春・第三幕


 それは昼下がりのある公園。幼稚園の帰りの子供たちが楽しく遊び、母親たちは雑談に花を咲かせる、どこにでもある風景。
「めぐみ。あんまり遠くに行っちゃダメよ」
「ほら、ちえちゃんも一緒に行っておいで」
 若い母親たちに送り出され、手をつないで砂場へ向かう少女が二人。
一人は物静かで感情を表に出さない、落ち着いた雰囲気を持った、あるいは大人びた感じのする女の子、恵。もう一人は、常に笑顔を絶やさずに場を盛り上げる、落ち着きのない女の子、千恵。二人は、はっきりと正反対の性格だ。
 砂場を目前にして、恵が急に足を止めた。そのため、手をつないでいた千恵は砂の上で尻餅をついた。
「いたぁ〜い。どしたの、メグちゃん」
 恵は立ち止まったまま、公園沿いの歩道をじっと見ている。千恵もつられて視線を送ると、そこには一組の母子がいた。
「あ〜、あの子、最近よく見かけるね。この辺に住んでるのかな?」
 千恵だけではなく、恵にも、母親に抱かれた子供に見覚えがあった。名前は知らないが、自分たちが幼稚園の帰りに公園に遊びに来ると、ちょうど入れ違うように帰っていく。
「一緒に遊びたいね〜」
「……」
 恵は何も答えずに、砂場から今来た方向へ引き返した。
「どこ行くの、メグちゃん」
「眠いから、今日はもう帰る」
 恵の言葉を聞いて、千恵は思わず嬉しくなった。感情表現が乏しく思える恵にも、その感情が激しく揺れ動いたとき、それが行動に現れるということを、千恵は知っていた。今も、理由はわからないが一緒に遊べない子を放っておいて自分たちだけが遊ぶという行動を許せない恵が目の前にいる。千恵には、それが嬉しかった。
 いつしか、千恵は恵の感情表現役になっていた。その代わり、考えることを恵に任せた。二人は二人一緒で完璧だった。一人では、決定的に欠けたものがあったから。そして、こんな依存関係をいつまでも続けていてはいけないということも、無意識ながらに二人ともわかっていた。


四月も半ばを過ぎた頃。大雨が数日続き、桜もすっかりと散ってしまって、道路の橋の水溜りには花びらが浮いている。それを、何人もの人々が踏んでいく。人が溢れた街、そこは三宮。
 八階建ての予備校、代々木セミナーから出てきた浪人生、水鏡京紫朗は、入り口前で友人と会った。
「しかし、結構久しぶりだよな、こうして会うのって。海遊館行った次の日以来か」
 センター街を特に目的もなく歩きながら、京紫朗に話し掛けるのは冴鬼賢介。中性的なハンサムで、背も高く、服のセンスも決して悪くない彼だが、頭の悪さだけはハンパじゃない。京紫朗とともに浪人をしてしまったが、あっさりと文系に転向してしまった。
 京紫朗は現役時と変わりなく理系を続けているが、彼の場合、センターの選択科目欄のマークし忘れが原因で浪人しているので正直辛かった。
 お互い、予備校内でのクラスも違うので、最近は会えていないが、折角偶然遭ったのだから、そこらへんをぶらつこうということになった。
「でもさ、冴鬼。さっき予備校の前で女の子と話してたみたいだけど、よかったのか?」
「ん、あぁ、別にたいした話じゃないし、同じクラスの娘だからまた会えるよ」
「や、俺が言いたいのはそういうことじゃなくって。草薙だよ、草薙」
「京? あいつがどうかしたのか?」
 きょとんとする冴鬼に、よくもまぁこんなやつに彼女がいるもんだなぁと思う京紫朗。
「おまえが他の女のコと仲良くしてるところを草薙が見たらどう思うかってことだよ」
「別に、どうも思わないんじゃないか?」
「……かもな」
 そういえば草薙も似たような性格だった、と京紫朗は思い直した。
「それに京はまだ授業受けてるからな」
「え、授業?」
「あぁ。今は五階でサテライン授業らしいぜ」
「ってことは、草薙もヨヨなの?」
「しらなかったのか、シロー」
 ちなみに、ヨヨというのは代々木セミナーの愛称。シローというのは京紫朗の愛称である。
 草薙とは、京紫朗たちの友人で、冴鬼の(一応)恋人である草薙京のことである。冴鬼によると、最近、自分と同じ名前のキャラクターが出ている格闘ゲームにはまっているらしい。
「大丈夫か、浪人生なのに」
「シローだってロボ大やってるだろうが」
 ロボ大については第二幕を参照して欲しいが、簡単に言うと、京紫朗が大絶賛しているゲームソフトのことである。
「それよりさ」
 冴鬼が切り出した。いつにもまして真剣な顔だ。彼が真剣な顔をするのは他人の心配をするときと『タイガーバックホール』というお店で同人誌を選んでいるときのどちらかしかない。今はもちろん前者である。
「俺や京のことはどうでもいいんだよ。おまえはどうなんだよ、あれから」
「どうって、何が?」
「小野さんのことに決まってんだろが」
 小野。近頃の京紫朗はこの名前をよく耳にする。もう慣れてしまったので以前のようなトラウマにはなっていない。
 渦中の人物である彼女は小野羽夢。現在高校三年生の女のコだ。京紫朗の元恋人なのだが、自然消滅状態になっている。つかみ所のない間柄なので京紫朗にとっても彼女が自分の中でどの位置にいるのか、はっきりとはわからない。
