夏・第一幕

 その大会は非公式に行われていた。
 気の遠くなるような暑さ、照りつける陽射しの下、科学要塞学園のグラウンドに設置された特設リングの上で、数々のファイターが殴りあい、蹴りあい、斬りあい、撃ちあい、終いには罵りあって時間内でいかに相手に肉体的・精神的苦痛を負わせたかを競うサバイバルマッチ。
 今、リング上にいるのは三人。一人が男性で残りの二人は歳の端もいかぬ女子高生。彼らは二対一の変則ハンディキャップマッチをしていた。
 二人の少女はリングの隅でロープに身を預けている。二人とも肩で息をしている。よほど苦戦しているのだろう。
 男は右手の中指で眼鏡を直しながら言う。
「おやおや、どうしたんですか。折角乱入されたお二人にお応えして、大会責任者の僕自らがお相手をして差し上げているというのに……不甲斐無い有り様ですねぇ」
 にやりと口の端をつりあげる男。
 オレンジ色に光るその眼鏡がロープを掴んでいた少女の闘志に火をつける。
 その少女はゆらりとロープから離れ、自分の武器を両手で握りなおした。
 もう一人の少女は長い髪を乱して座りこんでいたが、やがて起き上がり、同じように自分の武器を持ち上げる。
「ほぅ……まだ闘うというのですか」
 男は静かに眼鏡から指を離し、八双の構えをとった。
「その心意気だけは評価して差し上げましょう。ですが、決定的な格の差を知るということも、あなた方には必要なのかもしれませんね」
 わずかな笑みだけは常に絶やさず、男は冷酷に言い放った。少女は唇を噛みしめる。
「二度とその余裕の笑みができないようにしてやる……」
 彼女が両手に持っているのは二丁の拳銃。半年ほど前に入手し、丹念に手入れをしてきたものだ。その拳銃を、向かって八の字に見えるように前かがみになって銃口を下に向ける。目だけは真っ直ぐと前方の男を睨みつけ、それはまるでクラウチングスタートのようだった。
 もう一人の少女もようやく立ち上がると、少女の体には不相応なぐらい大きな轟音を放つ刃物を持ち独特の構えをする。これは突撃の姿勢。
 二人はこれが最後の勝負になるだろうことを予感していた。
 拳銃を構えた少女の左足がわずかに足踏みを二回、繰り返す。フォーメーション御女我(おめが)のサインだ。刃物の女性は轟音を「中」から「大」へ切り替えることで了解の合図をおくる。
 その一瞬後、二人の少女は凄まじいスピードで男に迫った。
 勝負は、一瞬で決まった。


「ねぇねぇせんせい、テレビみようよ!」
「だーめだって。このページ終わらせたら、次は英語の宿題があるんでしょ?」
 六月に入って間もない頃。梅雨の時期に入り、心地の良い温度から一気に湿気を帯びた蒸し暑い季節へと移行し始める時期の夕方。
 五月の中旬頃、やっとのことでオープンしたラーメン屋(水鏡家)の向かいに建つ唯牙家の二階に彼はいる。
彼の名前は水鏡京紫朗。今年の春、大学受験に失敗したまま高校を卒業し、今は浪人生として生活を送っている。自宅のラーメン屋が開店するまでの一ヶ月余りをホテルで暮らしていたという、恵まれた青年である。
彼の隣で一生懸命シャープペンシルを空中で彷徨わせているのは唯牙麻呂虎。病弱のため、長期に渡って学校を休学し、今年の春から復学した中学三年生の少女だ。病弱ということもあってか、一般的な中学三年生よりもはるかに幼く見え、その外見も、少女というよりは幼女といったほうが適切かもしれない。
彼女は入学式に出てから三年生になるまで一度も学校に行っていないので母親である唯牙近衛は受験させるのを半ば諦めていたのだが、本人の強い希望によりこの一年間で中学三年間分の勉強を習得して受験に挑む決意をした。
だが当然、独学で二年分のロスを取り戻せる自信があるはずも無く、こうして近所のウマの骨を非常勤の家庭教師として雇い、来春の高校受験に向けてただいま猛勉強中である。
京紫朗はというと、浪人生という身分上、大学受験の勉強に集中しなければならないのだが、高校を卒業したことで両親からの小遣いがストップしてしまい、手ごろなアルバイトを探していたところ、ちょうど近衛が京紫朗の母親の葉最尼佳(はーもにか)にこの仕事を持ちかけ、葉最尼佳がその場で勝手に承諾してしまったというわけだ。
そうして、京紫朗が麻呂虎の指導を始めてから約二ヶ月が経った。
京紫朗はどこまでが中学校の学習範囲でどこからが高校生の学習範囲なのかすっかり忘れてしまっているため、とりあえず自分の知る限り最も基本的な事項から教えていくことにした。例えば、数学なら零という数時の概念とか何故数字を零で割ることができないのかとか現代に至るまでの数学史などについて、英語なら英語はどこから生まれてきた言語なのかとか当時の世界の情勢とか他国語との相違点や類似性などについて、理科なら生物の根源は海にあるとかすべての自然科学はもともと魔術の類だったとか物質を細かく分けていくと究極的には原子という最小単位になるといったことなどについて、国語なら日本の文学の原点は大昔に中国から伝わった文字の技術であり孔子の『論語』の影響が顕著に表れているとか書道には唐風と和風の二通りがありどちらも三蹟、三筆と呼ばれた名手がいるといったことなどについて、社会ならブリジストンの社長は石橋さんだとか邪馬台国の地下には実は邪魔大王国があったとか女王ヒミカと女王卑弥呼との鬼術対決などについて、といった感じだ。
