春・第二幕


「暮凪零式ッ!」
 放たれた大量の本から無数もの光が飛び交い、それは爆風へと姿を変えた。その衝撃をもろに受けた男は、痛がるふうもなく、再び本棚の間に身を隠した。
「くそっ、草薙、火薬を持ち込むとはいい度胸してんじゃねーかっ!」
「こんなもんで終わりじゃないよ、冴鬼!」
 次は逆からの奇襲。そう企み、冴鬼は気配の有無を確認し、両腕に軽く十冊はありそうな本を抱えて飛び出した。しかしその動きは草薙には筒抜けだった。
「甘いよッ!」
 瞬時のウインドミル(風車投法)から繰り出された一冊の本の破壊力は弾丸にも等しかった。
 冴鬼はこれに当たればひとたまりもないと思い、咄嗟に近くの机に駆け寄った。
「きゃぁっ!!」
「うわ!!」
 学習中の学生は突然の来襲に驚く暇もなくふっとばされた。
「どけぇ、邪魔だぁ!!」
 四人掛けの大きな机を楯代わりにする。しかし、それだけでは足りない。こんな薄っぺらい机、あの弾丸なら簡単に貫くと、冴鬼にもわかっていた。
 そう、机は単なる囮。
 弾丸が机に触れる瞬間、冴鬼は机を飛び越え、前へと蹴りだしていた。両腕に抱えていた本はすでに装着済みだ。
「撃ち抜け、ガン・ファミリア!!」
 威勢のいい叫び声とともに、冴鬼の背中のリュックが開き、幾本もの器械の腕が姿を現した。それらが冴鬼の指がスイッチを押したのに反応して、あらかじめ装着されたハードカバーの本をバッティングマシーンの要領で撃ちだす。
「ちょっと、なんてもん持ち出してくんのさ!!」
 流石の草薙もこれは避けきれないだろうと冴鬼は踏んでいた。その予想通りに、草薙は避けきれないと判断した。
 しかし、反応できないわけではなかった。
「てえぇりゃああぁぁ!!!!」
 襲い来る剛速球を負けじと目にもとまらぬ蹴りで薙ぎ払う草薙。
「マジかよ……」
 草薙は本を蹴り落とすとともに、冴鬼の仕掛けた虎バサミが刃を閉ざす瞬間に次の地点へ飛び移り、すべての罠を無効化していた。
 そうして、お互いに万策尽きた、ある日の図書室の出来事だった。


 四月二日、正午。
 浪人生、水鏡京紫朗(みかがみきょうしろう)は、代々木セミナーという予備校の入学手続きを済ませて電車で甲子園に帰ってきたところだった。
 駅を出て、ダイエーの前を過ぎ、阪神高速の高架下を抜け、甲子園球場を通り、目的地にたどり着いてはじめて京紫朗は昨日のことを思い出した。
「そうだ……家は今、工事中だったか」
 水鏡家はラーメン屋創業のために家の改装工事を昨日始めたところだ。すでに家は跡形もなくなっていた。
 ここからまたダイエーの隣のホテルまで引き返すのかと思うと、自分がバカらしく思えてくる。
 ま、それもしかたないと思い、歩を進めようとしたとき、後ろから、正確には上方から声がかかった。
「せんせーっ!」
 聞き覚えのある声と確認して、声の方向を振り向くと、後ろの家の二階の窓には、昨日知り合ったおさなごがいた。
「ろまちゃん、こんにちは」
 声の主は唯牙麻呂虎(ゆいがまろこ)。京紫朗は昨日から、彼女の家庭教師となった。実際の年齢よりもはるかに幼く見える彼女に、京紫朗は、妹どころか自分の子供のような視線を無意識に向けていた。同時に、無意識に、元恋人、小野羽夢(おのうむ)の姿をも重ねていた。
 京紫朗は麻呂虎の部屋に上がらせてもらった。
「いらっしゃい、せんせい」
「ゴメンね、急にお邪魔して」
「いいよ、今お母さんもいないし」
 お茶を入れてくるねと言って、麻呂虎は下へ降りていった。
 改めて麻呂虎の部屋を見回してみる。お世辞にも片付いているとは言い難いが、女の子らしい部屋であることは確かだった。そして、何より広い。目算して軽く八畳はあった。
 よくよく見てみると、麻呂虎のセンスにはついていきがたいものがあることに気がついた。
 壁にかけられた時計は、腕時計の拡大版だった。しかも、壁に取り付けるためのものではなくて、どうやら本当に巨人用の腕時計らしかった。壁には接着剤で取り付けられていた。
 次にテレビ。画面は流石に普通だが、側面のいたるところに、何処のヤクザのものかわからぬタトゥーが施されていた。いや、七兆歩譲ってそれは常識の範疇にあるとしよう。京紫朗が真に驚愕したのは、そのテレビの上に置かれたものに対してだった。
 それは、プレイステーションソフト『ONEちゃん〜輝くハチ公〜』初回限定版だった。
 マニアの間では幻とさえ言われるものがこんなところに!! いや、驚くのはそこではなくて。麻呂虎がこのような、いわゆる世間一般で言うところのマイナーゲームを持っていることに京紫朗は驚いた。
 まだ会って間もないが、麻呂虎からはオタクやマニアといった特異なオーラは感じられなかった。ということは、麻呂虎はゲームのジャンルをあまり気にせず、自分がおもしろいと思ったものを気ままにやるという、理想ではあるがなかなかなれないタイプのゲーマーなのだろうか。
 そもそも麻呂虎はゲームをするのか、と京紫朗は思い、部屋を見回す。見たところ、パソコンは見当たらない。しかし、テレビのAV端子に繋がれたAVケーブルや、先ほどのゲームソフトから察するに、何らかの家庭用ゲーム機は持っているのだろうと思った。長期の入院中にゲームで時間をつぶしていたと考えても、全然おかしくはなかった。
 と、くだらないことを考えていると、プレートに二人分のコップを乗せた麻呂虎が戻ってきた。
「せんせい、おまたせ〜……わきゃっ」
 部屋の入り口の段差でつまずいた麻呂虎の手から離れた冷たい液体と数個の固体は京紫朗めがけて飛んでいった。
「あぶな……痛っ!」
 冷えた麦茶をかぶり、コップとプレートを頭ではじきつつも、京紫朗の腕は倒れかけた麻呂虎の体をしっかりと受けとめていた。
「……」
「…………」
 麻呂虎のまだ幼さの残る、というか、幼さ大爆発の顔が、京紫朗の目前、触れそうなくらいにまで近づいた。
 京紫朗にとって、雰囲気的にも羽夢と似ている麻呂虎をこんなにも近くに見る状況は、彼を以前の恋愛モードに立ち戻らせることになった。不覚にも、見入って、いや、見惚れてしまっていた。
 俺は……なにをみて……。
 正直、京紫朗自身も、何故麻呂虎にここまで見入ってしまったのか、わかっていなかった。
「……せんせ」
「え?」
「あの、髪、ふかないと」