「どうもなにも、なにも変わるわけないだろ」
 京紫朗の視線は泳いでいて、言葉には気がこもっていなかった。冴鬼は京紫朗の前に出て、京紫朗の両肩を思い切り叩いた。
「シロー、おまえ明らかにヘンだ。後悔とか、悲しみとか、嫌悪とか、そういう嫌なオーラ出まくってんぞ」
 京紫朗は内心驚いた。冴鬼の言葉が、自分でも気付いていない核心をついていたからだ。
「でも、だからって……」
「だからってどうしようもない? んなこと言って、また何年もほったらかして後の祭りかよ。水鏡京紫朗には学習能力は無いのか?」
「……理論や理屈でいくらわかってても、それだけでなんとかなる問題じゃないんだよ」
 京紫朗は冴鬼を直視できなかった。友だからこその手厳しい意見に、正直なところ感謝をしているが、素直に聞き入れることができなかった。
 ここ数日、京紫朗は精神的にまいっていた。
「それよりさ……」
 自分の肩に置かれた冴鬼の両腕をつかんで切り出す京紫朗。
「おまえ、予備校行ってたんじゃないのか?」
 その言葉に冴鬼の顔が引きつる。
「あ、あたりまえじゃないか、マイフレンド。ボクは予備校の前にいたんだよ?」
「じゃあ、なんで手ぶらなんだよ」
 京紫朗は予備校前で会ったときから冴鬼が何も持っていないことがずっと気になっていた。うすうす原因はわかっていたが、予感が当たっていないことを期待せずに訊いてみた。
「おまえ、サボったな?」
「……うぐ!」
「いや……サボってるだろう!」
「ぬああああ!」
 冴鬼は昇天した、ふりをした。どうやら習慣的にサボっていることが京紫朗にばれてよほどショックだったらしい。
 冴鬼は高校生のときからよく学校の授業をサボっていた、いわゆる不良である。しかし学校には毎日欠かさず(たとえ日曜日であろうと)登校していたので、授業中は校長室で羊羹を食べたり、屋上で昼寝をしたりしていることが多かった。その悪い習慣は今も続いているらしく、今日も予備校に来るだけ来て、授業には出ずにずっと食堂で自習(自称)していたようだ。
「冴鬼は変わらないよな、その証人台リアクションも。俺なんか無理にでも変わらなきゃやってけないってのに」
「おまえはまわりの状況が変わりすぎなんだよ。そういうときは流れに身を任せるのもまた、一興だぜ?」
「できることならそうやって気楽に考えたいよ」
「ほほぅ、ならばこの冴鬼が教授してさしあげようか」
 京紫朗としては皮肉をたくさん込めたつもりだったのだが、冴鬼には誉め言葉に聞こえたらしい。
「日本語って難しいんだな」
 京紫朗がぼそっと呟いた。冴鬼には聞こえていなかった。その言葉は、遠く、思い出になった過去の日々へ送ったものなのだから。

 三限の終了を告げる鐘が鳴ったばかりの科学要塞学園三年三組の教室。漢文の教師が、まるでチャイムが聞こえなかったかのように大声を撒き散らしながら黒板にチョークを叩きつける。
「ハッハッハー! 今日はなァ、この我輩の甚大な愛情の具現化である課題、それをやってこなかった不届き者が五人もいたのだからなァ! 彼らに全訳をやらせたらこの我輩の偉大な漢文教授の時間が無駄に浪費されてしまったのだよ、諸君。これは昼食摂取の機会を返上してでも詫びてもらわねばなぁ! ハハハハハ!」
 余りにも自分勝手の主張を背中の向こうの生徒たちに押し付ける漢文教師の台詞が言い終わらないうちに、一人の女子生徒が席を立った。立つ際に何か硬いものが椅子にぶつかる音がしたので、流石の漢文教師も誰かが席を立ったことに気付いたようだ。
「んん〜、何処の某なるか、この我輩の授業を途中退席しようなどという腐りきった精神の申し子は……」
「先生、おなかがすきました♪」
 席を立った女子生徒は、自分の腰に巻きつけてあったものに備え付けられたスイッチを入れた。それは轟音を上げ、先端に光る刃を回転させ始めた。人、それをチェーンソーという。
「な、なななな……無駄だぞ、ミスオカモト。き、きしゃまの手口はよぅくわかっておる。何度も同じ手が通用すると思わ……」
 そのとき、耳を破らんほどの破裂音が教室中に轟いた。音の主は、チェーンソーを持った少女よりも早く席を立っていた、というかもとから席になど座っていなかった教室の最後尾の女子生徒の両手に握られた二丁拳銃だった。弾丸は漢文教師の両脇の黒板にめり込んでいる。もはや全身が震え切って喋られる状態ではない。
「千恵、早く行かないと、マグマ丼がなくなる」
 拳銃少女がチェーンソー少女を促す。
「待ってよ、メグちゃん」
 千恵と呼ばれた少女は腰に取り付けたチェーンソーのスイッチを入れたまま、ドアから出て行くメグちゃんについていく。振り回されたチェーンソーによって、出入り口に取り付けられたドアが真っ二つに切断されたことを彼女は知る由もない。クラスメートたちは、ただただ呆然とするのみであった。
 チェーンソー少女の名は岡本千恵。拳銃少女の名は星野恵。二人とももはや学内最凶クラスの存在になりつつある。ただ一人、小野羽夢の存在を除いては。
