すでに日付が変わっていた。荷物を担いで全力で走って、なんとか出発直前の最終電車に乗ることができた。陸上部で毎日走っているとはいえ、部活帰りの、しかも肩からさげたボストンバッグにいっぱいの荷物を持ってのラストスパートは彼でなくとも相当きついものがあるだろう。
膝に手をついて肩で息をして、ひとしきり落ち着くとドアが閉まり、列車が動き始め、慣性にしたがって体が傾く。ドアに手をついて体を支え、座る席を探そうと視線を泳がせた。ふと窓の外のネオンが目に入った。その風景には違和感があった。彼ははっとして路線表を見上げた。
少しして彼は、「しもた」と思った。逆周りの列車に乗ってしまったのだ。彼の通う高校は彼の家から駅二つのところにあるのだが、環状線の逆周りだと、駅の数は十四を数える。このままだと家に帰るのは二時前になってしまう。
彼は深くため息をついてシートに崩れ落ちた。次の駅で降りて、この列車とは逆周りの最終電車を待つという手もあったが、疲れきった脚が面倒だと言っている。だから彼はあきらめることにした。幸い、自宅に最寄の駅が終点だから、時間はかかれどこのままこの電車に乗っていれば帰れる。外は真冬だ。それに比べて、この時間の車内は客も少なくしっかりと暖房が効いていて快適だ。そのうえ弾力感に富むシートに腰をうずめていられるのだからむしろこのままのほうがいいかもしれないと思うと、途端に安心して肩の力が抜けた。自然と、彼の瞳は閉じていった。
肌寒さを感じて目を覚ました彼はゆっくりと首を回した。ごきごき、と音が鳴る。ドアは開いていた。まだ出発してから二つめの駅だ。ドアに一番近い席に座っていると開閉のたびに寒くなるので移動しようとしてはじめて、彼は自分の左肩になにか重みがあることに気がついた。少女が、制服を着た学生らしきショートカットの少女が、頬を彼の肩に預け、すぅすぅと寝息をたてていた。彼はあまり深くは考えずに、彼女を起こさないようにゆっくりと座りなおした。自分で温めたシートが心地良かった。
やがてドアが閉まり、列車が動き出すと、やはり慣性により彼女のほうに寄りかかりそうになった。彼の、男にしては少し長めの髪が、彼女の髪と触れ合った。彼女の外見は幼く見えた。中学生か、高く見積もっても高一だろうと彼は思った。なぜこの少女がこんな時間に電車に乗っているのか、彼には想像がつかなかった。足元に置かれた鞄はそう大きくはない。ということは旅行帰りなどではなさそうだ。
気がつくと、同じ車両に乗っている乗客は彼と彼女だけだった。窓の外は一面に海が広がっていた。彼が海に見入っていると、膝の上でもてあましていた手に、冷たい感触を受けた。それは彼女の手だった。彼が一瞬どきりとすると、小さな声が聞こえた。
「バカ、えいいちくん……」
彼が声の主である隣の少女に視線を向けたと同時に、列車はトンネルに入った。トンネル内の照明が、列車の窓や床や天井で反射やら屈折やらを繰り返し、彼女の顔を、つやのある髪を、淡いオレンジ色に照らし出した。彼はなにか神々しいものを見ているかのような気がした。彼女の瞳の隅に、かすかにオレンジ色に光る雫が見えたと思った直後、列車はトンネルから出て、車内には車内照明の光だけが残った。
(泣いている? どうして……)
見当のつかない少女の身の上に勝手に思いを馳せていると、彼女はすうぅ、と息をすって、ゆっくりと目を開いた。二人の目が合うと、彼は瞬きを何度かして動揺したが、彼女は小さな口をあけたままでぼぉっと彼を見ていた。やがて一回目の瞬きをすると、彼女は左右に視線を泳がせ、状況を確認した。電車に乗っていること、自分が人の肩で寝てしまっていたことがわかり、彼女は手を口元に当てて恥じらいを示した。
「へえ。キミ、水泳部なんや」
「はい。無理して水泳が強い高校に入れたのはええんですけど、毎日練習が厳しくて、もうヘトヘトです。でもおにいさんも疲れてますよね」
「いや、ボクは別に、そんなに疲れてへんよ」
彼は少し冗談めかして言ったが、彼女は真面目な顔をして答えた。
「ウソぉ、だって私がここに座ったとき、おにいさん、泥みたいに眠ってたよ。でろーんって」
彼女は屈託のない笑顔でジェスチャーしてみせた。その笑顔を見て、彼の口元からも笑みが漏れた。
その瞬間、列車が突然減速し、彼の体が彼女の体にのしかかった。完全に会話に気を許しなんの警戒もなかった彼は腕で体を支えることすらもできなかった。
「む、ん……」
彼の目の前で、彼女が片目をつぶって苦しそうにしている。状況が理解できた彼は咄嗟に体を起こして後ろを向いた。彼女は口元に指を添えて恥ずかしそうにうつむいている。彼は良心の呵責に耐え切れなくなって大きな声で謝った。
「ごめん!」
実時間にして一秒にも満たないほどだったが、瞬間、二人の唇は触れ合っていた。
「あ、あの、その……」
何か言わなくてはいけない。彼はそう思ったが、言葉にならない。自分の唇に、彼女の唇の柔らかさが、重なったからだに、女のぬくもりの心地良さが、奇妙な恍惚感となって実感として残っていた。それが彼女に対する憐憫であると思い、彼は自分が許せなかった。
彼女に傷ついた様子はなく、ただぼぉっと彼の背中を眺めるその視線は焦点があっていなかった。
しばらく沈黙の時間が過ぎ、彼がいたたまれなくなって立ち上がろうとしたとき、彼女の声が彼の心を引きとめた。