 京紫朗の心情をわかりもせず、屈託のない笑顔でハンカチを差し出す少女。
 そんな彼女を見て、何故だか京紫朗の口元には自然と笑みがこぼれていた。


「それでは作戦会議を始めま〜す」
「何のだ」
「ツッコミ早ッ!」
 鳴尾のとある公民館の一室、長机をはさんで座っているのは髪房チェーンソー娘の岡本千恵(おかもとちえ)とショルダー二丁拳銃の星野恵(ほしのめぐみ)だった。
「う〜ん、とりあえず、現在の状況からもう一度整理しなおしてみるね。え〜、天地創造の頃、神様が杖を一振り、あら不思議〜、宇宙が出来ましたとさ。そしてそれをどんどん広げていき……」
「スキップ」
「今からおよそ六十億年前、こうして地球が出来上がったのです。当時はまだこの星には水しかなかったのです。小さなプランクトンや魚さんしかいなかったんです。人類の進化の歴史はここから始まったといっても過言ではないのです。やーい、ダーウィン、ざまーみろーですね〜。あ、魚さんといっても、絵師さんではないのでここ要注意ですよ」
「さらにスキップ」
「彼女は獣戦機隊の紅一点でして、ランドクーガーのパイロットやってたんですね〜。で、地球を裏切っちゃったシャピロ=キーツ少佐の恋人だったんですね〜。戦争の最中に幾度となく神の国への誘惑に遭うんですが、獣戦機隊としての、地球人としての自分の意志をしっかりと持ち、最後には自らの手でシャピロにとどめを刺してしまう、本作品屈指の悲劇のヒロインなんですよね〜」
「誰が沙羅にスキップしろと言った」
「こうして日本列島が形成され、大陸からジャワ原人や北京原人などの原人さんがやってきたのです。列島内にも、発掘された人骨から、三ヶ日人などがいたといわれています」
「大幅にスキップ」
「そしてこの年にメグちゃんこと星野恵がこの世に生を受けたのです。そしてその一週間と二日後、私こと岡本千恵も無事に生誕したしました。二人はそれはもう元気な赤ちゃんで、家がお隣同士だった二人は三歳の頃からの仲良しで……」
「……もう少しスキップ」
 星野は少し照れながら急かした。
「気まぐれで高校生になってみたりすると、あら運命、素敵なせんぱいがいるじゃないですか〜。その名は水鏡京紫朗。純真無垢な少女、星野恵はサッカー部の彼にゾッコンLOVEなのでした〜♪」
 ジャキッ
「……殺すぞ」
 星野は瞬時に右肩の拳銃の銃口を岡本のこめかみにセットした。
 岡本も押されてばかりではなかった。髪にくくりつけられた巨大なチェーンソーはちゃっかりと星野の足元にセットされていた。両足切断の準備は万全である。指は勿論スイッチに置かれている。
「え〜、申し訳ありませんでした。先ほどお伝えした内容に間違いがありました。水鏡京紫朗にゾッコンLOVEだったのは、星野恵と申しましたが岡本千恵の誤りだったようです。訂正するとともに、重ね重ねお詫び申し上げます」
 カチャ
 星野は念入りに訂正を聞いてから、拳銃を右肩に装着しなおした。
 岡本はそれを見て、チェーンソーのスイッチから指を離して、状況整理を再開した。
「恋する少女、岡本千恵の座右の銘は、『敵を知り、己を知れば百鬼帝国に敵はなし』だったので、まずは情報収集から始めました。幸いなことに彼女は情報技能が☆三つだったので、すぐに水鏡京紫朗に関する情報を入手することに成功したのです。しかし!」
 岡本は机を叩いて立ち上がった。
「その情報の内容は、彼女にとって吉報というには程遠いものでした。なんと、せんぱいには好きな女生徒が存在するとのこと。しかも、すでに恋人同然の状態だとか。さらに、その女生徒とは、彼女のクラスメートである、小野羽夢なのでした」
 岡本は今度は残念そうな顔になり、再び椅子に座った。
「そこで恋する少女は『せんぱいのはあとGET大作戦』を考えたのです」
 きりっと真剣な顔つきになる岡本。
「彼女は信頼するクラスメートである星野恵に協力を要請しました。メグちゃんは五千万円という法外な報酬のもと、快諾してくれました。持つべきものはあくどい親友ですね♪
 作戦の内容は、千恵ちゃんがバレー部の練習を終えてシャワーを浴びている最中にメグちゃんがせんぱいがシャワールームのドアを開けるように仕向けるというものでした。作戦は見事に成功し、年下である千恵ちゃんの濡れたしなやかな肢体や控えめだけど形のいい乳房、淡く茂った股間に劣情を抱いたせんぱいは、立場や世間体、ひいては我を忘れて……きゃ〜〜〜」
「脚色……というか、でっち上げるな。それはただの妄想だろう」
「……おほん、間違えました。実は作戦とは、そのせんぱいの想い人とやらを我らでシメてやろうかというものでした。とりあえず小野羽夢には、我々の意思を告げた上で徹底的にイジめました。当初はそんなに大それた事をするつもりはなかったのですが、彼女にせんぱいのことをあきらめる気配が見られなかったので、私たちもつい頭に血が上り、あんな酷いことまでしてしまいました。ただ、予想外に、せんぱいに影響が現れたのです。イジメの騒ぎが大きくなり、せんぱいはその事実を知ると、自分のせいで小野羽夢がイジメに遭っていると思い、自然と身を引くようになっていました。そのまま、二人の愛は自然消滅したといってもいいでしょう。いつの間にやらせんぱいは卒業してしまいます。その頃の千恵ちゃんは、イジメをしていたことへの後悔と罪の意識に苛まれていて、とてもせんぱいに愛の告白などできる状態ではありませんでした。そして、少しでも罪滅ぼしをしようと、卒業式の次の日に、小野羽夢のところに行って、せんぱいは羽夢のことが嫌いになったわけではない、今からでもやり直せる、と、励まそうとしました。メグちゃんも、謝るといって一緒に来てくれました。しかし、ここから事態は空前絶後の急展開を見せるのです」
 すでに岡本は、誰に話し掛けるでもなく、ぽつぽつと語っていた。
「卒業式の日を過ぎた小野羽夢は変わっていました。いえ、その日だけ、別人でした。まぁ、無理もないでしょう。今まで散々イジめて、私たちのせいでせんぱいとうまくいかなかったのに、今更になって励ましに来るなんて……誰でも癪にさわるでしょう。しかし、羽夢の怒り方は尋常ではありませんでした。羽夢が襲い掛かってきたとき、私達は反射的に身構えようとしましたが、その隙ももらえずに、私達は殴り飛ばされました。そのとき、思いました。真に学内最強の女は、間違いなく羽夢だ、と」