 廊下に出て、岡本は星野に走り寄った。宙を舞うチェーンソーを、星野は軽やかなステップでかわした。
「……私の半径二メートル以内に近づくな」
 星野の身を案じた提案に、岡本はショックを受けたようだった。
「そんなっ、ひ、ひどいよ、メグちゃん。東に疫病あれば一緒に行って細菌採ってきて地元でばらまき、西に殺人あれば一緒に行って捜査の邪魔をした挙句に二人で犯人を無罪にしてしまうほどの仲なのに……」
「私はそんなことをした覚えはないのだが」
「私の記憶にはちゃんとあるもの」
「そんな夢、いつ見た」
「えーとね、昨日」
「……もういい、疲れた」
 星野が会話を続ける自信をなくすと、ちょうど二人は学生食堂の入り口に着いた。授業の最後にごたごたがあったために少し遅れてしまった二人はすでに長蛇の列になっている丼物コーナーの列に急いで並んだ。
 結局、念願だったマグマ丼は岡本に最後の一杯を買われてしまい、星野はチキン南蛮丼を買った。食卓についてからも、星野は岡本のマグマ丼を恨めしそうに見つめていた。岡本もそれに気付いたようだ。
「あ〜。メグちゃん、これ食べたいんでしょ」
「ぬっ……い、いや、そんなことは……」
「メグちゃんって、昔っからヘンな食べ物好きだもんね〜」
 岡本に自分の過去を知られ尽くしている星野は、真っ赤になってうつむいた。岡本の前でしか見せない、彼女の感情表現の最高潮である。二人になると時々、岡本はこうして星野をからかって反応を楽しむ。お互いに知り尽くした仲だからこそ、気兼ねなく悪ふざけできる。そんな関係が、二人にとって理想だと、二人ともが思っていた。
「ヘンな食べ物っていえば、この間、水鏡せんぱいと昼ゴハン食べたんだけどね〜」
「!」
 星野の眼光が鋭く光る。星野は今までも、京紫朗の話になると険しい表情になる。何しろ、星野は京紫朗を完全に敵視している。岡本のように容赦したりすることはない。岡本にとっても慣れっこなので、気にせず話を続ける。
「でね、せんぱいったらわけわかんないレストランに連れて行くんだよ。すごいあやしげな……」
 楽しそうに話す岡本を見ながら、星野は思った。あぁ、このおしゃべりな無邪気さが自分の幼馴染みの真の姿なのだ、と。
「千恵」
「それでそのリゾットを……って、なに?」
「あいつと話しているときの千恵は、その……なんというか、変だ」
「あいつって、せんぱい?」
 星野はそれ以外に誰がいる、と訴えんばかりの目で岡本を見る。
「あいつと話しているとき、千恵は、口調は丁寧になるが、行動は今以上に思考を経由しないものになっている。控えめなのか大胆なのかわからない」
「はぁぁ」
 岡本としても、これは指摘されて始めて気付いたことだった。だが、冷静な今、考えてみても、どうして京紫朗の前ではいつもの自分と違うのか、説明がつかなかった。ただ、ある仮説を立てることはできたのだが。
 なおも星野は続ける。
「それに、どういう心境の変化だ。あの日、いきなり髪を切って」
「切ったんじゃなくて、斬ったんだけどね」
「?」
 音で聞くと岡本の発言にはなんの訂正もなかったので、星野は一瞬首をひねった。
「まぁ、どうでもいいでしょ。斬った理由なんて」
 本当のことを言うと、問答無用で京紫朗を射殺してしまいかねないと思ったので、真実はあえて伏せておくことにした。
 だが、星野も鈍感ではなかった。
「あいつが絡んでいるのか?」
 あいつ―水鏡京紫朗―が岡本の髪が斬れた直接の原因になったことに星野は勘付いていた。しかし岡本はそれを聞いてもまったく驚いた素振りはない。
「なんだ、驚かないのか。なぜ私にわかるのかって」
「うん、メグちゃんならこれぐらいは予想がつくんじゃないかな〜、と。っていっても、私が気絶したあと、私を送っていったのはどう考えても水鏡せんぱいだから、特にすごいことでもないけど」
「うぅ……」
 星野は自分が幼稚な推理で付け上がっていたと思い、恥ずかしくなって黙り込んだ。その隙に、岡本が続ける。
「あれからせんぱいと話してわかったんだけど」
 星野が顔をあげる。岡本はマグマ丼の一番辛い部分を一口食べてから、
「せんぱい、羽夢のこと、諦めているとかいないとかっていうレベルじゃないみたい」
 星野が話の続きを促すように眉をしかめる。コップの水を飲み干した岡本が更に続ける。
「忘れようとしてるんだと思う、羽夢のこと。でも、どうしても忘れられないっていうか……そんな感じ。ん〜、あとね〜……」
 岡本は「む〜」と黙り込む。
「なにか、まだ?」
 今、星野にこのことを話すべきではないかもしれない。そう思った岡本は、なんでもないといって誤魔化した。しかし今日は勘が鋭い星野は、またも岡本の口ごもりに不信感を抱いた。
「今、何か隠そうとしているだろう」
 不意をついた攻撃に、流石の岡本も動揺を見せる。
「え、な、なんで?」
 しかし、言ってしまってから岡本は後悔した。これほどの動揺を見せては、肯定しているも同然である。
「フン、サイコロックが丸見えだ」