「キス……って、したことありますか?」
彼はおそるおそる彼女を振り返った。彼女の口元には、かすかな笑みがあった。彼の中にそれですべてが許してもらえたという嬉しさが無意識にこみ上げたが、予断を許さずに、そんな自分を許さない、自己断罪の念が沸き上がった。そうとは知らずに、彼女は続けた。
「私、失恋してきたところなんです」
その言葉が、彼の興味を再び彼女に向けさせた。想像してもわからなかった、こんな時間に彼女が電車に乗っている理由に関することだったから。
「私ね、大学生のカレシがいるんです。いや、いたって言ったほうが正しいです。今日、水泳部の練習が終わって、久しぶりに会いたいって思って、カレの家に行ったんです。そしたら、ちょうどカレ、女のコとどこかに出かけるとこで、家の前に出てきとって……」
あぁ、そのカレシがさっき言ってた「えいいち」っていうのか、と彼は思った。彼女は涙声になりながらも続けた。
「そしたらカレ、私にゆってきたんです。『二股かけられたぐらいで、ゴチャゴチャゆーな』……って」
彼には、彼女にどう言っていいかわからなかった。高校二年生にして、まともな恋愛もしたことがない、恋愛小説を熟読しているわけでもない彼に、今の彼女にかけてやれる言葉は見つからなかった。
「私、もう、なにがなんだかわからなくって……悲しいんか、悔しいんか、辛いんか、憎いんか、情けないんか。どの感情に自分を流せばええんかぜんぜんわからんくて……」
彼女の気持ちが、彼にはわかった。アドバイスや、慰めはしてやれないが、その気持ちはわかった。彼にも、そんな気持ちになった経験はあったからだ。長距離走のゴール目前での接触事故。誰も悪くない。けど、やるせない思いが、そこには確かにあった。すでに考えることをやめたことを、彼が再び思い出していると、彼女は彼の足元のボストンバッグを指差していった。
「それで、駅のホームでずっと途方に暮れてたら、こんなおっきなカバン持った人が、『まてっ、終電!!』なんて言って横を走っていったから、私も思わず電車に乗っちゃったの」
彼女はときおりしゃくりあげながらも、くすくすと笑っている。彼は、彼女の肩にそっと手を置いた。そして、精一杯の優しい声を出した。
「さっき、自分の気持ちをどの感情に流せばえぇかわからない、って言ってたよね」
彼女の目は開いたまま、彼の顔を見上げた。彼はそれをイエスととった。
「どれでもえぇと思うよ」
彼がそう言った瞬間、彼女の頬をひとすじの涙がたどった。彼女は、自分を縛り付けていた心の牢を取っ払ったかのような解放感に満ちた表情をしていた。
「どう振舞えばえぇかわからんっちゅうことは、誰にでもあることやと思う。そんなときは、誰かを憎んでもえぇし、誰かに悲しい思いを打ち明けて、ぶちまけたってもえぇ。どうにかしてそのどうしょうもならん気持ちを、爆発させなあかんと思うねん、捨てることができんかったらな。ボクら、人間やからさ、ちょっとした心の摩擦でフラストレーションなんかいくらでも溜まるやんか。そしたら他の誰かが、心の元気な誰かが、その爆発を受け止めたったらえぇと思うわ、ちょうど今のボクみたいな誰かに、ね」
いつしか彼女は彼の胸に体を預けていた。揺れる列車の中、お互いの気持ちが確かに通じ合っていた。
列車が減速を始めた。別れのときが近づいてきた。彼女は次で降りると言い、彼の前に立った。
「今日は本当にありがとうございました。おかげで、元気出ました」
「そう思ってくれたら、ボクも嬉しいよ」
列車が停まり、ドアが開く。いつのまにか降りだした雪が、車内にも入ってくる。
「じゃあ……」
「また」と続けそうになり、「また」はないのだと思い、言葉をとめる彼女。
彼は、迷っていた。今、彼女と別れたくない、この思いを、どういった行動に移せばいいのか。いや、移す行動は一つしかない。二人の思いは通じ合ったはずだ、とは思うが、そんな簡単に感情に流されて彼女を振り回してもよいものか、と彼は思った。たった今、彼女に言った事すら、実行することに躊躇している自分が、たまらなく情けなくなった。彼は思った。このドアが閉まれば、自分と彼女とはもう会えなくなる、と。彼は目を閉じて人生最初の覚悟を決めて、足を踏み出した。前へ駆け出していた。
「待っ……」
「あ、降りる駅間違えちゃった」
彼が目を開くと、そこには彼女はいなかった。
彼女が振り返ると、声の届かない場所に彼はいた。彼が振り返ると、すでにドアは閉じていた。彼女がドアに手をあてて口を開き、閉じまた開いて閉じた。おにいさん、おにいさん。そう言っているのであろうが、彼の耳には届かない声だった。
発射のベルが鳴り、彼女の顔が横にスライドする。彼は視線だけでそれを追いかけ、やがて彼女は見えなくなった。
「そういや、名前も聞いてなかったな……って、ボクも言ってないな」
少し長めの髪を列車が巻き起こす風にあおられながら、彼はゆっくりと瞬きをした。次に開かれた彼の瞳は、部活帰りの学生の疲労感に満ちた色をしていた。
駅から出て、あまりよく知らない街の商店街の入り口で、彼は大きく伸びをした。
「ん〜ってと、駅四つくらい、歩くか」
彼の口元には、けっして満足感からくるものではない笑みがこぼれていた。
||| ホームに戻る |||