず、か」
 冷静に戦術分析をする伊藤園。このままじゃ埒があかないと思い、京紫朗がテーブルを立った。
「はいはい、昼食終わり。お魚さん観に行こうか♪」
「お〜、さんせ〜」
「ノリがいいね、草薙は。あれ、冴鬼、行かないの?」
「うぅ……」
 冴鬼は3人のあとをふらふらとついて行った。

「なぁ京、あの魚はなんていうんだ?」
「あれはカレイだよ。アンタ、カレイもしらないのかぃ?」
「え、えと……お、あれなら知ってるぞ。サメだろ、サメ」
「……幼稚園児でも知ってるよ」
 実は冴鬼は海遊館にも初めて来たという。やはり未知のものには興味津々らしく、しきりに草薙に魚の名前を聞いてはバカにされている。
 伊藤園は伊藤園で、魚の動きをデジタルビデオカメラで撮りつつ、なにやらイロイロとメモっている。
 手持ち無沙汰になった京紫朗は、適当に視線を泳がせながら、館内を歩き回った。そんな京紫朗の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「ねぇねぇ羽夢。次はイルカショーに行こうよ」
「!!!!」
 背筋に凄まじい悪寒が走り、京紫朗は生理的に表情を強張らせた。
(まさか、羽夢が……?)
 羽夢がいるのかもしれない。淡い期待とわずかな不安を隠せないまま、声がした方向を向いた。大きな水槽の向こう側の通路、そこにいたのは、メガネに後ろで結った髪、低めの背丈。まさに小野羽夢その人だった。
 京紫朗の足は自然と動き出していた。
(向こう側に続く通路は、どこだ?)
 通路がなかなか見つからず、館内の係員に訊いて案内してもらったので、意外と時間がかかってしまい、さっきの場所の向こう側に着いた時には、すでに羽夢の姿はなくなっていた。
 京紫朗は暫く呆然とその場に立ち尽くした。
(何をやっているんだ、俺は? もう、あいつのことはどうでもいいんじゃなかったのかよ!?)
 奥歯を噛みしめ、激しく自己嫌悪する京紫朗。しかし彼には、羽夢以上に、一緒にいた2人の少女のことが気にかかった。
(一緒にいたのは、岡本と星野? なぜあの2人が……)
 2人は、岡本千恵と星野恵。この2人こそが、京紫朗をネタに羽夢をイジめていた、京紫朗と羽夢が別れる原因となった張本人たちなのだ。
 岡本千恵は、羽夢よりも長い腰ほどまで伸びたロングヘアーの少女。トレードマークが髪にくくりつけた巨大なチェーンソーのため、高校では『女版ジェイソン』と呼ばれていた。おそらくは、今もなお、呼ばれていることだろうが。
 星野恵は、羽夢よりも短い肩にも満たぬ長さのショートカットの少女。トレードマークは、首に下げたカメラと、両肩に携えた二丁拳銃。岡本のような異名はないが、なぜか補導されたことが一度もなく、高校では学内最強の女として怖れられていた。おそらくは、今もなお、怖れられていることだろうが。
 京紫朗が抱いた違和感は、なぜその2人が、羽夢と一緒に、こんな観光地にいるのかということだ。あのイジメは結構、深刻なものだったはずだ。しかし、さっき京紫朗が目にした2人と羽夢は、仲がよさげだった。
(俺が卒業してから、何があったんだ?)
 京紫朗の足は一瞬、イルカショーの会場に向かおうとしたが、それをするとただのストーカーに成り下がってしまうと思い、おとなしく冴鬼たちと合流することにした。