 こうなったらもう、言ったもん勝ちである。岡本は見破られたことを悔しそうにマグマ丼の残りに取り掛かっている。そして食べ終わると、人差し指を突き出した。
「じゃあメグちゃん。私が隠し事をしているっていう、証拠はあるの?」
「ぬぅ……」
 サイコロックの解除には、その人物の心を開かせるための証拠品の提示が必要となる。当然ながら、星野が現時点で有利な証拠品を手にしているはずもなく、情報技能をもつ岡本が星野に情報が入るようにするはずもない。となれば、これ以上の追求は星野の精神に大きな損害を生み出すこととなる。
「く、今はまだ、手がかりが足りない……情報を収集してくる」
 星野はそう言って、食べかけのチキン南蛮丼を一気に飲み込み、食堂を出て行った。早足で視界から消えていく星野の背中をテーブルにヒジをついて眺めながら、岡本は微笑を浮かべた。
 なにしろ、岡本は科学要塞学園の情報技能の権威である。星野に流れそうな情報の出所はとっくに封鎖済みだ。星野が岡本の隠し事、そしてそれが京紫朗に関することだということに勘付いているのは確かである。だがこの情報戦、岡本には余裕で勝つ自信があった。
「せんぱいは、使えますよね」
 誰にともなく、岡本は呟いた。

「あ〜あ、よっわいゲーセンだね。もっとマシなファイターはいないのかい」
 友人と予備校近くのゲームセンターに遊びに来ていた草薙京は、たったの百円で一時間半もの間、格闘ゲームをプレイしていた。なみいる乱入挑戦者たちに、一ラウンドも取らせずに、すべてストレート勝ち。いいかげん張り合いがなくなってきたので、そこらの客に無料で残りクレジットを譲ってゲームセンターから出たところだった。
「あれ、京。なんでこんなところにいるんだ?」
 突然、冴鬼の声がしたので声のほうを見ると、そこには片手を振っている冴鬼と呆気にとられた京紫朗がいた。
「よぅ、賢介。シローも久しぶりぃ」
「や、久しいとか以前に、草薙って今、授業中じゃなかったのか?」
「あ、いや、えーと、ははは……」
 つまり冴鬼と草薙は二人とも授業をサボったということである。京紫朗は呆れて声も出なかった。
 そのとき、さっきまで草薙がいた店内から一人の女のコが声をあげながら走ってきた。
「ちょっと草薙ちゃん、ウチがクレーンはまってる最中に置いていくなんて酷いよぉ」
「あのさ、栗弧。苗字にちゃん付けで呼ばないでって何度言えばわかるの……」
 栗弧と呼ばれた女のコは、眼鏡をかけていることにことに気付いたが、それ以外は特に普通の女のコと変わったところはない、いわゆる普通の女のコだ。
「京。このコ、誰?」
「ん〜、ややっこしいなぁ。説明すること盛りだくさん」
 草薙は頭を掻きながら、ゲームセンターの向かいの建物を指差した。
「腹空かない? マクドでも入って話そうよ」
 京紫朗が腕時計に目をやると、もう昼食をとっていてもおかしくない時間帯だった。
店内に入り、四人で六人席を陣取ると、まずは草薙が栗弧と呼ばれた女のコの紹介を始めた。
「えっと、このコ、同じ予備校の私立文系クラスの友達」
「阪雫栗弧です。よろしく」
 紹介にあずかった阪雫は、行儀良く頭をさげて自己紹介を始めた。彼女は三田から予備校に通っており、草薙と同じクラスにいて、今日は一緒に授業をサボったという。趣味はストリートミュージシャン冷やかし、好物は洋菓子と紹介した。
 自己紹介も終わり、四人はスマイルよりも高いバーガーを頬張りながらしばらく楽しく雑談した。
誰よりも楽しんでいたのは京紫朗だった。
 何しろ、ようやくのご登場である。阪雫は普通だ、ごく普通の女のコだ。趣味がちょっと引っかかるが、ソックスウォッシュよりはマシである。鳴尾征服も企んでいなければ、眼鏡がスカウターでもない。髪留めは使っているが、チェーンソーは結っていない。肩に拳銃も装着していなければ、ロリンコハリケーンでもない。しつこいようだが、彼女は本当にごく普通の女のコなのである。
 京紫朗にとって、これほど普通の人間と出会ったのは羽夢以来である。もっとも、京紫朗は『羽夢さん修羅モード』の存在を知らないため、阪雫は生まれて始めて出会った普通人になるのだが。
 あまりの嬉しさが表情に出てしまっていたのか、冴鬼が訝しげな面持ちで京紫朗を見ている。
「おい、シロー。どうしたんだ、やけにうれっしそーに」
「え……あ、いや、なんでもないよ」
 今の京紫朗の感動は、冴鬼や草薙には理解できないものらしい。仕方ないので感動もそこそこに、自分から話に参加することにした。
「ふ〜ん、阪雫さんって、関大狙いなんだ」
「うん……あのさ、水鏡ちゃん」
「え、あ、なに?」
 ちゃん付けで呼ばれるのはこれまた羽夢以来なのでなんだかどぎまぎしてしまう京紫朗。
「うん、その『阪雫さん』って呼び方、堅苦しくてウチはやだから、何か違う呼び方で呼んでもらっていい?」
「いいけど。なんて呼ぼうか」
「勝手に決めてもらっていいよ」
 人のニックネームを決めるのはこれが初めてというわけではないが、目の前のこの普通人はこれから草薙と同じクラスという異常な環境の中、一年間の浪人生活を送っていかなくてはならないのだ。ここは先輩として、洗礼をしてやるべきだと思った。