 岡本の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「一度とは言え、拳で語り合った仲。私たちは、友達として再スタートしました。このときから、私には心境の変化があったのです。そしてそれは、メグちゃんの心でも起こっていたのです。私たち二人は、羽夢のことが好きになってしまったのです。愛してしまったのです。ノーマルからいきなりレズビアンになってしまったのです。すでに今では、せんぱいに対する愛情など、微塵も感じていません。むしろせんぱいはライバルになってしまったのです。昨日の様子からして、せんぱいはもう羽夢のことは忘れようと思っているらしいけど、羽夢自身はまだせんぱいをあきらめてないっぽいんです。でも、私は羽夢の心が欲しい。羽夢の体が欲しい。羽夢、ああ見えて、髪ほどいて眼鏡とるとすんごくかわいいんです。体のほうも華奢で、スレンダーな美人タイプっていうか」
「まてまて、妄想にいくな」
「というわけで、現在の我々の目的は、羽夢のはあとをGETするということ。そういう意味では、目の前の警察脅迫女もライバルなのですが……」
「今はその時ではない」
「そだね、メグちゃん。でも、せんぱいを蹴落とした暁には、決着つけなきゃね♪」
「うむ」
 やっとのことで現状を説明し終わった岡本は、思い切り伸びをして、机に突っ伏した。
「で、これからどうするかだが」
「う〜ん、メグちゃんにまかす〜〜」
「フ……では、小野とあの軟弱者を引き合わすというのはどうだ?」
「え〜、それじゃ逆効果だよ〜」
「いまや小野に執着していないあやつを見れば、小野も少しは現実を見るだろう。まずは忌まわしき過去を断ち切ってやらねば」 「ん〜、それはいい考えかもね。じゃ早速羽夢を誘ってせんぱいの家に遊びにいこっ!」
 星野はぴょんぴょん飛び跳ねて部屋を出て行こうとする岡本の肩に手を置いた。
「ところで、ここの使用料金がすべて私持ちというのは何故だ?」
「あ、あはははは」
「納得いかん」
「ちょっと今月はいろいろと発売するから苦しくって〜、ゴメン」
「あ、待て! こら、返してもらうからな!」


 濡れた上着を干した後、京紫朗と麻呂虎は世間話を発展させ、いつのまにかお互いの好きなゲームの話をしていた。
「へぇ、ろまちゃん、ゲームとかやるんだ?」
「うん、結構やるよ。暇だったからね、病院は」
 麻呂虎は「やる?」とかいいながら、天井裏からゲーム機を持ち出してきた。なぜそんなところに置いてあるんだ、という疑問を、京紫朗はあえて飲み込んだ。
「今はね、『ロボ大衝撃』にはまってるの」
 麻呂虎の発した音に、京紫朗の食指が動いた。『ロボ大衝撃』とは、今、京紫朗の周囲でもっとも人気の高いゲームソフトであり、現在京紫朗もプレイ中のシミュレーションRPGである。正式名称を、『スーパーロボット大清掃〜衝撃の台所〜』という。
 京紫朗が驚いていると、麻呂虎が「知ってるの?」と嬉しそうに訊いてくる。
「もちろんだよ。あれはすでに今年の最高傑作だよ」
「せんせいもこれが好きなの? 嬉しいな、共通の話題ができて」
 思わぬところから二人の会話は急激な盛り上がりを見せる。この後も、やはりクレンザーは汚れがよく落ちるとか、援護するならスプレーカビキラーポッドがいいとか、今回はモビルトレースシステムのおかげで臨場感が最高だとか、普通の人が聞いたら凍り付くぐらいの会話を展開した。
 ひとしきりお互いのロボ大魂を語り尽くすと、すでに空のティーカップを持って麻呂虎が立った。
「そろそろ上着が乾いたかな、見てくるね」
 といって、麻呂虎が部屋を出ようとした時、甲高い、聞き覚えのある声が聞こえた。
「せんぱいの家がなーい!」
 京紫朗は一瞬ズッコケそうにもなったが、なんとかこらえて窓から唯牙家の前の道路を見下ろした。
 案の定、そこには髪房ジェイソンと唯我独尊ガンウーマンの後ろ姿があった。水鏡家の跡地を、呆然と見ている。
 だが京紫朗が気になったのは、その二人以外にもう一人の姿があったことだ。一瞬見紛ったと思い、目をこすってもう一度よく見たが、間違いないようだった。小野羽夢その人だった。
 星野が気配に気付いて後ろを見上げると、京紫朗と目が合った。 「せんせいのお友達?」
 いつのまにか麻呂虎も窓から身を乗り出していた。すでに岡本も羽夢も、京紫朗を見上げていた。
「あ、そうだ。あがってもらおうよ」
 そう言って一人で頷くと、麻呂虎は三人を迎え入れに玄関に走っていってしまった。
 残された京紫朗は、このややこしい状況を頭の中で整理しながら、背中に岡本の声を受けていた。
「せんぱーい、ちゅっす」

 一方、都ホテル某室では、京紫朗の父親である魚(うお)が気合を入れてキッチンに向かっていた。
「いよいよ来週開店だからな。しっかりと自分の味を出さないと」
 ラーメン作りの練習に取り組む魚の姿を、妻の葉最尼佳(はーもにか)が後ろから優しく見守っていた。いきなり言い出したこととは言え、魚は何事にも一所懸命で、葉最尼佳はそんな魚を見ているのが好きだった。
「……むぅ」
 魚が上げたうなり声は葉最尼佳の耳にまで入った。どうしたのかと思い、キッチンまで来てみた。
「あなた、どうしたの? 指でも切った?」
「……くうぅ……」
 魚はまな板に両手をついて悔しそうにうめいた。涙が板の上に数滴零れた。
それを見て葉最尼佳は息を呑んだ。
「……あなた?」
「は……もにか……」
「はい」
 魚は葉最尼佳のほうを向くと、歯を食いしばりながら言った。
「ラーメンって、どうやってつくるの!?」
 一瞬の沈黙の後。
「はぁ?」
 葉最尼佳は明らかに軽蔑の眼差しを魚に向けていた。魚はさらに涙目になって喋り出した。
「いやだからね、あのね、ラーメン屋開きたいのにね、ラーメンの作り方がね、わからな、あぷっ」
 言い終わらないうちに、魚の体は葉最尼佳のトーキックを食らい、宙を数回転した後、キッチンのテーブルを真っ二つに叩き割っていた。
「いたた……なにするんだよぉ、葉最尼佳〜」
 妻にはとことん弱い父親である。
「なにもかにも、どういうつもりかしら?」
 感情の込められていない声とは裏腹に、葉最尼佳の瞳には怒りの炎が見て取れた。魚は「あわわわ」と尻餅をついたまま後ずさる。