「ふぅ〜、意外と楽しかったな、オイ」
「来たときにはあんなに落ち込んでたのに、ひょうきんな奴だね、アンタも」
「でもまぁ、この時間に帰れてよかったね」
 海遊館から出てきたところで、行楽を満喫した冴鬼と草薙と伊藤園は和気あいあいとしていた。
「嫌味か、お茶」
 どよ〜んと暗い雰囲気の京紫朗。あれから冴鬼たちと合流しようと試みたが、努力も虚しく、館内で迷子になってしまっていた。
「迷子になったら素直に迷子センターに行けばいいのに」
「……この年でそんなことできるかっ」
「あ〜ぁ、シローのおかげでもう8時だぁ〜」
「……悪かったな」
「じゃあ晩飯おごって♪」
「ジーンズ♪」
「超電磁ヨーヨー♪」
 次々とたかりだす3人。京紫朗の中で何かが吹っ切れた。
「うがあぁぁ!!」
 野生化した暴徒と化した京紫朗。こうして彼らの一日は幕を閉じてゆく……。

甲子園駅を出て3人と別れた京紫朗は疲れた足取りで阪神高速の下を歩いていた。
「せーんぱいっ」
 ぞくぞくっ
「ぬわああぁ!!」
 突如、奇怪な声に見舞われた京紫朗はなす術もなくその場にへたれこんでしまった。
「あぁ〜、ひどいですよ水鏡せんぱい。こんなにかわいい後輩に声かけられて腰抜かすなんて〜」
「今の不気味な闇のささやきはおまえか、岡本」
 一人泣きそうな真似をしてみせる少女が岡本千恵だと、京紫朗は額に青筋を立てながら確認した。楽しそうにチェーンソーを振り回す岡本の肩に手を置いたのは星野恵。
「千恵、そんな軟弱者に構う必要はない。いくぞ」
「なんだ、星野もいたのか」
 京紫朗の言葉に反応し、星野の眼光が鋭く京紫朗を睨みつける。同時に、肩の二丁拳銃の光沢も重なり、眩しい限りだ。
京紫朗は苦笑いを噛みつぶして立ち上がった。
「おまえらもかわんないな」
 京紫朗と羽夢が別れる原因となったこの二人だが、京紫朗たちが別れて以後、岡本はやたらと京紫朗になつくようになったのだ。最初こそ京紫朗も鬱陶しく思っていたが、今ではあまり気にならなくなってきている。
 岡本は、明るい性格という以外に説明のしようがないくらいに明るい。なぜこんな娘がイジメなんてしてたんだろうと京紫朗が思ったほどだ。だからこそ、イジめていたという事実を、内心許すことができているのだが。
 一方、星野はというと、岡本とは対照的に落ち着いた雰囲気をかもし出す。目つきは悪く、常に睨んでいるように見える。本人いわく、睨んでいるのだが。そして自分が女であるということに自覚がないかのような性格である。
「せんぱいはUSJにでも行ってたんですかぁ?」
 岡本が人懐っこい声で訊く。
「いや、海遊館」
「わぁ、私たちとおんなじですね〜、ぐうぜんってすごいね、メグちゃん」
「知ってた」
「……そうだろうな」
 京紫朗は、岡本は何とかなっても、星野には一生敵わないと確信していた。なんたって補導経験なしだしな……。
「でさ、なんでおまえら、羽夢と一緒だったんだ?」
 言ってから、訊くべきじゃなかったかもしれないと思った。
「え〜、私たちが羽夢と仲良くしてちゃ悪いんですかぁ?」
「……仲良かったっけ?」
「もぅバッチリ大親友ですよ」
 岡本はガッツポーズをしてみせた。
「……イジめてなかったっけ?」
「イジメだなんて、人聞きの悪いことをいわないでください!」
「あれ? 俺の記憶錯誤か?」
「もぅ、これだから熟年は。ダメですよ、デフラグはちゃんと週に一度はしとかないと♪」
「って話を逸らすな! おまえらが羽夢と仲いいなんて聞いたことないぞ!」
「っていってもぉ、現に私たち仲いいし。ね、メグちゃん」
 こくりと頷く星野。
「あれから何があったんだ?」
 少しだけ真剣な顔になる京紫朗。やはり少なくとも羽夢のことを気にかけているようだ。
 その真剣な顔を見て岡本は返答を決めた。
「ご想像におまかせします〜♪」
「なっ……ちょっとまて。気になるだろ、そんなふうにいったら」
「水鏡せんぱい、これだけは覚えておいてください。私たちの敵は、あなたですから」
「敵……?」
 その言葉ににわかに疑問を持ったのも束の間、今度は星野にチェーンソーを向ける岡本。勿論、スイッチは入りっぱなし。
「むしろ、私とメグちゃんも敵同士ということになりますけどね〜」
 顔は笑ってはいるが、あながち冗談ということではなさそうだ。
「望むところだ、千恵」
 星野が両肩に手をかけた。
 京紫朗は、ヤバイ、と思い、慌てて二人を止めに入った。
「二人とも、あれを見ろ!」
 京紫朗は東の方角にある建物を指差した。
「え〜と、え〜と……」
「……甲子園警察署」
「あ、そっか〜。メグちゃん、視力いいね〜」
「……2・0」
 頬を赤らめる星野。仲がいいのか悪いのかはっきりとしてほしいものである。
「でな、おまえら。あの警察署を見ても、なんとも思わないのか?」
「え、なにが〜?」
「……全然」
 岡本はなおも頭上で巨大チェーンソーを片手で(!)振り回し、星野は西部劇の保安官宜しく、両手で拳銃をクルクルとまわして両肩に装着しなおした。
「……」
「せんぱーい、どうしたんですかー? 固まっちゃって」
「……もう俺からキミたちに言うことは何もないよ。立派に育ってくれ、クソアマゾネスよ。さらば」
 捨て台詞を吐いて、京紫朗は暗闇の中を歩き出してその場を去った。
「つまんないせんぱーい」
「ほっとけ」