「よし、じゃあ『パンタグリュエル』でいい?」
「あっ、カッコイイ。じゃそれでヨロシク。あ、そっちの冴鬼ちゃんもその呼び方してね」
「……」
 京紫朗は絶句した。そして後悔の念で胸がいっぱいだった。
……やっぱ普通じゃねぇ。
「それよりもさ、シロー。久々にあってアンタ、浮いた話の一つもないのかい?」
 草薙がポテトをつまみながら言う。
「なにを酔っ払いみたいなことを……」
 京紫朗が苦手な話題から離れようとすると、咄嗟に冴鬼が割り込んできた。
「心配しなくてもいいって、京。こいつ今、中三の女のコを家庭教師してんだぜ。何かないってほうが不思議だよ」
「なっ、なんでおまえが家庭教師のこと知ってるんだよ、言った覚えはないぞ」
「言わずともわかる」
「何者だ、貴様は」
「や、あたしに訊かれても。とにかくシローとの漫才はいいから」
 長年連れ添った友との楽しい言葉遊びも、色恋の話よりは重要度が低いらしい。
「俺もショックだぜ、シローがロリに目覚めたのかと思うとな」
「んー、前の彼女も年下だったけど、まさか真性とはねー」
「だから俺は前から言ってたんだよ、シローにはそっちの才能があるって」
「中三相手に恋の手ほどきとは、アンタもすみにおけないねぇ」
 もはや言いたい放題の様相を呈してきた冴鬼と草薙。京紫朗は助けを請う視線を阪雫に向けた。
「パンタグリュエル〜」 「よしよし、泣き止みなさいな」
 阪雫が京紫朗の頭をなでなでしてくれた。なんだろう、このよわっちぃ立場は。

 その日の夕方、疲れきった京紫朗は甲子園駅からバイト先である唯我家へ直接向かおうとしていた。三宮発の電車をうっかりと一本逃してしまい、麻呂虎と約束した時間に間に合うかどうかが微妙だったので、家(とはいってもホテルだが)に寄っている余裕がなかった。
 相変わらずダイエー甲子園店の前は違法駐輪もあいまって、人でごった返している。今日は珍しく暑い。高速道路の高架下を抜けるときには少しばかり汗ばんでいた。
「確か、あの時もこんなに暑かったんだっけ……」
 呟きながら、一年前の春を思い出す京紫朗。あの頃は、彼にとって本当に嫌なことが重なった。
 京紫朗は少し沈んだ心を晴らそうと空を見上げた。しかし、知らぬ間に空の色までもが沈んでいた。何気なく開いていた口に、一滴の雫が落ちる。それを皮切りに、夕立が嫌な匂いを伴いながら降り始めた。
 京紫朗はいつしか立ち止まっていた。上を向いたまま、その瞳には涙を貯めて。
「せんせい!」
 その声に気付くのに、おそらくは数秒を要しただろう。すでに京紫朗の体はずぶ濡れだった。
 声のした方向に目をやると、かわいいピンクの傘を広げて見知った少女が立っていた。
「ろま、ちゃん」
 その名前を口にして始めて、京紫朗は自分が何をしていたか気付いた。
「どうしたんだい、ろまちゃん? 今から行こうと思ってたのに」
 京紫朗は笑顔をつくって麻呂虎に声をかけた。いつもどおりの自分を必死に頭の中に描きながら。だが、純粋な少女の心の瞳には演技によるフィルターが透けて映ったらしい。
「……せんせい、こわい」
「……え?」
「目が……さっき、目がこわかったよぉ……こわ、うぅ……」
 麻呂虎はその場に傘を落とし、両手で口元を押さえて地面に膝をついた。
「ろまちゃん! 大丈夫か?」
 京紫朗は急いで駆け寄った。そういえばこのコは病弱なのだった、と今更のように思い出した。
「ろまちゃん、ろまちゃん!」
 必死で呼びかけながら、麻呂虎の背中をさする。麻呂虎は暫くの間咳き込むと、ようやく落ち着いたのか、よろよろと立ち上がった。
「せ……んせ、今の、目のまま……で」
 どさ、と京紫朗の胸に倒れこむ麻呂虎。どうやら気を失っているようだ。
 京紫朗は困惑した。麻呂虎をどうするか、麻呂虎の体調、そして何より、麻呂虎の残酷なまでの純粋さに。

 京紫朗は麻呂虎を背負って家の前まで歩いてきた。麻呂虎よりも、雨が叩きつける傘のほうが重いような気さえした。ふと、唯牙家の向かいの元自宅を見てみると、工事は大体終わり、ラーメン屋は来週にでもオープンできそうだった。
 再び唯牙家に視線を戻そうとすると、路上にいた人物が目に入った瞬間、京紫朗の目は見開かれた。その目は、麻呂虎が言う、こわい目をしていた。
「羽夢……」
 思わず、名前で口にしていた。瞳の色は、そのままで。
「先輩……。……京ちゃん」
「俺を名前で呼ぶな!」
 下の名前で呼ばれたことが逆鱗に触れ、京紫朗は叫んでしまっていた。今は背中の麻呂虎を気遣う余裕さえなかった。その声を受けた小野本人は少し驚いて怯んだが、すぐに表情を戻して京紫朗の背後に目をやった。
「背中の子、麻呂虎ちゃん?」
「!」
 言われて初めて、自分は背中に怪我人か病人かわからないが正常ではない状態の女の子をおぶっていることを思い出した。
「顔色が悪そう。早く寝かせてあげないと」
そうだ。体調が優れない女の子を介抱するためにおぶって来たんだった。内から湧き上がるものに心を任せて、そんな大切なことまで忘れてしまっていた自分が腹立たしかった。