京紫朗が思っていた以上に麻呂虎は飲み込みが速く、すでに数学は曲座標、社会は日本経済についての討論会、理科はホイートストンブリッジ回路、国語は『源氏物語』の原文読解、英語は関係副詞などを教えている。
そんなスパルタ教育(?)のせいか、最近の麻呂虎は勉強に疲れの色を見せ始めていた。長くなってしまったが、そういう経緯でさっきの麻呂虎の「ねぇねぇせんせい、テレビみようよ!」という発言が生まれてきたのだった。
「う〜、せんせいのいじわるいじわるいじわる〜」
「ダメなものはダメなんだって。ろまちゃんの勉強をちゃんと見るようにって、近衛さんから頼まれてるんだから」
 そうしないと自分の給料すら危うい。あれ、そういえば先月分の給料貰ったっけ、と思ったが、京紫朗はこの際余計なことは考えないことにした。今は、目の前の自堕落な道に走ろうとしている困ったちゃんをサルベイジすることが先決だ。
 気分転換をしようとした自分の提案を京紫朗にいともあっさりとボツをくらった麻呂虎は、次なる案を思いついて京紫朗に抱きついた。驚くほど小さく軽い体が、京紫朗のひざの上に転がる。
 京紫朗は思わずドキリとした。
「ちょ、ろまちゃん、何やってんの!」
「あ。せんせい、今の、『ロボ大』のキャプテン・ブライトの声に似てたよ」
「そんなことはどうでもいいって。と、とにかく降りてよ」
 このままではまずい。微妙に変なところが刺激されつつある。こんな小さな女の子とはいっても小さな部屋に男女が二人っきり。京紫朗は間違いだけは起こすまいとして必死に頑張っていた。
 ひざの上の同居人を無理矢理ひきはがし、元の場所に座らせる。心臓の音はまだ鳴り止まない。その音が麻呂虎に聞こえてしまうのではないかと思い、紛らわせようと京紫朗は少し大きな声になった。
「どうしたのっ、突然飛びかかってきて」
 とびかかったんじゃなくてだきついたの、と麻呂虎は言いたかったが、そんな言いあいをしても勉強を中断することはできないと悟り、ひとまず頭の中に浮かんだアイデアを言葉にしてみた。
「ワールドカップ、みよ!」
「ぬわに!!!!」
 あどけない少女、いや幼女の言葉に京紫朗の心は大きく、非常に大きく揺り動かされた。
 いや、別に、幼子の声が京紫朗の脳に眠るロリコン魂を呼び覚ましたわけではなく、京紫朗は麻呂虎の「ワールドカップ」という言葉に極端に反応したのだ。
 ワールドカップと言えば、そりゃもう二千二年FOGサッカーワールドカップである。世界各国から予選で勝ち抜いてきた三十二カ国が一次リーグ、トーナメントと戦っていき、優勝国を決めるという四年に一度のロイヤル=ハーモニー=スペシャル=ヴォイス=ビッグイベントである。
 しかも今回は日本・韓国での同時開催。ベクハム、フェード、オルファンなどといった外国人スター選手もこぞって来日するのでサッカー好きの京紫朗にとっては大興奮である。
 それだけではなく、今年はスポーツ界で何かと騒がれている年だ。京紫朗の地元ではプロ野球チーム阪神マングースの監督が名将保志乃監督に変わり、大幅な戦力改革を行ってペナントレースに挑み、いまのところ絶好調でセ・リーグの首位を独走している。京紫朗は密かに夏場で順位が落ちると予想していたりするが……。
 他にも、この春には地元の報徳学園が春の選抜高校野球で優勝するなど、異常なほどに活気づいていた。
 そしてそこにワールドカップである。興奮しないといったらそれは嘘だ。四年前のフランス大会での惨敗からずっと待ち続けた京紫朗にとっては今すぐにでも試合を見に行きたいぐらいなのだ。
 今日も日本の試合ではないが、テレビで放映されている。ちょうど今、試合中だろうが、京紫朗は仕事中であるため、涙を飲んで仕事に集中していた。ちなみに彼はビデオに録画するのが面倒で嫌いだという。
 そこへ麻呂虎のこの提案。「ワールドカップ見よ!」だ。すでに京紫朗の中の「仕事中」という名のリミッターは解除された。
「ふわっはははは、仕方がないなぁろまちゅわんぬは。君がどうしてもと言うのなら、今すぐ見ようではないか。さぁ、つけろ。今すぐテレビの電源をつけるのじゃ!」
 京紫朗が壊れた。
 麻呂虎は心の中でしめしめと呟いて軽やかな足取りでテレビの電源を入れに行った。
 京紫朗、本日の仕事時間……40分。

 五時間目の授業が終了してからどれくらいの時間が経っただろうか。
 目を覚ました星野恵は上半身を起こして周囲を目だけで見回した。自分がどこにいて、何故ここにいるのかが思い出されてくる。
 高校三年生になってから、星野は何か考え事をするときにはいつもここ――学校の屋上――に来ることにしている。特に決めているわけではなく、なんとなく足がここに向かうのだ。
 屋上といってもここ科学要塞学園には校舎が二つあり、現在星野がいるのは北側の校舎の屋上だ。南側の校舎の屋上は運動部の練習が五月蝿いので星野はあまり好きではない。