 家にたどり着いて京紫朗はまたも腰を抜かした。なんと、家全体が、青いネットで包まれていて、家は部分的に壊されていたのだ。しかも、玄関先には、『卯滑稽建設』と書かれた看板が置いてあった。
「オイオイ、何の冗談だよ、これは……」
 京紫朗が呟いていると、後ろに車が止まり、中から葉最尼佳と魚が出てきた。
「あー、キョウ。遅いじゃない、早く帰るって言ったでしょう?」
「そんなことを言っている場合ではないですよ、母さん!」
 京紫朗は少々興奮気味だ。
「これは一体どーゆーことだよ、父さん!」
「うむ、ラーメン屋をやりたくてな」
「説明が簡単すぎるわぁ!!」
「いやぁ、京紫朗が予備校のお金要らないっていうからな。ついつい貯めてたお金で夢をかなえたくなってな」
「どんだけ貯めてたんだよ……。それに、有名企業の幹部クラスの男が、いきなりラーメン屋とは……」
「あぁ、会社、辞めたから」
「……」
 京紫朗は呆れてもう何もいえなかった。  この計画は、葉最尼佳も同意のもとで行われた。魚には少々(かなり?)無茶な気質もあるが、そういうところが葉最尼佳の好印象を得るきっかけとなり、この二人は今まで夫婦をやっているのだ。
「ほら、京紫朗も乗れ」
 魚が車のドアを開け、京紫朗を促す。葉最尼佳が説明を加えた。
「見ての通り、家は改装中だから、1週間ほど都ホテルに泊まることになったわ」
 保健所とかに届け出は出したんだろうか……。住宅街のど真ん中にラーメン屋建てるのか……。様々なことが京紫朗の脳裏をよぎっていったが、京紫朗は敢えて気にしないことにした。でないと、この親にはついていけないと判断したのだ。

 ホテルに着いた直後に、葉最尼佳が思い出したように言った。
「あ、そうだわ、キョウ。お向かいの唯牙さんがね、バイトで雇ってくれるって」
「えっ、はやっ」
「でね、今からご挨拶してきなさい」
「あのさ、そーゆーことはもちょっと早く言ってよ」
 今車で来た道を、今度は自転車で引き返さなくてはならない。
「でもな〜、あの家の周り、黒いスーツにサングラスの男がやたらといて怖いんだけど」
「あぁ、彼らならスカウトよ」
「スカウト?」
「言ってなかったかしら? 唯牙さんの奥さんね、高校のときにバスケで全国制覇したチームのキャプテンなのよ」
「すげぇ、初耳だよ。そりゃ、スカウトもつくわな」
「でも、本人に興味がないから全部断っているそうよ」
「なんだか、スカウトの人がかわいそうになってきたな……。で、何のバイトなの?」
「ふふふ……キョウにぴったりよ。その名も家庭教師」
「か、かてーきょーしー!? 俺、浪人生なんだけど」
「大丈夫よ、中学生の子だそうよ」
「なんだ、よかった……って、いいのか?」