 京紫朗が黙ったまま唯牙家の門をくぐろうとした時、羽夢が「よかったら」と自分も看病に付き添おうとしたが、その言葉は京紫朗に睨まれて遮られた。
「小野、ひとつだけ言っておく」
「……何?」
「俺はまだ、忘れてはいないみたいだ。『おまえのこと』を」
「……!」
 消え入りそうな声だったが、その声に羽夢の肌は逆立った。すぐに踵を返し、彼女は暗がりの道を走り去って行った。羽夢も、思い出したのだ。『じぶんのこと』を。
 パシャパシャと水溜まりをはじく足音だけが京紫朗の耳にこだました。そのとき、京紫朗は嫌な予感がして周囲を見回した。辺りに人の姿、気配はなかった。
 京紫朗はホッとした。これ以上、今の醜い自分を晒していたくはなかった。この状況でいつものように星野や岡本に出てこられたら、きっと自分では歯止めが効かなくなっていただろう。
「せ……んせ」
 背中から聞こえる声。麻呂虎の気が付いたようだ。
「あ、ろまちゃん。よかった、気が付いたんだ。急に倒れるからビックリしたんだ。とにかく、家に入ろう」
「あ……」
「ん? どうしたの?」
「ううん……なんでもない。鍵なら開いてるよ」
 無用心だな、と思いつつドアを開けて家に入る京紫朗。目が覚めた麻呂虎の目に映った京紫朗は、いつもの京紫朗だった。
 唯牙家の玄関のドアが閉まった。その音を聞いてから、屋根の上の影は喋り出した。
「なんだか、出るタイミング失っちゃったね、メグちゃん」
「最初から最後までタイミングなどなかった」
 星野と岡本。上空から登場して京紫朗を驚かそうと思っていたところ(星野は付き合わされていただけだが)、あまりにも険悪な雰囲気になったため、出るに出られなくなってしまっていたのだ。
「あんな怖い顔するせんぱい、初めてみるかも〜」
 岡本は嬉しそうに寝転んだ。制服のスカートは、下着が見える直前まで捲れ上がった。その隣に星野も横になる。服装が乱れないように、そっと。
「あの男が熱くなったところで、私の銃で脳をかすめてやればすぐに冷めただろうけど」
 星野はさらっと恐ろしいことを言う。だが岡本は神妙な面持ちをしていた。
「そうかな……」
「……」
 星野にも、わかっていた。あの状況で出ていって、自分が京紫朗を落ち着かせることはできないということを。だが、その時は肩にでも弾丸を撃ちこんで黙らせればいいと思っていた。京紫朗が羽夢を睨んだとき、星野は出ていって発砲しようとしたが、それを止めたのは岡本だった。なぜ、岡本が熱の入った京紫朗をこんなにも恐れているのかが星野にはわからない。
「千恵。その、なんというか……あいつは、あの男は、おまえがそんなにも一目を置くべき存在なのか?」
 ここのところ岡本の京紫朗に対する態度を見ていると、どうしても疑惑を抱かざるを得なくなってくる。
「千恵、まさか……」
「せんぱいはね」
 意を決して問い掛ける星野の質問を岡本が遮って話す。岡本は真顔になった。
「今や要注意人物なの。ほっとくとどうなるかわからないし、迂闊に手を出してもいけない」
 言っていることがいまいち的を射ないため、星野には納得がいかなかった。
「何が言いたい?」
「……いつまでも軟弱者でいるとは限らない、んじゃないかなぁって」
 最後は真面目な表情を崩して笑顔で言った。『軟弱者』……、普段から星野が京紫朗に向けていた不名誉な呼び名である。その京紫朗が『軟弱者』ではなくなる。つまり、星野にとっての京紫朗の見方が変わるということである。
 そんなわけがないと思った。今まで星野は京紫朗のことをとことんまで見下してきた。親友の恋心にはまったく気付かず、多少のイジメ程度で恋人を諦めてしまった京紫朗を、もはや男とすら認めていなかった。なのに、今隣にいる親友は、その京紫朗をここまで買っているのだ。
「……私には、わからないな」
「すぐにわかるよ、メグちゃんにも」
 八月までには、とはあえて言わないでおいた。
(とりあえず、メグちゃん向けの情報はこれぐらいでちょうどいいかな)
 岡本はふふっ、と笑った。
「? 何を笑っているんだ?」
「ううん、なんでも〜」
「変なやつだな。まぁいいか。それより、今日は千恵のオゴリだったな」
 それを聞いて、露骨に嫌な顔をする岡本。
「えぇ〜、ずる〜い。なんで〜?」
 星野は溜め息をついた。
「昨日、千恵が財布を忘れたから。しかも千円以上も食べた」
「うぅ、メグちゃん怖いよ〜」
「金にがめつく、友に優しく。健在の祖母の遺言予定」
 いじける岡本を蹴り落としてから、星野も屋根から飛び降りる。幸い、この道路は車の通りが少ない。

「近衛さんは?」
 京紫朗はキッチンで紅茶を入れて麻呂虎の部屋に持ってきた。人の家の台所を使うのは初めてで、かなり時間がかかってしまったが、美味しい紅茶を入れた自信はあった。
「お母さんは……お仕事に行ってる」
「そっか……」
 おそらく父親もいないんだろうな、女二人だけで暮らすっていうのも大変なんだな、と京紫朗は思った。
「あの……」
 おずおずと気まずそうに麻呂虎が呟いた。