 今日も授業が終わると、適当に考え事をするためにここへ来て、適当に寝転がった。今日は体育があったので疲れていたのか、しばらくするとまぶたが重くなってきた。周期的に聞こえてくる声援。今日も甲子園球場で試合があるのだろう。それがちょうど良いララバイになり、いつしか星野は眠りについていた。
 そうして今、目が覚めたと言うわけだ。あたりはすでに夕暮れを通り越して少し薄暗くなっている。空には月が出はじめていた。
 何を考えていたのか。何を考えようとしていたのか。余り思い出せない。とりとめもないことをいくつも考えていたような気がする。
 心が不安定になっているんだろうか。
 こんなのは自分らしくない。と、星野自身そう思った。そして、その原因も、わかっていた。
 八月。そのときが近づいてきている。もう足音が聞こえるほどにまで。
 忘れもしない。去年の八月。あの屈辱を。
 あれから間もなく一年が経とうとしている。
 自分はあれから、変われたのだろうか。少しは強くなれたのだろうか。右の肩の拳銃を取り外し、取っ手に指をかけて何気なくくるくると回してみる。
 確信はできる。あの頃よりも数段強くなっていると。だがそれでよいのか? こんなもので構わないのか? 妥協を許せない性格の星野は、伸び悩んでいる自分が許せない。情けない思いで胸がいっぱいだった。
 最近はだんだんと岡本と遊ぶことも少なくなってきた。お互い、準備に忙しいのはわかっているのだが、唯一無二の親友と学校以外でなかなか会えないというのは寂しくないと言えば嘘になる。素知らぬ顔をしていても、星野にとって岡本はなにものにもかえがたい大切な人なのだ。今は、それと同時に、好敵手でもあるわけだが。
 最近の岡本は何をしているのか、何がしたいのかが星野にはイマイチわからない。学校が終わるとすぐにいなくなり、休み時間にその理由をそれとなく聞き出そうとしても、誤魔化されるかはぐらかされてしまう。言葉の巧みさは岡本のほうが一枚上手なのだ。
 独自で調査を進めても情報技能を持っていない星野一人では、すぐに行き詰まってしまい、論理を先に進めることができない。考えることにかけては超一流の星野でも、その材料がそろわないことにはどうしようもない。
 去年のパートナーの存在がいかに大きかったかを、今更ながらに実感したのだった。
 空を見上げる。
 今日は風が強い。どうりで雲の流れが速い。
 もう帰ろう。と思い、星野はゆっくりと立ち上がった。両の足首が、ずきりと悲鳴を上げる。もう慣れていることではあるが、星野は少し顔を歪めた。
 足のことも星野の懸念事項の一つだ。早く治さなければならない。このままでは走ることさえままならない。
 屋上から降りる階段の途中で掲示板に貼られた私立大学の広告に目をやる。
「そういえば、今年は受験生なのか……」
 誰にともなく、星野は小さくつぶやいた。

 午後八時半。たったいま麻呂虎の部屋でサッカー中継を観終えた京紫朗はその余韻を噛みしめていた。
「クローゼッツ……ノンピレ……ハマーン=カーン……。どいつもこいつも素晴らしくグレイトな奴らばっかりだよ。ぼかぁ感動したよ……」
 音も無く涙を流しながらなぜか膝立ちになっている京紫朗。試合はドイツがサウジアラビアを相手に八対零と快勝したが、ドイツの選手名らしきカタカナを呟きながら泣き続ける京紫朗の姿は別にサッカーファンでもない麻呂虎から見れば完全にイッちゃった人である。
「せ……せんせい?」
 おそるおそる京紫朗の服の袖をくいくいする麻呂虎。そこで京紫朗はここが自分の部屋ではないということを思い出してはっとした。
 時計を見ると八時過ぎ。とてもじゃないが中学生の女のコの部屋にお邪魔していい時間ではない。これから勉強を再開するのもはばかられた。
「ご、ごめん、ろまちゃん。ついつい見入っちゃってこんな時間に」
「う、ううん。時間のことならいいの。せんせい、あんまりに興奮してたからだいじょうぶかなって……」
 麻呂虎がこんなアホな自分を心配してくれていることが無性に嬉しくなって、京紫朗は麻呂虎の頭を撫でてやった。
「優しい子だな、ろまちゃんは」
「えへへ」
 麻呂虎も嬉しそうにしている。
「そういえばさ、近衛さんはもう帰ってる? 渡したいものがあるんだけど」
 京紫朗は帰り支度をしながら麻呂虎に訊いた。
「わたしたいもの?」
「うん。ウチのラーメン屋の招待券。俺の母さんが、開店当初から招待してたら混んでウザイから、六月に入るまでは渡すなって言ってたから今まで渡せなかったけど」
 そう言って京紫朗はジーンズのポケットからチケットを二枚取り出した。
「はい、どうぞ。よかったら近衛さんと食べに来てよ。味は保証できないけど」
 京紫朗がチケットを差し出すと、麻呂虎は輝くような笑顔で受け取った。
「ありがとう、せんせい。ろま、ラーメン大好きなんだ。あ、でも……」
 麻呂虎の表情が寂しげなものになっていく。
「今日、お母さん、帰りが遅くなるって言ってた。だから今日は行けないね」
 ちぇーと言って貰ったチケットを机にしまう麻呂虎を見て、京紫朗は自然に口を開いていた。
「晩御飯はどうするの?」
 言ってから後悔した。人それぞれの事情ってやつだ、自分が他人の事情に踏み込んでどうする。