 ぴーんぽーん
 唯牙家の呼び鈴を鳴らした京紫朗は、神妙な面持ちで人が出てくるのを待った。すると、近衛がドアを開けて出てきた。
「はい、唯牙でございま……あらぁ、京紫朗くん! 待ってたわ、ささ、上がってちょうだい」
「は、はぁ……失礼します」
 京紫朗は、近衛のことが少々苦手だ。雰囲気が、なんとなく怖いのである。
 居間に通された京紫朗は、ソファーに座るように促され、コーヒーをご馳走された。
「それで、家庭教師のことなんだけど。京紫朗くん、浪人生だよね?」
「はぁ、まぁ」
「それじゃ、うちの娘に教えてくれるかしら。中3なの」
「中3……ですか。って、え? お子さん、いらしたんですか?」
「あらら、嬉しいわね、お世辞でも」
「い、いえ、とんでもない」
 実際、近衛はかなり若く見える。京紫朗は近衛の年齢を知らないので、それ以上の言及はできなかったが。それに、京紫朗の母親もだいぶ若く見えるので、人のことは言えないのだ。
「でも、知らなかったかしら?」
「はい……てっきりいないものだと」
「う〜ん、無理もないわね。うちにはもう2年近くいないからね」
「えっ!?」
「あの子ね、あ、麻呂虎っていうんだけど、中学に入学してすぐに病気で入院しちゃってね」
「え、そうなんですか。じゃあ……」
「えぇ、悪いけど、あの子がしたがってるから、高校受験させてあげたいの。中学三年間の勉強だけど、京紫朗くん、大丈夫?」
 お人よしな京紫朗は即答した。
「大丈夫ですよ、任せてください」