「ごめんなさい、急に倒れてしまって、家まで運んでもらって……」
「気にすることはないよ。家だって向かい同士なんだからさ」
 現在はホテル暮らしだということに、京紫朗は目をつぶった。こんな小さな女の子に、心苦しい思いはさせたくなかった。
 だが、二人の間にはまだおかしなわだかまりがあった。
「……」
 麻呂虎はそっと京紫朗の顔を覗いた。何気なく窓の外を眺めるその瞳に、気絶する前に見た嫌な光がないことに、とりあえず安心する。
「……せんせい」
「どうしたの?」
 かすかに微笑みを浮かべて答える京紫朗。この表情の裏側には、底無しの深さの沼があるような気さえした。麻呂虎は意を決して訊ねてみた。
「こわかったの」
「え?」
「さっきの、雨の中の、空見上げてたせんせい……すごくこわかったの……。ろま、声かけちゃって、でも、ダメで。なんか、かわいそうで……でもっ、こわく……てぇ」
 途中から涙混じりの声になって聞き取りづらかったが、その声はしっかりと京紫朗の鼓膜に響いた。
 京紫朗はやっとわかった。麻呂虎を怖がらせてしまっただけではなく、自分に同情までさせてしまったのだと。こんな小さな少女に、自分の苦しみや悲しみの一部を知らず知らずのうちに背負わせてしまっていたのだと。こんな、つまらない自分の為に。
「ろまちゃん……」
「せんせ……なにが、あったの」
 それは質問ではなく、まるで母親が子供を優しく諭すかのような柔らかい声だった。
 京紫朗は、迷った。困った。
 麻呂虎に、自分が何故あのような怖い目をしていたのか、話してもいいだろうか。話すべきだろうか。
 自分と麻呂虎とはただの家庭教師と生徒の関係。あまり込み入った関係ではなく、当然親密な関係になっていいものではない。だが、それだけでは説明できない感情、理屈ではない親近感を麻呂虎に対して抱いているのもまた、事実だ。
 誰かに話して楽になりたいという思いもある。だが、そんな簡単な問題ではない。それは自分から逃げることになってしまうのではないか。そう思って、今まで誰にも話さなかったことだ。
 しかし今後、このままの状態を続けていいはずもない。これから先もつきあっていく人間として、麻呂虎も完全に部外者というわけでもない。
 散々、頭の中で迷った挙句、京紫朗は静かに口を開いた。
「ろまちゃん、これは、ある情けない男の話なんだけど……」

 その男の名前を……そうだな、とりあえずKということにしておく。Kは数年前、高校二年のときから、ある女の子……Uっていう娘と付き合ってたんだ。あ、YOUじゃなくて、アルファベットのユーな。
 Kはサッカー部でね、同じ部のSっていうヤツと一緒に頑張ってたんだ。Uも、自分はバレー部なのにサッカー部のマネージャーになってくれて、Kはすごく嬉しかったんだ。自分という人間を好いてくれる人がいる。自分のために尽くしてくれる人がいる。自分限定の優越感っていうのをそれまで経験したことのなかったKにとって、それはとても心地が良かったんだ。
 でも、な。そんな彼の幸せな時間はそう長くは続かなかったんだ。
 Uのクラスメイトに、Hっていう娘とOっていう娘がいた。その二人はそれまでは特にUに関わり合いなんてなかったんだけど。だけどな、二人はあるときを境にUに対して陰湿なイジメを始めたんだ。
 最初はKもイジメには気付いていなかった。でも、段々とそれはエスカレートし、Uの態度にも若干の変化が表れ、二人の関係はギクシャクしていったんだ
 やがてKは、Uがイジメに遭っていることを知ることになる。
 それを知った彼は、Uに自分が力になれないかと訊いたんだ。でもUは決して自分がイジめられているなんて言わなかった。言ってしまったら、Uが認めてしまったら、Kを悲しませることになると思ったから、だと思う。
 Kは自分ではUの力になれない、と自分に失望したよ。心配するとUはそれを心配する。だからって放っておけるはずもない。じゃあ、自分はいったい何をすればいいんだ。何をするべきなんだ。Kはそんなことをずっと考えていたせいか、練習にも身が入らず、引退を前にしてスランプに陥っていたんだ。
 そのせいで、夏の大会でも本調子が出せずに不本意な結果に終わってしまった。
 その後も、KとUの関係はギクシャクしたまま時は流れ、Kが卒業式を目前にしたある日――ちょうど今日みたいな雨の降っている――の放課後、帰ろうとしたKを、校門である人物が待っていたんだ。
 もちろんKは、HとOがUをイジめていることをすでに知っていたから、一瞥をくれるとすぐに校門をくぐって帰ろうとした。でも、Kが通り過ぎるときに、Hはこんなことを言ったんだ。
「Uと別れろ」
 Kは足を止めた。
 Uのほうに向き直って「どうして」と訊くとHは少しだけ辛そうな顔をして言った。
「おまえのことを好きだと言っている女がいる」
 その言葉を聞いたとき、Kの中で何かが弾け飛んだ。
 つまり、HとOは、その誰だかわからないKが好きだと言っている女のために、KとUの仲を引き裂こうとして、Uをイジめている。
 ふざけるな!