「あなたは自分の無計画な自転車操業のために、一家を路頭に迷わせる気なの?」
「自転車じゃなくてラーメ……」
「屁理屈を言わない!」
「はい……」
「ふぅ、んとに、しょうがない人ね。京紫朗が帰ってきたらなんて言うかしら。あら、そうだわ。京紫朗のバイト先の唯牙さんからたくさん給料ふんだくればいいんだわ。私ったら天才ね」
「鬼だ……」

「うぅわ、なんか今、背中に悪寒が……!」
 京紫朗はぞくぞくとした嫌な予感を感じ、身震いした。だが、突然の来客は、そんなことに構ってはくれなかった。
「……で、せんぱい♪ これは一体どーゆーことでしょー?」
 星野、岡本、そして羽夢の三人を部屋に迎え入れ、麻呂虎が新たに五人分の紅茶を用意するために部屋を出て下へ降りていった途端に、岡本は非常に嬉しそうな表情で、楽しそうな声を出した。だが、彼女の目が笑っていないことは、誰の目にも明らかだった。暴走を始めてしまった岡本を止めるのは不可能だとわかっているのか、星野は我関せずの姿勢を決め込んでいる。羽夢はというと、久々に会う京紫朗を目の前にして緊張しているかと思えばそうでもなく、岡本が京紫朗に突っかかっているのを見て驚いたような表情を見せている。
「さぁせんぱい、納得のいく説明を頂きましょうか」
 相も変わらずニッコリ顔で話し続ける岡本。京紫朗は、岡本が何を言いたいのか大体の見当がついていたが、羽夢にはまだ理解できていなかった。
「せ、説明ってなにを……」
 羽夢の消え入りそうな声を掻き消して岡本が続ける。
「ま、先輩くらい聡明で運動神経抜群のナイスガイなら、カワイイ女のコなんて引く手あまたかもしれませんけど、目の前にいる数々の美少女の純真な乙女心を振り回した末に、中学生の女のコに手を出すようなロリコンに成り下がってしまったと聞けば、いくらすでに熱が冷めた私といえど、黙ってはいられないのですよ、ほほほほ」
 早口にまくし立てる岡本に、京紫朗はツッコミどころを見失ってしまっていた。岡本の言葉に反応したのは羽夢だった。
「え……先輩、あの娘、さっきの麻呂虎ちゃんって娘と……?」
 いささかのショックを受けて、両手で口元を抑えながら京紫朗を見る羽夢。京紫朗は、その視線が醜いけだものを見るかのように感じられて、不愉快に思った。
「あ〜……だからさ、えっと。小野、それは誤解だって」
「五回目なんですかっ?」
「千恵、貴様は黙っていろ」
 暴走が少し直りかけた岡本を星野が止めに入った。京紫朗は岡本を見て呆れながらも弁解を続けた。
「あのなぁ、俺とあの娘が会ったのは昨日だぞ、昨日! たった一日で、しかも年下の娘に手を出すほど、俺が好色に見えるか?」
「ん、見えない」
 羽夢はほとんど考えずに返答した。信頼されているということであろうが、ここまで素直に否定されるとなかなか悲しいものがあった。
「……だろ? だいたい、それと岡本の熱が下がったことと、何の関係があるんだよ」
 京紫朗が岡本に問うと、訊かれてもいないのに羽夢が頬を赤らめて目を逸らした。岡本はその質問で自分が余計なことを言ってしまったことにようやく気がつき、慌てふためいた。しどろもどろの岡本を横目に、星野が代わりに答えてやった。
「水鏡。これは千恵のプライベートな問題だ。貴様の立ち入るべき領域ではない」
 漆黒の瞳で睨みつけ、高圧的な言葉とともに、銀色に輝く光沢が渋い拳銃で威圧することも忘れずに、星野は京紫朗のこれ以上のこの問題への介入を許さなかった。もちろん、科学要塞学園最凶候補の一角にガンをつけられては、京紫朗が逆らえるはずもなかった。
「い、いや、話したくないならいいけど。っていうか室内でそんな物騒なもの振り回すなよ」
 京紫朗の言葉を聞いて、星野は口の端をわずかに引き上げて、拳銃を肩に片付けた。京紫朗はその微笑を見て、なんとなく嫌な予感がした。
「……おい、星野。一応言っておくが、屋外でなら振り回してもいいって意味じゃないからな」
 直後、舌打ちが聞こえた気がした。油断も隙もないヤツ、と京紫朗は心中で思った。京紫朗はすでに気疲れしていたのだが、そこに今度は羽夢が突っ込んできた。
「きょ……あ、え、あの、先輩」
 京紫朗は一瞬、どきりとした。昔の恋人に、昔と変わらない、下の名前で呼ばれかけたからだ。岡本のハイテンションにのせられて、羽夢がいることを意識しながらも、あまり羽夢に視線を注ぐことができないでいた京紫朗は、改めて久々に会う羽夢と向き合った。今日の羽夢は、メガネをかけておらず、髪も三つ編にしていない、『羽夢さん放課後バージョン』だった。ちなみに、多重人格ということではないが、羽夢にはこれとは別に『羽夢さん学園バージョン』なるものが存在する。これはその名の通り、学校のある日の羽夢のスタイルであり、三つ編に牛乳瓶の底ほどの厚さがあるメガネを装着した、ガリ勉学級委員長モード全開の状態である。実際に羽夢はクラスの委員長を務めている。そしてその日の部活が終わると、メガネからコンタクトレンズに切り替え、ほどいた髪をシャワーでほぐして末摘花ほどに美しい髪をたなびかせて下校する。余りの変わり様なので、二つのバージョンの羽夢が別人であると思い込んでいる生徒は学園内に少なくない。さらに別パターンとして、『羽夢さん修羅モード』というものも存在するが、こちらの存在を知るものは、羽夢を本気で怒らせた経験のある星野と岡本の二人しかいない。それはともあれ、変身後の羽夢の姿に振り向かない男はいない、と断言できるほどだ。この状態が『放課後バージョン』である。その状態の羽夢が目の前にいるのだ。たとえ元恋人とはいえ、まともに直視するのは気恥ずかしさが少なからずあった。その羽夢が、不服そうな顔で、京紫朗に質問を投げかけた。
「なんで、先輩、麻呂虎ちゃんの家にいるんですか?」
 あぁ、なんでこんなに俺の立場が弱くなっているんだろう、と思って、京紫朗は軽く頭を掻きながら答えた。
「昨日、あの娘の母親に家庭教師のバイトを頼まれて、今日から来ることになってたんだよ。で、さっき、偶然前を通りかかったところをあの娘に捕まってただけだよ」
「なんだ……そうだったの、んですか」
 京紫朗は羽夢の違和感あふれる口調にじれったい感じがした。断ち切ったと思っていた、羽夢への想いが未だ消えきっていないということを、京紫朗はわかってはいなかった。