 子供の部屋に通されて、京紫朗は呆然とした。家庭教師をする子供が、とても中学三年生には見えなかったからだ。体格、身長からしても、どこからどうみても小学生である。長期の入院による栄養不足と考えても、まだ京紫朗は納得できなかった。
 それでも京紫朗は初対面の印象は大切だと思い、精一杯疑念を抱かせぬよう、明るく話した。
「えっと、キミの学年は?」
 興味津々に京紫朗を見ていたおさなごは、その口からハスキーボイスを繰り出した。
「中学三年生です」
 その言葉は笑顔で放たれた。京紫朗は思った、かわいいものだと。ここで京紫朗は、彼女に対する緊張感をほどいていた。
 とりあえず世間話から始めようと、芸能界の話題などをふってみたものの、彼女は意外とそういう方面に疎いらしく、あまりわからない様子だった。
「あ、自己紹介がまだだったね。俺は水鏡京紫朗、一応今は浪人生。趣味は詩の朗読と洗濯、特技はサッカー、苦手なものは、虫……かな」
「あ、私も、虫は嫌いです」
 京紫朗は気付いていた。この娘の雰囲気は、羽夢がかもし出す雰囲気に似ていると。だが京紫朗は、自分が知らず知らずのうちに羽夢の影をこの娘に重ねていることに気付いてはいなかった。
「私は、唯牙麻呂虎です。あの、水鏡さんのこと、キョウちゃんって呼んでもいいですか?」
 屈託のない笑顔で訊いてくる麻呂虎。しかし京紫朗はそれだけは御勘弁願いたかった。
「は、恥ずかしいからボツ……」
「残念……」
 本当に残念そうだ。そして何か猛烈に考えている。そして何か思いついたように顔がぱぁーっとほころんだ。
「あ、そうだ。じゃあ、せんせいって呼ぶね」
「ん、ちょっと照れくさいけど、それでヨロシク」
「じゃ〜、せんせいが私のこと呼ぶときは……」
「えっ、麻呂虎ちゃんじゃダメなの?」
 自分に年の近い中学3年生(京紫朗は年が近いと思っている)には、ちゃんづけしたりできない性格の京紫朗だが、外見が小学生なので京紫朗の羞恥心も麻痺させられているようだ。
「普通に名前呼ばれたらつまんないもん。んー、ろまちゃんとかは?」
「……それでいい」  京紫朗は麻呂虎のネーミングセンスを疑った。このままでは自分が「キョンキョン」と呼ばれるのではないかと少し不安になった。
 京紫朗は麻呂虎についてもっといろんなことが知りたいと思ったが、いきなりいろいろと訊いても怯えると思い、事務的な質問を始めた。
「じゃあ、どうしても受験したいと?」
「はい。私、小さいときから病弱で、中学受験の勉強も満足に出来ずに落ちてしまったの。だから、高校受験は悔いのない受験がしたい。でも、独学じゃもう間に合わない……」
 京紫朗は麻呂虎の肩に優しく手を置いた。
「大丈夫。そのために俺が来たんだよ」
 京紫朗は冴鬼のような人畜無害な人間にはそれ相応の対応をするが、一般の、特に女性に対しては、途端にヘンに紳士的になってしまうようだった。
「じゃ、こうしよう。まだろまちゃんの今の学力がどれくらいかわからない。だから軽く英語と数学の勉強をしよう。それでろまちゃんの学力のほどを見て、週に何回来るとかを決めるよ。そうだなぁ……明日、また来てもいい?」
「はい、私はいつでもいいよ」
「わかった、じゃあ、明日の午後6時くらいに来るよ。それと、今日はこんな夜遅くにゴメンね。ちょっといろいろあって……」
 京紫朗が言葉をにごらすと、麻呂虎の眼が輝きだした。
「いろいろって? 何があったの?」
「え、いや、説明すると長くなるから……」
「いいよ、時間ならあるから」
「え、でも、そんなおもしろいことでもないし……」
「いいの、知りたいの!」
 どうやら彼女は知的好奇心の鬼らしい。いい傾向ではあるが。
 仕方なく京紫朗は麻呂虎に今日の出来事をなるべく詳しく話してあげた。適当に話しても、彼女に逃がしてもらえそうになかったからだ。京紫朗の予想に反して、麻呂虎はものすごく興味深く話しに聞き入り、常に表情を変えて京紫朗をも楽しませた。
 そんな素直な心を前にして、京紫朗はつい羽夢のこと、別れた恋人のことをも話していた。麻呂虎はまるで自分のことのように泣いて悲しんでくれた。京紫朗も泣きたくなったが、こらえて笑顔で話した。
 終始、麻呂虎の感情の変化、表情の変化が止まることはなかった。それを見ながら、京紫朗は思った。
(この娘、今まで一人で寂しかったんだな。だから、人とのふれあいがこんなにも楽しいんだ)
 二人の話は、この日の深夜まで続いた。


 少女は昼下がりの公園で無邪気に遊んでいた。
「ろまちゃーん、おかあさんちょっとお菓子買ってくるわね。そこで遊んでるのよ」
「あーい」
 母親は言い終わってもまだ行かずに、しばらく子供を見つめていた。

               どうして……
                  どうして、そんな悲しい眼でろまをみるの……?
            ねぇ、おかあさん
 ざりざり
 砂場で一人で完成させたトンネル付きの山に手を通しながら遊んでいると、水がひとしずく、落ちた。それが砂の一部分を黒くぬった。
 少女は無意識に自分の頬を拭った。もう何度こんなことを思っただろう。

                なんで、ろまはひとりなの……?

 喉まで出かかって、それでも少女はその言葉を飲み込んだ。言ったら、言ってしまったら、何かが壊れるような気がして――

                         春・第二幕へ