 Kはいきり立った。
 そんな……そんなことってあるかよ。自分がイジめられるのならともかく、Uは関係ないじゃないか。俺に用があるなら俺のところに来い。
 その後の記憶はKにはないみたいだけど、そのときまわりにいた生徒の話によると、Kは、表情は真顔のままだったものの、目だけは深く蒼く妖しく光っていて……それで……Hを校門の壁に押し付けて、容赦なくその顔に拳をうちつけていたらしい……
 Hはその件で軽い怪我を負ったらしいけど、彼女自身が強かったこともあって、大事には至らなかったんだ。
 その後、KはHのお見舞いに行った。っていっても放課後に呼び出して謝っただけだけど。
 そのとき、殴った事に関してはHは何も言わなかった。けれど、一緒にいたOがKに泣きながら謝ってきたんだ。つまらない理由でUをイジめていたこと。Kに苦しい思いをさせてしまったことを。
 そのときのOの本当に心苦しそうな泣き顔を今でもハッキリと覚えているんだ、すごく印象深かったから。
 自分も怒りに任せてHを殴ってしまったし、イジめていた張本人がこうして素直に健気に謝っているのを見ると、Kの怒りも自然と止んできたんだ。これまでのことは水に流して許してやろうと思えた。そしてKは彼女らにこう言った。
「もう、Uとは別れたから、あいつのこと、これ以上イジめんなよな」
 Kは笑って言った。そう、Hを殴ったあの事件以来、KとUは一言も口をきいていなかったんだ。それどころか、お互いのことを避けるようにさえなっていた。自然消滅ってやつかな。
 だから、もういいやって思えた。疲れたんだ。もう恋愛なんか、いいやって。だからHとOのことも、水に流してやろうって。
 それ以来、今でもKはHやOとも本人が望んだわけではないけど付き合いがあるし、Uとも……昔どおりってわけにはいかないけど、ある程度普通に接することができるようになってる。何もかもが元通りってわけじゃないけど、風向きはよくなっているんだ。
 でも、Kは今でもふいにあの時の、Hを殴ったときの、心情がいきなり込み上げてくるときがあるらしいんだ。忘れたくても、頭のどこかにこびりついていて忘れられない、いや、忘れてはならないものなのかもしれないな……って、思うんだ。

 京紫朗は言いたいことをあらかた話し終えた。その顔は、すっきりとしていた。自分の中に溜め込んでいたことを他人に言うことで、少しは楽になれたようだ。
 麻呂虎は話の途中からすでにぼろぼろ泣いていた。
「うぅ、ぐすん……大変、だったんだね」
「うん。……ごめんね、こんな話、聞かせちゃって」
 京紫朗は麻呂虎を抱き寄せて頭を撫でてやった。すると麻呂虎も手を伸ばして京紫朗の頭を撫でた。実際には手が届かなくて後頭部をさすっているだけだたが、それが麻呂虎なりに慰めているのだとわかり、京紫朗は胸が熱くなった。
「強いんだね、Kさん」
「……え?」
 麻呂虎の言葉にいささかの違和感を覚える京紫朗。
 どうやら、『京紫朗』を『K』と置き変えたこの話は、麻呂虎にはそのまま『Kさんの話』として伝わってしまったようだ。そして、Kは京紫朗の友人として認識されていた。
「それに、そのKさんのことを心配してあげてこんなにも苦しんでいるなんて……せんせいも、やさしいね」
 麻呂虎は涙ぐんで微笑んだ。
(え? せんせい『も』?)
 またも若干の違和感を覚えつつも、京紫朗は勘違いしている麻呂虎に嘘をついてしまったんじゃないだろうかという罪悪感が募っていた。
 しかし、目の前の笑顔を見ていると、そんな細かいことはどうでもよくなってしまった。
 心が軽くなって、自然と笑みがこぼれてきた。
「あははははは」
 麻呂虎もつられて笑い出す。
 京紫朗は思った。まだ、それ以上は言えないんだ、と。あのときHを殴ったとき、自分の目が映していたものは、Uの姿だったなんて。
二人してしばらく笑いあった後、京紫朗は伸びをしながら言った。
「じゃ、一休みしたら勉強はじめよっか」
「うんっ」
 麻呂虎は元気良く頷いた。
 この笑顔を守りたい。こんなことを思ったのは、生まれてから二度目だった。


 それは自然の摂理だった。
 母親は子供を守るもの。こんなこと、誰が否定しようと否定できない。彼女もまた、そう思っていた。
 なんだか知らないけど、高校生の時の話を持ち出して彼女を束縛しようとする奴らがいる。でも彼女は決して屈しようとはしない。すべては娘のために。
 だから仕事も、できる限り吟味して選び、そして結局、固定した職は持たなかった。
 娘は病床に伏している。ならば、長時間拘束される仕事などはできないのだ。
 長時間拘束されることなく、娘に何かあればすぐに家に帰ることができ、なおかつ高収入が約束される職場。
 彼女にとってそれは、近所のパチンコホールだった。
 煙草の煙で自分の体が壊れようが、騒音で耳がおかしくなろうが別にどうだっていい。体が動かなくなったって自分が動けばいい。耳がおかしくなって音が聞こえなくなったら自分で聞けばいい。そうやって自分を奮い立たせ、日々、アタリ目の台を探して目を鋭く輝かせる。すべては娘のために。
 今日は久々に娘と買い物に出かける日。前方の電柱に隠れる影と目が合う。ドジな新入りだろうか。
 娘が彼女に問う。
「ねぇ、おかあさん。あのくろいひと、だれ?」
 黒服が気配を消すのを待ってから、彼女は答える。
「気にしないでもいいのよ。さ、いきましょ。好きな服、買ってあげる」
 娘と手をつないで歩きはじめる。
 彼女は明日も騒音と人込みのゴミ箱へ足を運ぶ。
 それは自然の摂理だった。

               <春・第三幕 了>