 羽夢は安堵の息を漏らしたが、ここでも息を荒げたのは岡本だった。顔を真っ赤にして、再びスイッチが入ったかのように暴走し始めた。
「やだせんぱい、家庭教師という立場で職権濫用して麻呂虎ちゃんに手取り足取り腰取り性のお勉強ですか? 淫逸です、不謹慎です、見損ないましたよ、せんぱい!」
「えっ……」
 岡本の言葉を真に受けて、羽夢はおそるおそる京紫朗に疑惑の眼差しを向けた。
「あー、そこ、真に受けないように。星野も、止めてくれ岡本を」
「そのためには先刻の貴様の制約を破らねばならんが」
「や、誰も殺せとは言ってないって」
「せんぱいっ、男の言い訳は見苦しいですよ! 武士の情けです、素直に白状すれば、首の皮一枚くらいは繋ぎとめてあげられるよう創意工夫します。さぁ、楽になりましょう、せんぱい!」
 物騒なことを言いながら、自分の髪にくくりつけられたチェーンソーの刃を京紫朗に向ける岡本。スイッチを入れるとともに轟音が部屋の中に響く。
「あぁもう、うるさいな! とりあえずスイッチ切れ」
 一瞬の後、星野が岡本の右延髄部にに手刀を浴びせ、岡本は気を失ってその場に倒れこんだ。それを見て、京紫朗は安堵の息を、羽夢は星野に対しての感嘆の息を漏らした。星野の手刀にシビれている羽夢をみて、星野は、羽夢のほうが強いだろうに、と思い、ため息を漏らした。
 場に一応の落ち着きを取り戻したところで、部屋のドアが開き、五人分の紅茶を持った麻呂娘が入ってきた。
「あれ、髪房のお姉さん倒れてますけど、どうしたん……きゃっ」
 ドアが開いたときからなにやら悪寒を感じてはいたのだが、それが的中するとは思わなかった京紫朗。麻呂虎はまたも、つまづいてしまったのだ。
 弧を描く五つのティーカップの先にあるものは、羽夢だった。
「きゃあああっ!!」
 熱湯にも等しいほどの温度の紅茶が、羽夢の身に降りかかる、はずだった。
「! 先輩……」
「ぅ……あっつぅ……」
 紅茶はすべて、京紫朗の背中に受け止められていた。羽夢をめがけて飛んでいくティーカップを見た瞬間、京紫朗は何も考えずに、羽夢に覆い被さったのだ。仰向けの羽夢の上に四つん這いになっている京紫朗は、背中の灼熱に歯を食いしばって耐え、片目を開けて羽夢に言った。
「……う、羽夢。大丈夫か?」
「え、あ、うん。あの……きょ、キョウちゃんこそ、火傷して、ない?」
「ん……多分、してる」
 急いでタオルを持ってきた麻呂虎が泣きそうな顔で京紫朗の背中を拭いた。
「あわわわ、すいませんせんせい〜」
「いいよ、予測できなかった俺にも責任があるからね」
 シャツを脱いだ京紫朗の上半身は下着だけになった。その肉体は、ギリギリでたくましいといえるラインだろう。そんな京紫朗を、起き上がった羽夢は髪を乱したまま、ぽーっと見つめていた。京紫朗と目が合うと、二人ともばつが悪そうに目を逸らした。
(今、俺、羽夢のこと、羽夢、って、呼んだんだよな……?)
(きょきょきょ、キョウちゃん……)
 恥らいあう二人の様子に、麻呂虎は首を傾げるが、星野は人知れず苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
(この作戦は失敗か)
 星野は深いため息をつくと立ち上がり、自分の手さげカバンを肩にかけた。
「私はこれで帰らせてもらう。千恵を頼むぞ」
「ちょっと待てよ。こいつ連れて帰れよ」
「重い」
 星野は一言で断って、気を失ったままの岡本を残して部屋を出ていった。
「はぅ〜、あのお姉さん、肩の鉄砲カッコイイですねぇ」
 麻呂虎はうっとりとしていた。京紫朗はイカン、と思い、即座に釘を刺した。
「ろ、ろまちゃん、あいつもここで寝そべってるお姉ちゃんも、絶対に真似しないようにね!」
 京紫朗の言葉に敏感に反応したのは羽夢だった。
「ろまちゃん……?」
 羽夢はそれが意味するところがわからず少しの間首を傾げていたが、程なくそれが麻呂虎のニックネームであることに気がついて、複雑な面持ちで京紫朗を見た。京紫朗は羽夢の表情を見て、勘違いされた、と思った。が、弁明しようと思った矢先、羽夢は立って無言で部屋を出て行った。
(あ〜、あれは完璧に勘違いされているな)
 しんと静まり返った部屋で、麻呂虎が悲しそうに声をあげた。
「ろま、なにかいけないことした? 今のきれいなお姉さん、怒ってたみたい」
「……そんなことないよ。ろまちゃんは悪くない。悪いのは、態度のハッキリしない、俺のほうだから」
 麻呂虎には、状況がろくに把握できていなかった。だが、京紫朗が心苦しいらしいことは、直感的に理解していた。麻呂虎は京紫朗の背中に自分の額を当てて、小さく呟いた。
「ろまはここにいるよ、出て行かないよ」
 当たり前のことだが、これが麻呂虎にできる最高の思いやりの表現だった。京紫朗はありがとうと言って、立ち上がり、渇いた上着をランニングシャツの上から直接羽織って前を閉じた。そして麻呂虎の頭を撫でて優しく言った。
「ごめん、ろまちゃん。俺も帰るよ、こいつを家に送っていかなきゃいけないし」
 撫でられた麻呂虎は、嬉しそうに頷いた。
「また夜に来るから、そのときに勉強みてあげるね。シャツも、そのときに取りに来るよ」
 京紫朗はぐったりしている岡本を背負った。
「ぃよっと」
 岡本の体が京紫朗の体に密着する。胸の感触は、意外に弾力に富んでいた。しかし、髪にぶら下がっているチェーンソーがジーンズにチクチクあたっていて、欲情している余裕などなかった。
(こ、怖ぇ……)
 唯牙家を出た京紫朗は、記憶の中で、一年程前にチェーンソーの取替え刃という物騒な落し物を届けに訪れた、背中で寝息を立てているクソアマゾネスの家の場所を探りながら歩いた。

 場所は変わって科学要塞学園校門前。数々の自転車やバスや電車や路面電車や自動車やフェリーや戦闘機でごった返すこの空間は、ここの学生たちにとっての憩いの場であると同時に、一般市民にとっても待ち合わせの場所にはもってこいだ。今日も朝から学生たちがフェンシング真剣勝負を繰り広げている。
 そんな中を、校門の中から私服の男女が出てきた。この春この学園を卒業したばかりの冴鬼賢介と草薙京である。
「……ったく、アンタが遅れたせいで、もう授業始まってたじゃないか。何のために学校まで先生に挨拶しに来たんだか……」
 草薙が苛立って言う。しかし冴鬼はいつだっておどけた調子だ。