 しかし、母親が帰ってくるまで一人で過ごさなければならない麻呂虎のことが気になって仕方がなかった。
「ん〜、出前を取るように、朝言われたよ」
 そうか、それなら。と思い、京紫朗は親指で窓を指しながら言った。
「じゃあ、ウチにおいでよ。ラーメン食べよ」

 水鏡家は五月の中旬頃、めでたく(?)ラーメン屋へとその姿を変えた。京紫朗の父親である魚が突然ラーメン屋を始めたいと言い出したことがそもそもの始まりだったのだが、なぜそう思い至ったのか、その理由は未だ定かではない。
 実際に店舗の改築には一週間程度しか要さなかったのだが、着手から一ヵ月半もの間、京紫朗がホテル生活を強いられたのには深い理由があった。
 十分な資金(京紫朗の予備校費が無料になった)を用意したまではよかったのだが肝心の店主になるはずの魚が、あろうことかラーメンの作り方を知らなかったのだ。これには京紫朗も葉最尼佳も大怒りだった。
 それからというものの、魚は葉最尼佳によって一ヶ月に渡る日本横断ラーメン修行の旅に出されることとなった。魚は方向音痴なので、帰ってくるのに少し遅れて一ヵ月半が経過してしまったというわけだ。
 一ヶ月の修行の効果は確かにあり、魚は最低限ラーメンと呼べる物はなんとか作れるようになっていた。七回に一回ぐらいは、「これは!」と舌をうならせるラーメンを作れるようにもなった。
 そうしてめでたく(?)開店を迎えることとなったわけだが、出足はさっぱりだった。
 それもそのはず、住宅街のど真ん中に建て、しかもまったく告知・宣伝をせずに開店したのだから。近所の人が時々夕飯を食べに来るのと、勘のいい野球観戦客が一日に数人訪れる程度だった。
 と、いうわけで、ラーメン屋水鏡家は、まったく儲かっていない。だから一人ぐらいただで御馳走しても構うまい、と京紫朗は思い至った。
 がららら、と音を鳴らして戸を開け、京紫朗は店内に入った。麻呂虎も京紫朗の後について行く。
 すると誰も座っていないカウンター席の向こう側で魚が来訪者に気付いて振り向いた。
「おぉ、誰かと思えば京紫朗か。おや、後ろにいる小さなお嬢さんは何者かね?」
「父さん。そんな萎縮するような言い方しなくても……」
 だが京紫朗が麻呂虎を見ると、彼女はにこにこしていて、ちっとも怖がってなどいなかった。もっとも、魚は温厚な人なので見た目からはまったく怖さがかんじられないというのもあるが。
「向かいの唯牙さんとこの娘さん」
 京紫朗はめんどくさそうに父親の質問に答えてやった。
「っていうか父さん、なんで知らないんだよ」
「むぅ……? 唯牙さん、唯牙さん……確かに面影はあるが、いつの間にそんなに縮んだんだ?」
「だぁかぁらぁ。それは近衛さんだろうがっ。この子は娘さんの麻呂虎ちゃん!」
 父親にもお構いなしにツッコミチョップを入れる京紫朗。
「痛て痛て。まったく、冗談の通じんやつめ」
 冗談だったのか、嘘つけ、と心の中で京紫朗は思った。魚は改めて麻呂虎をまじまじと見た。
「ふむ。確か一番最後に君を見たのは六年前だったかな。あの日、忙しくて病院に行けなかった近衛さんの代わりに私がお見舞いに行ったんだが、覚えているかい?」
 麻呂虎は「うんっ!」と元気良く首を縦に振った。
「あのときはありがとうございました」
「いやいや、覚えていてくれて私も嬉しいよ」
 話の内容に心当たりの無い京紫朗は横で聞きながら、麻呂虎が長期に渡って入院していたということを思い出した。もっともそれは、近衛から聞いた話なのだが。
「で、京紫朗。その麻呂虎ちゃんをうちに連れてきて、いったいどうしたんだ?」  魚がコップを洗いながら訊いた。葉最尼佳がこの仕事を手伝うはずもなく、アルバイトもいないので、店の仕事はすべて魚がやっている。
「あぁ、一緒にラーメンでも食べようと思って。なんでもいいから二人分作ってよ」
「ぬわにぃ!!」
 魚イズアスタニッシュト!
「え、なに? どしたの、その反応は」
 慣れている京紫朗はすぐに問い返せるが、麻呂虎は突然の大声に驚いて目を点にしている。
「お、おまえ……いつの間にお向かいの娘さんとそのような姦計に……」
 どうやら父親は大いなる勘違いをしているようだ。
「こ、こら。勝手に誤解すんな! しかも漢字違うから!!」
「ぬぬ。ということは、ラーメンを食べに来たというのは口実で、ただ自分の部屋に連れ込みたかっただけだと!?」
「……どうやら根本的な部分から誤解しているみたいだな」
 京紫朗が呆れて言うと、魚はマヨネーズのチューブ(勿論、ふた無し)を京紫朗に向けて言った。
「ではいったいおまえたちはどういう姦計なのだ!」
 言った後、魚は身悶えをした。
「はうぁ〜、一度でいいから言ってみたかったんだよね、この台詞〜♪」
 京紫朗はなんでラーメン屋にマヨネーズがあるんだろうと思いながら、麻呂虎の方を見た。麻呂虎は言っていることがよくわからないといった感じで、頭の周りにいくつも?マークを浮かべている。
(はぁ……。俺から説明するしかないか)
 自分が損な役回りだと悟った京紫朗が再び魚に向き直って言った。
「あのな。俺、今、この子の家庭教師やってるの」
「ぬわあぁにぃぃぃ!!」
 魚イズアスタニッシュトアゲイン!!