「まぁいいじゃん。わざわざ授業中の教室に押し入って、恩師の仕事の邪魔するわけにはいかないだろ?」
「だ〜か〜ら〜」
 うっすらと笑みを浮かべた草薙は右手で冴鬼の顔を鷲掴みにし、体ごと宙に持ち上げた。
「アンタが遅れなければ済んだことでしょ〜? なんで遅れたのか理由を聞かせてもらおうか〜?」
 語尾が伸びる度に指に力が入り顔にめり込んでいく。骨が軋む音が聞こえた。
「あががが……。きょ、京……それじゃしゃべれねぇ……」
「破ッ!」
 草薙は脚を深く踏み込むと同時に右腕を前へ突き出した。冴鬼はその衝撃で後方で発射準備している戦闘機のコックピットに突っ込んだ。気を失ったパイロットを尻目に、冴鬼は顔をマッサージして骨格を戻した。
「いってぇ〜、やっぱあいつを怒らせるのはこの街にとってよくないな」
 草薙に聞こえないように呟いて、コックピットから地上に飛び降りた。冴鬼は、これ以上草薙を怒らせるのは得策ではないと判断して、素直に遅れた理由を話すことにした。
「いや〜、やはり人間、飢餓には絶えられませんて」
「どうせ朝から牛丼でも食べていたんじゃないの?」
 二人は学園から一キロほど離れた商店街まで歩いてきていた。商店街は、八百屋、薬局、病院といったオーソドックスな建造物から、コスプレショップ、プラモ展示専門店、爪楊枝で世界征服をしようの会世界総本山事務局などといったマニア御用達の建造物まで、実に様々なジャンルの産業が発展している。冴鬼たちも学園帰りによく利用していた。
「あはは、タウンワークをとろうと思っただけで、別に食べるつもりはなかったんだけどさ、『いらっしゃいませ』なんて笑顔で言われるとそのまま出るに出られないだろ?」
「タウンワークなんて、本屋でも置いてるじゃない」
「俺んちと京んちの間に本屋なんかないだろ」
「学園内にあるだろ」
「ん、言われてみれば……じゃあ、次なる論激の一手は……」
 冴鬼が更なる屁理屈を探していると、草薙が角から現れた見慣れた人物に気付いた。
「ねぇ賢介、あれってシローじゃない?」
 冴鬼は一旦思考を止めて草薙が指差す方向を確認する。
「ふむ、確かに。だが、背中のあのコは誰だ?」
「さぁ、こっからじゃよくわからないな。行ってみよう」
 冴鬼と草薙は、京紫朗に走り寄りながら呼び止めた。京紫朗は二人に気付くなり、近づくのを制した。
「危ない、不用意に近づくな!」
 冴鬼も草薙も、警告の意味を悟って、足を止めて絶句した。その理由は勿論、京紫朗の背中の眠り姫にぶら下がっているチェーンソーである。その殺人兵器はいつのまにかスイッチがオンになっていた。
「……おい、シロー。どういう状況なんだ?」
「知らないよ、いつのまにか動いていたんだ。目は後ろに無いから迂闊に手を出せないし……た、頼む、止めてくれ!」
 冴鬼が聞いたのはなぜ切断姫を背負っているのかということなのだが、この際細かいことはナシにしておこう。冴鬼は草薙の肩を軽く叩いた。
「飛び道具なら、京の出番だろ?」
「……いいの?」
「あぁ。こういうことは、そっちに一日の長があるからな」
「わかった、任せなよ」
 そう言って草薙は、ポケットから綺麗なおはじきを一枚取り出した。
「スイッチの高さは……あんなもんか。じゃあ、強さは80パーセントぐらいで、角度はゆるめで……よし、今日は薬指でいってみよー」
 満を持した草薙は、親指でおはじきを真上にはじいた。太陽の光を浴びて、七色のおはじきが輝く。
「じっとしてなよ、シロー」
「な、何をするんだ……?」
 重力下速度によって落下してきたおはじきを、口約どおり、薬指ではじいた。目にも止まらぬ速さでおはじきはチェーンソーのスイッチをオフに倒した。寂しい余韻を残しながら、チェーンソーは制止した。
「た、たすかった〜」
 背中に切断姫を背負いながら倒れそうになる京紫朗。三人はとりあえず落ち着こうと、姫を連れて近くの公園に向かった。

「なるほど、そういうことか」
 公園に着くと、冴鬼が単刀直入に京紫朗にことの経緯を問うた。京紫朗は話すのも面倒だったが、好奇心に満ちた二人の瞳を見ると、言わないと逃がしてもらえそうになかったので仕方なく口を割った。
「私はまた誘拐でもしてきたのかと思ったよ」
「バカなことを言うなよ、誰がこんな物騒な女……あれっ?」
「どした、シロー?」
 岡本の異変に気がついた京紫朗はあたりを見回した。すると案の定、ベンチから少し離れたところにチェーンソーが落ちていた。そしてその周辺には、長い柔らかな糸が幾本も落ちていた。
「髪の毛、切れてる……」
「って、このコのッ?」
「ホントだ。さっき見たときは長かったのに……」
 岡本の長かった髪が、今では見る影もなく、肩にも満たない長さにまでなっている。どうやら歩いている最中にチェーンソーが彼女の髪を切り落としたらしい。
「おぃ、これどうすんだよ、シロー」
「……どうしよう」
「知らないよ、髪は女の命って言うらしいしね。このコ、怒ったら恐そうだし」
 京紫朗は「正解です」と内心思った。冴鬼は「それはあなたです」と内心思った。そんなくだらないことを考えていると、岡本が、んん、と唸って目を覚ました。
「あれ、せんぱい……。あ、私、メグちゃんに急所に入れられて……。ってことはせんぱい、私を家まで送ってくれようとしてたんですね!」
 たちまち笑顔になり、嬉しそうに京紫朗を見上げる岡本。すると岡本は、京紫朗の隣に二人、新顔がいることに気がついた。京紫朗は岡本の視線に気づき、二人を紹介した。
「あぁ、俺と同じく、おまえの一コ上の冴鬼と草薙だ」
「冴鬼……草薙……」
 岡本は暫く額に指を当てて記憶を泳いだ。ほどなくひらめいて、大声を上げた。
「ああぁ、お二人はあの図書館の伝説のお二人ですかっ?」
「えっ……俺たち、そんなことで有名なの?」
「アンタが派手にやるからだよ、賢介」
「はっ、もしや……」
 さらにひらめいた岡本は、込み入ったことにまで口を出した。
「お、お二人は、付き合っていらっしゃるんですか……?」
 冴鬼も草薙も、動じずに頷く。
 岡本の頭の中に轟音とともに稲妻が走った。岡本は、まるで強敵を前にして怯えるかのような目で二人を見た。
(なんだ、このコ……俺達の目的に勘付いているのか……?)
(この二人……すでに科学要塞学園OB最強タッグトーナメントを視野に入れているというの……?)
(気をつけなよ、賢介。このコ、ただもんじゃないよ)
 様々な思惑が入り乱れる中、一人何もわかっていない京紫朗が取り残されていた。このまま黙っているのも悪かったので、京紫朗は酷でも自分から岡本に告げることにした。だが、岡本から切り出してくれた。
「そういえば、せんぱい。私のカッターはどこですか?」
「あ、あぁ、そのことだけど……」
 京紫朗が話そうとすると、岡本は先にチェーンソーを見つけ、その方向に振り返った。
「今日はなんだか頭が軽い気がします〜♪」
 実際軽いのだが、本人はそれに気付かずにチェーンソーの元へ駆け寄る。
「ど、どうしよ……」
 京紫朗はこんなときは女に聞くのが一番と思い、草薙の方を向いたが、そこには草薙はおろか、冴鬼さえもいなかった。
(くっ、逃げ足だけは速い。って、そんな場合じゃ……)
 京紫朗が岡本に向き直ったときには、すでに岡本は自分の女の命のなれの果てを目の前にして呆然としていた。
「……!」
 慟哭にも近い悲しみのオーラが岡本の後姿から感じられ、京紫朗は絶句した。
「……これ、私の髪、ですか?」
 これに自分が答えるのは酷だ、と思ったが、それが真実ならば、言うしかないのが世の定め。
「ごめん、岡本。俺がもっと気を配っておまえを運んでいれば、こんなことには……」
 岡本が京紫朗のほうへ向き直った。
「せんぱい、ショートは似合ってますか?」
 岡本は問いながら、軽く首をかしげた。
 風にかすかに揺れる短い髪。小柄な少女に、無造作にカットされた髪は、得てして妙なマッチングだったが、京紫朗にはすごくかわいいと思えた。思ってすぐに京紫朗は頭の中で否定した。
(こ、このクソアマゾネスに一瞬でもカワイイなどと思ってしまうとは……水鏡京紫朗、一生の不覚!)
 京紫朗が苦悩していると、岡本はくすくすと笑って、チェーンソーを拾い上げた。それを今度は自分の腰に巻きつけた。そして京紫朗に対して不敵な笑みを浮かべた。
「いいですよ、先輩。許してあげます。でも、その代わり……」
 岡本はうわべだけ申し訳なさそうに取り繕って、公園に備え付けられている時計を指差した。時計の針は正午過ぎをさしていた。
 京紫朗はすぐに岡本の意図を察した。
「わかった。おごるよ、昼飯」
「えへへ〜」
 不可抗力とはいえ髪を切られたのに、嬉しそうな笑顔で京紫朗の後について歩く岡本。京紫朗は岡本が哀しみを紛らわすために無理に元気に振舞っているのだと思って、申し訳なく思った。だが、当の岡本本人は、朝から何も入れていなかった腹を無料で満たせるので心から嬉しく思っていた。
 それほどの修羅場にもならず、歩いて公園を出て行く二人を、完全に傍観者に回った冴鬼と草薙が樹の枝に座って見ていた。
「あのコ……どっかで見たことある気がするんだけどなぁ」
「アンタねぇ、まだわかんないの? あのコ、岡本千恵だよ」
 名前を聞いて、冴鬼はハッとして、目を見開いた。
「岡本、っていうと、あの在校生最強の一角……!」
「チェーンソー見た時点で思い出すでしょ」
 草薙は呆れ顔でため息をついて、再び真面目な面持ちに戻る。
「で、あのコに関する情報は?」
 草薙に聞かれ、冴鬼は上着の内ポケットから小さめのPDAを取り出し、画面に指で触れた。パスワード『SRW』を入力し、シークレットファイルを開く。膨大なデータの中を、『岡本千恵』で検索し、目的の情報を一件に絞る。その記事の最初に、『最新情報』のマークがあった。
「なんか……今の相棒と決裂中らしいぞ。タッグの新パートナーを争って」
 それを聞いた瞬間、草薙が血相を変えた。
「なんだって! その新パートナーは誰?」
「さぁ、そこまではわからん。けど、同じ新三年の中にいるのは確からしいぜ」
「そこまで絞れたら、アンタの情報収集能力を持ってすれば特定するまでにそう時間はかからないでしょ?」
 草薙の期待をよそに、冴鬼は腕組みをして唸った。
「俺の情報技能を買ってくれるのは嬉しいが、そうそう都合よくはいかねぇな。あの岡本ってコ、異常にガードが固くてなかなか情報が集めにくいんだ」
「やっぱ、むこうもただもんじゃないってこと?」
「あぁ。あのコの特技は、俺と同じく情報技能だからな」
「そういやアンタ、在学中のタッグレース、あのコと組んでたもんね」
「あのコと組んでなかったら、正直、優勝できなかったかもしれない。下手すりゃ情報にかけちゃ俺より上かもしれねぇ」
「そっか……たとえ一つ下でも、あたし達みたいなのもいるってことか」
「相棒も要注意だぜ? って、説明するまでもなし、か」
「うん。近距離戦の岡本と遠距離戦の星野の黄金タッグはOBの連中の間でも有名だからね」
「そうだな。こりゃ俺達もうかうかしてらんねぇな」
 二人が話している間に、京紫朗と岡本は街に消えていった。草薙が枝から飛び降りる。
「さ、図書館でも行くよ」
「え、何しに?」
 聞きながら、冴鬼も飛び降りる。着地してから草薙が呆れて言う。
「何って、勉強に決まってるでしょ」
「あ、そっか。俺達って、浪人生だっけか」
 ふと、冴鬼が空を見上げながら言った。
「なぁ、俺と京ってさ、どうやってくっついたんだっけ?」
「なに、唐突に」
「今な、シローが大変なんだよ。あいつは気づいてねぇかもしれないが、確実に小野さんのこと、忘れ切れてないって、こっちからみたらまるわかりなんだよ」
「……それで?」
「でさ、俺、思うんだよ。男と女の関係って、愛って、なんなんだろうな、ってさ」
 草薙は、思わず吹き出した。
「……漸近線?」
 そう言うと、ついに耐え切れなくなり、草薙ははじけたように笑い出した。すると、冴鬼は思い出したように真っ赤になった。
「わ、バ、バカ、余計なことは思い出すな!」
「あははは、ゴメン。でもあの時のアンタったらおかしいのなんの」
「本気で殴っておいて、よく言うぜ……」
 笑いながら図書館へ向かう冴鬼と草薙。だが二人はまだ、大いなる胎動に気付いてはいなかった……。

 十数分後、岡本を連れた京紫朗は、国道沿いに適当なファミレスを見つけてそこに入った。京紫朗としても、今日は朝から何も食べていないので、何か手ごろな値段で大量に食べられるものはないかと思い、メニューを開いた。しかし、メニューを開いてしばらくページをめくっていくと、京紫朗の手は汗ばみ始めた。
「た、高い……」
 千円を下回るメニューが一つも無い。一番安いものが「コンドルフライ、千三百五十円」である。しかも見たところ、「パーフェクトジオング」やら「全軍撤退」やら「玉露入りから揚げ」などという、聞き慣れないメニューばかりだ。「ハンバーグ」とか「きのこ雑炊」といった、いかにもファミレスにありそうなメニューがまったく無い。
「なんなんだ、このファミレスは」
「せんぱい、なかなかやりますね〜。女のコ連れていきなりこんなあやしげなお店に入るとは」