「そ、そうか……。ならば私も現実を受け入れねばなるまい。麻呂虎ちゃん、うちの京紫朗は筋は決して悪くはないはずだから、諦めずに根気良く教えてやってくれ。頼んだぞ。大変だとは思うが、息子の大学受験は君の手腕一つにかかっているんだから……」
「なんでそうなるんだよ! 教えてるのは俺だってば!」
 その後、正確な状況を説明するのに一時間弱もかかった。

 それから、店の中で食べると魚がうるさいので、京紫朗は二人分のラーメンを持って麻呂虎を自分の部屋に招き入れた。
「そのへん適当に座ってよ。今、冷房入れるから」
 部屋に入ってから気付いた。相手が女の子、そして二人きりになったということに。
 京紫朗は羽夢さえも自分の部屋に入れたことはなかった。単純に外でデートをしていたというだけのことだが。つまり自分の部屋に母親以外の異性が入るのは初めてだということになる。
 今の今までまったくそんなことを意識していなかっただけに、気付いた途端に余計に意識してしまう。
 京紫朗はエアコンのスイッチを入れると、そそくさと床に散らかっているものを片付けた。京紫朗も健康な男子なわけで、ベッドの下には『月刊ネジ』が、机の鍵付き引き出しの中には『徹底解明! 十二指腸のふしぎ』などといういかがわしい書籍が眠っているわけで、目の前の小娘に見られるわけにはいかなかった。
「せんせい、早く食べないとラーメンさめちゃうよ?」
「あ、あぁ。ごめんごめん、じゃあ食べようか」
 麻呂子は「いただきまーす」と言っていきなりスープから飲み出した。
「うわぁ、おいしい。せんせい、これ、すごくおいしいよ!」
「マジで?」
 明らかに疑いの表情を浮かべ、京紫朗もスープに口をつける。
「……」
 口を離すと、今度は箸で麺を少し食べる。
「……!」
 少しの間の沈黙。やがて京紫朗は盆の上にどんぶりを置いた。
「……奇蹟だ」
 七回に一回の奇蹟が起こってしまった。京紫朗は思った。後で作り方を教わっておこう、七回、と。
 二人は無言のまま奇蹟のラーメンを食べ続け、五分ほどで全部平らげた。
 「ごちそうさま」と礼儀正しくどんぶりに対して頭を下げる麻呂虎に京紫朗が心配そうに言った。
「ごめんな、ろまちゃん。もう九時過ぎだわ。そろそろ近衛さんも帰ってるんじゃないかな」
「……」
 麻呂虎からは反応が無かった。
 聞こえなかったのかな、と思い、京紫朗は麻呂虎の肩をつかんでみた。すると、麻呂虎の首はかくんと折れ、体ごと床に倒れ込んだ。
「ろ、ろまちゃん!」
 京紫朗は急いで麻呂虎を抱き起こした。目は閉じられ、口は力なく軽く開いている。
「あ、あぁ……ろま、ちゃん……」
 驚愕する京紫朗。だが次の瞬間、
「すーーーー……」
「ん?」
 麻呂虎の口元から息の音が聞こえた。ということは……。
「寝てる……だけ?」
 京紫朗はホッと一息ついた。まさか魚がラーメンに毒を盛っていたのではないかという疑心暗鬼にかられていたからだ。
 ひとまず麻呂虎を自分のベッドに運び、おそらくもう帰ってきているであろう近衛が心配するといけないので、京紫朗は唯牙家に行こうと思った。
 一階に降りて、相変わらず一人も客がいない店の中を通る際に、魚が京紫朗を呼びとめた。
「おや、麻呂虎ちゃんはどうしたんだ。窓からお帰りか?」
「ムササビと一緒にしないでくれ。俺の部屋で眠っちゃったんだ。近衛さんが心配しちゃいけないから、起きたら送って行きますって行ってくるよ」
「……そうか」
 魚の声のトーンが微妙に落ちたことに京紫朗は微かな違和感を覚えた。
「父さん?」
「ん。いや、なんでもない。ほら、早く行かないと近衛さんが心配するぞ」
「あ、あぁ。じゃあ、行ってくる」
「うむ、足をくじかぬようにな」
 よくわからない言葉に見送られて、京紫朗は店を出て行った。
 一人残った魚は残念そうに呟いた。
「まだまだだな、京紫朗」

 京紫朗が家を出ると、ちょうど見知った顔が自転車で家の前を横切ろうとしていた。
「あれ、シロー」
 京紫朗よりもかなり背の小さいその人物は京紫朗の前で自転車を停めた。
「おぅ、誰かと思ったらお茶か。結構久しぶりなんじゃないか」
「そうだね。前に海遊館に行ったっきりだもんね」
 お茶と呼ばれた男は自分のこめかみに指をやった。
 彼の名は伊藤園茶畑。通称お茶。京紫朗とは高校時代からの付き合いで、現在は大学生。京紫朗の志望校に合格している。
 伊藤園はこめかみに指をつけたポーズのまま、眉をしかめた。
「シロー、最近鈍ってるでしょ?」
「へ?」
 いきなり予想もしないことを言われたので唖然とする京紫朗。
「トレーニングサボってるんじゃないの?」
「ん、まぁ、最近はしていないな」
 ここ最近は京紫朗も予備校と家庭教師で忙しく、高校生の時のようなサッカーの練習をする時間がなくなってきている。
「まったく、戦闘能力が落ちてるよ。ダメだよ、しっかりトレーニングはしないと」
「戦闘能力ってなんだよ」
「あ、眼鏡が曇っちゃった。ちょっと待って」
 伊藤園はポケットからハンカチを取り出し、レンズをふきふきした。
 それはスカウターというのではないのか、と訊きたくなったが、今さらなのでやめておいた。
「ここんとこ忙しいからな。体が鈍っててもおかしくはないな」
 京紫朗は肩をごきごきと鳴らしながら言った。
「シロー……」
 伊藤園がなんだか寂しげな瞳で京紫朗を見ている。
「な、なに? 目ヤニでもついてる?」
「……いや、なんでもない」
 なんだか釈然としないものを感じながらも、京紫朗は話題を変えようと思った。
「ところで、どうだ? 大学のほうは。来年、俺が入った時のためにおいしい店とか開拓しておいてくれよ」
「う、うん。それじゃシロー、ぼくはそろそろ……」
「これから用事か何かか?」
「うん。ちょっとした準備があってね……」
「ふーん」
 あまり深くは訊くまい、と思った。
「じゃ、またな」
「うん、シローも元気で」
 伊藤園は海軍式の敬礼をして自転車で走り去って行った。
 伊藤園の姿が見えなくなってから、京紫朗は肩を落とした。伊藤園との会話で、大学のことを話題に出したことを後悔した。
 志望校に合格できなかったのは、勿論悔しい。そして何より、自分の友人がその志望校に合格してしまったことが、京紫朗の頭の中をぐちゃぐちゃにしてしまっている。
 根が負けず嫌いの京紫朗は、いつか追い抜いてやる、と常々思っている。だが、今はまだ追い抜くことはできない。それどころか同じ舞台に立つことすらできない。受験は来年の春なのだから。
 今はどう頑張っても追いつくことさえできない相手に、わざわざ自分が敗者であるという前提のもとで話を振ってしまったのだ。京紫朗としては情けない限りである。
「ちっくしょぉ……」
 やり場の無い思いを小さな声にしたそのとき、背後から気配もなく声が響いた。
「どうした。今日は覇気がないな」
 京紫朗が振り向くと、そこには長身の少女が立っていた。京紫朗の母校の制服を着ている。肩に光るブツで、誰なのか簡単にわかった。
「星野か」
 月をバックに両肩の拳銃が輝いていて絵になる光景だった。
 星野は通学路としていつも京紫朗の家の前を通り、時々こうして出くわすことがある。
「そういや最近、岡本は一緒じゃないのか」
 京紫朗はとりあえずどうでもいいことを訊こうと思った。
 どうも京紫朗は星野のことが苦手なのだ。岡本と一緒に出てきてもらえると主に喋るのは岡本の役目なのであまり気にしないでいられるが、京紫朗は一度星野を本気で殴ったことがある。その負い目もあってか、一対一で話すのはなんとなく気まずいのだ。
 京紫朗の質問に、星野はため息混じりに答えた。
「そんなに千恵に会いたいのか?」
「だれが」
「貴様が」
「ありえない」
 京紫朗はこうべを振った。口ではこう言ってはいるが、実は京紫朗は岡本にも追い目があった。岡本の腰まで伸びた髪の毛を肩甲骨ほどまでの長さに斬ったのは京紫朗の不注意から起こった事故なのだ。しかも京紫朗はあの日から岡本の姿を一度も目にしていない。もしかしたら激怒のあまり、大掛かりな復讐計画を遂行中なのではないかと、内心ドキドキしていた。
 それにもう一つ心配なことがあった。
「おまえら、最近は一緒にいないのか?」
「……」
「いつも二人一緒にいたから、それで最近星野しか見かけなくなったからさ。もしかしたら何かあったのかもしれない、って思って」
 そしてそれが髪を斬った事件と関係してはいないか危惧して。
「ふっ」
 星野は静かに左肩の拳銃を右手で取ると、引き金に指をかけ、阪神パークの前の交差点に銃口を向けた。これには京紫朗もおどろいた。
「うわわわ、なにをする気だ!」
「あそこ」
「え?」
 つられて京紫朗も交差点を見た。星野は説明を続ける。
「あそこが分かれ道」
 それだけ言って、星野は拳銃を肩に装着しなおした。
「つまり千恵と私の帰り道は違う。わかったか」
 あぁ、そういうことね。京紫朗は自分がくだらないことを訊いたんだな、と思った。
「指し示すだけならわざわざ銃を向けなくてもいいだろ」
「違う」
「何が?」
「銃をとったのは指し示すためじゃない」
「じゃあ、何故?」
 京紫朗が問うと、星野はまた、今度は両手に銃を持ち、周囲を見渡した。
「なにか邪悪な気配を感じた」
「邪悪な気配?」
「ここを通るといつも感じる。ここには何か憑いているのか」
 京紫朗はピンときた。きっとスカウトマンたちのことだ、と。近衛をバスケットボールのチームに招き入れるため、日夜スカウトに励んでおられる黒服の方たちのことだ。
「ははは。確かに憑いてるといえば憑いてるのかもな」
「なんのことだ」
「や、なんでもない」
「なにか隠しているな」
 星野は鋭い眼光で京紫朗を睨みつけた。だがすぐに銃を肩に装着しなおした。
「フン、まぁいい。これ以上サイコロック外しに失敗して精神的苦痛を味わうのは御免だからな」
「サイコロックて……」
 京紫朗が苦笑いをしていると、星野はもう一度京紫朗を睨んだ。
「ところで私の質問にそろそろ答えてもらおうか」
「はぃ? 質問て?」
「どうした。今日は覇気がないな」
 星野は最初に言った言葉をそのままの口調・抑揚でもう一度言った。
「あぁ、それね。はいはい、俺はいつでもやる気がありませんよ」
「真面目に答えろ」
 京紫朗は星野の目を見てびくりとした。
 その瞳は京紫朗の瞳を貫いて、どこまでも自分の中に入ってくるかのような気がした。こんなまなざしは久しぶりだった。
 京紫朗が絶句していると、星野が話し始めた。
「言いたくないのなら構わないがいつまでくだらないことで悩んでいるつもりだ」
「!」
 それだけ言って、星野は去って行こうとした。だが、京紫朗がその腕をつかんだ。
「ま、待てよ!」
「なんだ」
 星野が上半身だけで振り返る。
「くだらないことってなんだよ! 受験に失敗したことがくだらないっていうのか!」
「それを悩んでいることがくだらないと言っている」
「なっ……!」
「どうあがいたところで来年の春までは同じ状態だ。ならば今できる事に精一杯打ち込んだほうがよっぽどマシだと言っている」