「や、俺も初めてなんだけどな」
 そういえばここは自分がおごるんだったと思い出した京紫朗。だが、まともに腹がふくれそうなものを食べようと思ったらいくらかかるかわからない。京紫朗は散財の覚悟を決めた。どうせこれからはバイトで金が入るのだから、ここでの出費には目をつぶろうと思った。このとき京紫朗は、バイト代が母親に巻き上げられるとは夢にも思っていなかった。
「そういえばせんぱい、訊こうと思っていたんですけど」
 テーブルに届けられた「真ハムラビリゾット」という異常に赤い料理を前にして、岡本が言った。
「なんでせんぱいの家、消えてたんですか?」
「ん〜、もっともな質問だが、どう説明すればいいのか……」
 京紫朗は事の成り行きをとりあえずかいつまんで説明した。父親が突然ラーメン屋を始めようとしていること、今はホテルに住んでいることを。
「へぇ〜、お父さん、ロマンがあっていいじゃないですか〜」
「ロマンで飯が食えれば苦労しないけどな」
 京紫朗は少々皮肉を込めて言った。
「でもロマンを忘れた大人はつまらないですよ〜」
「……そうだな」
 自分にとってのロマンとはなんだろう。恋愛に生きた時期も過ぎた。勉学に生きた時期も負けた。スポーツに生きた時期も、結局インターハイ出場はできなかった。十八歳にして、早くも自分の人生に行き詰まりを感じている京紫朗であった。
「あと一つ訊いていいですか?」
「なんだ?」
「さっきの家の……麻呂虎ちゃん、でしたっけ。あのコの家庭教師だっていってましたよね」
「あ、あぁ」
 また暴走されるのではないだろうかと、少し脅える京紫朗。だが岡本は首を傾げただけだった。
「でもせんぱい、学校の勉強のほうは大丈夫なんですか? 理系の大学生って勉強が難しくて大変だって聞きますけど」
「大学生……って、あれ? 言ってなかったっけ?」
「何をですか?」
「あぁ、そうか。言ってないならわかるわけないか。俺、浪人生なんだ」
 それを聞くと、岡本は目が点になった。
「え……? せんぱい、松ヶ崎大学を落ちてたんですか? うそ、受かってたとばっかり」
「ま、落ちたものは仕方ないさ。来年また頑張るよ」
 それでも岡本は納得いっていないようだった。
「ん〜、でもせんぱいが落ちるなんて信じられません! どうして落ちたんですか? 試験官に投げっぱなしパワーボムでもしたんですかっ?」
 何故落ちたのか。京紫朗は、言い訳がましくなるから今までこの話を誰にもしなかった。というか、別に誰も訊いてこなかったのだが。しかし今、岡本に訊かれて、どういうわけか話してしまいたい気分になっていた。話したほうが少しは気が楽になる、と思いたかった。それに、後輩に対してのアドバイスにもなる、と、いろいろと理由をつけて、誰かにこの話を、言い訳をしたかった。
「……それがな」
 話し始める京紫朗の声を、岡本はじっと聞いた。
「実は、センターの選択科目欄にマークするの忘れてたんだよ、それで零点さ」
 言い訳は一瞬で終わった。ただ、それだけだった。
 岡本はまたも目を点にしていた。
「そんなことで一年を棒に振ることに……?」
「まぁ、仕方ないさ。注意しなかった俺が悪いんだし」
「ん〜。でも、そんなことで人の人生が変わってしまうなんて、なんか納得できません」
 岡本は不満そうだ。何故他人である自分のことにそんなに親身になって不満がってくれるのか。岡本を、羽夢をイジめていた元気娘としか見ていない京紫朗には皆目見当のつかないことだった。
 でも、岡本に失敗の理由を話すことで、心のもやが晴れた気がして、京紫朗はすがすがしい気分になった。それが表情ににも出ていたのを、岡本は見逃さなかった。
(この精神力、使えますね〜♪)
 岡本が京紫朗を見てにやけていることに京紫朗が気付いた。
「なに笑ってるんだ、さっさと食え。出るぞ」
「ちょっと待ってくださいよ〜、せんぱい。このハムラビリゾット、辛くてなかなか食が進まないんですよ〜」
「しょうがないな、待っててやるよ」
 気が晴れて、少し寛大になれたと、なんとなく感じている京紫朗だった。


 あの図書館の騒動の翌日、冴鬼と草薙の二人は、自宅謹慎処分にも関わらず、それを忘れて学校に来て、授業を受けさせてもらえず、屋上で一緒に寝そべっていた。
「静かだなぁ、草薙……」
 授業中なので静かなのは無理もないが、何も話す話題が見つからなかったので適当なことを喋る冴鬼。
 草薙が大の字で寝転がっている隣に、冴鬼が自分の腕を枕にして寝転がっていた。冴鬼はチラッと草薙の表情をうかがった。顔の半分しか見えないが、その表情は明らかに不機嫌そうだった。それも無理はない。ライバルである冴鬼との決着をつけるための対決が引き分けに終わってしまい、その不満を紛らわすための授業にも出させてもらえないのだから。
 だが、冴鬼は決着がつかなかったことには特に不満はなかった。それよりも、目の前の自分と同レベルで闘える女に惚れてしまったのだ。一度惚れてしまえばそこは若い力みなぎる高校生、走り出したら止まらない。なんとかしてこの胸の中の思いを伝えようと、冴鬼は昨晩からずっと考えていた。
 冴鬼は思った。男なら一発勝負、当たって砕けろだ。思ったことをそのままぶちまければいいんだ、と。
 チャイムの音が響いた。これから昼休みだ。草薙が食堂に行くために、無言のまま立ち上がり、屋上を去っていった。
 冴鬼は両の手のひらで思い切り顔を叩くと、拳を握りしめ、草薙を追った。階段を下りてすぐ、空腹の授業から開放された生徒で賑わう廊下で、冴鬼は草薙の腕を掴んだ。
「……何?」
 特に感情のこもっていない目で、その表情には鬱陶しさを浮かべる草薙。
 直球勝負、と一言、頭の中で念じて、冴鬼は思い切って叫んだ。
「俺はっ、おまえが好きだっ!」
 その場に居合わせた一同が騒然とした。草薙も、予想だにしないことを言われて、目をぱちくりさせている。
 ここで一気にたたみかけろ、と念じて、冴鬼は更に続けた。
「一緒に保健室でメイクラブしようぜ! 俺とおまえの相性はガチンコマキシマム、二人の愛はまさに漸近線! 宇宙の果てで木星人が呼んでるぜぃ!」
 一同は、さっきとは違う意味で騒然とした。言いたいことを言い終え、満足感にあふれる表情をしている冴鬼とは対照的に、草薙は薄ら笑いを浮かべて指をボキボキと鳴らしていた。冴鬼はそれを見て困惑した。
(あれ? 今、俺、愛の告白したんだよな? なんで怒ってんの?)
「それじゃ一生交わらんだろーがぁ!」
 怒声とともに、草薙渾身の一撃が冴鬼の顔面に炸裂する。宙を舞う冴鬼は、遠のいていく意識の中で思った。
(恋愛ってやつは、難しいぜ。やっぱ、俺の知識と情報が足りな過ぎたか……)
 このとき、冴鬼の情報技能が開花したのは言うまでもない。

  春・第三幕へ