「今、できること……」
 その言葉は京紫朗の中に響いた。だが、エコーするほどのものではなかった。でもこのわずかな手応えを諦めたくはなかった。
「俺に……今、できること……」
 星野は京紫朗に一瞥をくれると、去り際に一言だけ残していった。
「貴様にならそれがあると、私は思っているのだがな」
 そのまま歩きながら、星野はふと親友の顔を思い出した。
(千恵……やっとおまえの云わんとしていることがなんとなくだがわかる気がするよ)

 その後、京紫朗は近衛に麻呂虎が起きたら送っていくと伝えて自分の部屋に戻ってきた。
 京紫朗の頭の中にはいろんなものが渦巻いていた。自分のこと、星野のこと、伊藤園のこと。
 伊藤園は無事大学に進み、新しく打ち込める何かを見つけているようだ。星野は言った、自分にもできることがある、と。
 精一杯打ち込めるなにか。京紫朗にとって、それはこれまでサッカーだった。だが今は、高校を卒業してしまい、浪人生という立場である。勉強もしなければならないし、サッカーをするにしても場所を確保するのも人数を集めるのも大変だ。それにそれは精一杯打ち込むこととは意味が違うような気もする。
 では星野はいったいなんのことを言っているのか。京紫朗は気になる気にならない以前に、女の子にそんなことを指摘される自分が情けなくて許せなくて仕方がなかった。
 指摘されると言えば、目の前に寝ている麻呂虎もそうだった。自分の辛い過去を嫌な顔一つせず聞いてくれて、しかも最後には泣いてくれた。癒されたと同時に、自分はつくづく情けない男だと思い知らされた。
 できれば、麻呂虎のためになにかできることはないかなぁと思った。家庭教師ももちろんそうだが、それはバイトだ。それ以外で、完全に奉仕精神のもとの行為で。
 京紫朗がぼーっとそんなことを考えていると、麻呂虎が目を覚ました。時刻は十時。
「ふにゃ……あれ、せんせい。ここは……」
「おはよ、じゃなくて、おそよう、ろまちゃん。さ、帰ろうか。家まで送っていくよ。といっても目の前だけど」

 麻呂虎を唯牙家に送りとどけた京紫朗は、伊藤園に言われたこともあり、夜の街をジョギングすることにした。家に戻ってジャージに着替えて自宅と母校を往復した。
 六往復ぐらいして、今日はこれぐらいにしておこうと思って阪神パーク前の自販機でスポーツ飲料を買って駐車場に座りこんで飲もうとした。
 だが、目の前の、駐車場の中心の光景を目にした京紫朗は額にペットボトルをあてた状態のまま硬直した。
 そこにいたのは、髪は短いが、紛れもなく岡本千恵そのひとだった。いつもの制服姿ではなく、黒のセミロングワンピースという岡本らしからぬ格好をしている。何よりも、いつも腰につけている物騒な代物がない。
 京紫朗はそのすがたにしばらく見惚れていた。が、すぐに頭をぶんぶん振って、疑念を取っ払った。
(お、俺は、なんで、こんなに岡本をかわいいと思ってしまうんだ……)
 それにしても、今日の岡本はいつもとは感じが違っていた。ぽけーっとした感じで、空を見上げていた。当然、京紫朗にも気付いていない。
 外見は文句のつけどころがない美少女なので、こうしていると神々しささえ感じられる。
 京紫朗がその神秘的な姿を眺めていると、岡本はなにかを口ずさみ出した。それは歌っているかのような声だった。
「長弓背負いし 月の精
夢の中より  待ちをりぬ
 今宵やなぐゐ 月夜見囃子
 早く来んかと 待ちをりぬ
 ……」
 どこかで聞いたフレーズだなぁと思い、京紫朗は岡本に声をかけてみた。
「こんなところで独り言いってると、変質者と思われるぞ」
「え……!」
 岡本はびくりとして京紫朗のほうを振り向いた。
「ま、もともと変質者だから仕方がないか」
「……」
 岡本は額に汗をにじませて口をパクパクさせている。急に話しかけられて、そこまで焦っているのだろうか。
「どうしたんだ、そんなにあわてて」
「……え、えっと」
 おかしい。明らかにおかしいと京紫朗は思った。これはいつもの岡本とまったく違う。「……え、えっと」と、指を口元にあてる仕草がとてもおしとやかで品が良くてかわいらしくて非常によろしい。こんなのは岡本じゃない。
「どうしたんだ岡本、マジで変だぞ」
 京紫朗が手を伸ばすと岡本は「ひっ」と声にならない声を上げて、一歩後ずさった。
「な、なんでもないんです、先輩」
 いや、おかしい。ほそぼぞとした声で言われたらお兄さん変な気になっちゃうじゃないか、と京紫朗は思い、もしかしたらチェーンソーが岡本の人格を変えていて、今はそれがないから普通の人格になっているのかもしれないと思い、そのことを訊いてみようと思った。
「そういや岡本、いつもの……」
 チェーンソーはどうした、と言おうとしたが、それは岡本の言葉によって途中で遮られてしまった。
「せ、せせせ、先輩っ。わ、わたし、そろそろ、帰りますっ!」
 うつむいた顔を真っ赤にした岡本は手短に別れを告げるとそそくさと駐車場から出て行った。最後まで黒のワンピースを乱すことなくあくまでおしとやかに上品に。
「やっぱありゃあ、ぜったいにおかしいって」
 京紫朗は岡本の姿が見えなくなるまで呆然としていた。すると、肩を軽く叩かれたので振り向いてみると、そこで京紫朗は驚愕した。
「せんぱいっ、奇遇ですねこんなところで逢うなんて。あぁ、二人の愛は輪廻すらも遡っていくんですね」
 振り向いたそこにたっていた人物の顔は、たった今、京紫朗が見送った人物とまったく同じ顔だったのだ。赤色で薄めのシャツにミニスカートという、いつもの岡本スタイルだ。腰にはチェーンソーが取り付けられていて、ある意味京紫朗を安心させた。
 京紫朗が愕然としているのをお構いなしにもう一人の岡本は続ける。
「私もここに来ればせんぱいにめぐり会えると思っていたんですよ。せんぱいも私のことを想ってくださっていたんですね、私感動しちゃいます♪」
 放っておいたらいつまでも続きそうだし、何やらものすごいことを言い出しているので驚きはともかく止めることにした。
 そして京紫朗はもう一人の岡本のことの経緯を説明した。

「あぁ、それは千夏ですね」
 もう一人の岡本の話しによると、自分こそが岡本千恵本人であり、駐車場にたたずんでいた黒のワンピースを着た少女は、岡本千夏であるという。
「で、その岡本千夏っていうのは誰なんだ?」
「ここまで言ってわかりませんか?」
「わかるか! 肝心な部分をちゃんと説明せぃ!」
「ふふふ、ならせんぱいにだけ、教えちゃいます♪」  京紫朗は、「せんぱいにだけ」という部分にちょっとだけドキッとしてしまった。
(いかんな。どうしたんだよ、俺は……)
「あの子、岡本千夏は、私の双子の妹なんです」
「なるぺど。どうりで似ているわけだ」
「あれ、驚かないんですか?」
「おまえの腰についている武装以上に驚けるものがあると思っているのか?」
「メグちゃんの拳銃」
「むむ、いい勝負だ」
 二人はこうして、他愛も無い会話を暫く続けた。
「しかしあの子、千夏っていったっけ。なんでこんなとこで空なんか見上げていたんだろうなぁ」
「……」
 千恵は少しの間、千夏がそうやっていたのと同じように空を見上げ、目を閉じた。
「せんぱい。あの子にはあの子なりの理由があるんですよ、きっと。だからそれは、私の口から言っても、仕方が無いことだと思うんです」
 岡本が言うことにしては、かなりの説得力があった。京紫朗もその通りだと思い、これ以上追及するのはやめておいた。
「それはそうと、せんぱい。せんぱいに逢おうと思っていたのは本当なんですよ。さっきもせんぱいの家に向かっていたところなんですから」
「ぬわに」
 それは危なかった、ここで捕まえる事ができて本当によかった。と、京紫朗は思った。家ではまだラーメン屋が開いていて、入った途端に魚がいる。さっき麻呂虎との件であれほどの誤解をされたのだから、その直後に他の女の子が訊ねてきたとなると、何を言い出すかわかったものではない。
「それはちょうどよかった。用があるならここで言ってくれ。別にラーメン食いに来たわけじゃないんだろ?」
「うーん、ラーメンも食べたいんですけど主な目的はせんぱいですね」
 千恵は残念そうにこうべを垂れると、持っていたカバンの中からメモを取り出して京紫朗に手渡した。
 見ると、中央に赤い点がある手書きの地図と、その横に日付と時間が書いてあった。日時は明日の午後六時。
「これは?」
「明日の午後六時にその地図の赤い点の場所に来てください。そろそろ頃合いかと思いましたので」
「はぁ?」
 わけがわからなかった。
「なんの用なんだ?」
「重要なお話があるんです。せんぱいだけに、お話します」
 また、京紫朗は千恵の言葉にドキリとした。それを必死に押さえながら言う。
「六時っておまえ、俺まだ予備校の授業受けてるって」
「あら、そうですか」
 もちろん千恵がこれで引き下がるはずはなく、チェーンソーのスイッチを入れた。轟音が夜の町に響く。
「確か警察署がこの近くにあったと思うんだが」
「警察はすぐには動けませんよ」
「どういう意味だ?」
「さぁ、どういう意味でしょう」
 終始笑顔の千恵。それに対して引きつった笑顔を浮かべる京紫朗。
「せんぱい」
「な、なんだ?」
「せんぱいが千夏を私と間違えたのは、何故だと思いますか?」
 千恵は笑顔を崩さず言う。
「二人の外見が似ている、っていうか、同じだったからだ」
「じゃあ、何故、同じなんですか?」
 問題を出すのではなく、質問をしているような口調だった。京紫朗にも見当がついた。
「あ……」
「私、妹と区別がつきやすいようにと、髪を伸ばしていたんです」
「そ、そうだったのか……それは、悪いこと、しちゃったな」
「いえ、いいんですよせんぱいが明日そのメモの場所に来てくだされば」
 おかしいぐらいの笑顔を続ける千恵。京紫朗は仕方が無く、行くことを約束してしまった。
「それにね、せんぱい。髪が短くなって私、少し嬉しいんですよ」
「なにが?」
「せんぱいは髪房フェチではなくてショートマニアということがわかったからです」
「ぶっ!」
 京紫朗は飲んでいたスポーツドリンクを吹き出した。
「あはははは、せんぱいナニやってるんですかー」
「このクソアマゾネスめ、貴様にも地獄の行水を味わわせてやる」
「きゃー。何するんですかせんぱい、ジュースを投げないでくださいー」
 かくして阪神パークの駐車場を舞台に水鏡京紫朗VS岡本千恵の決闘が始まった。スポーツドリンクをかぶってずぶ濡れになった京紫朗の表情は、とても晴々しいものだった。


「おねえちゃぁん……くるしいよぉ」
「大丈夫よ。ただの風邪なんだから。高熱さえおさまればあとは自然に治っていくわ」
「う、うん……」
 姉は妹の手を握った。涙がこぼれ落ちた。
 この子を治すには、自分が頑張るしかない。収入の少ない親などあてにはできなかった。
 握る手に力を込める。大丈夫、あなたは必ずお姉ちゃんが治してあげるからね。そう、心の中で泣き叫んで。
 次の日、姉は学校で一枚のチラシを拾った……。


                夏・第一幕 了