第一章 幼き的

 意識が朦朧としている。おかしい。自分が自分じゃないみたいな感じがする。寄せては返す、なんだかよくわからないうねりのようなものたち。何度も味わった曖昧な感触は、確かな実感となってこの体に刻まれている。
 長方形のコートの中に立つ、十二人の選手たち。
 彼――杭瀬真人(くいせまさと)――は、そのうちの一人だった。
 一人の選手がコート外から飛び上がり、頭上でボールを弾く。強大な力を受けたボールは瞬く間にネットを越え、計算されたかのようにそこからの軌道を変える。
 別の選手が掛け声とともに床に平行に飛び、ボールを腕で受ける。落ちることを免れたボールは、再び宙高く舞い上がる。
 バレーボールとは、相手チームの谷にボールを落とすスポーツである。日本では以前から国民的スポーツという認識があったが、近年ではその知名度を落としてきていた。しかし最近の全日本女子チームの活躍もあり、下火になっていたバレー人気は再び活性化していた。
 女子が頑張っているのだから男子が負けて入られない、ということで全日本男子チームも戦力補強に力をいれ、こうしてワールドカップ予選最終戦まで戦い抜いてきた。そう、この試合はワールドカップ予選最終戦、日本対中国である。日本はこの試合に勝たないとワールドカップへの切符を手に入れることができない。女子がすでにワールドカップ出場を決めている以上、絶対に負けられない試合だった。
 負けられないのは中国も同じく、この試合は中国男子の監督、リ・ウォーエンの引退試合でもあった。監督に有終の美を飾らせるために、すでにワールドカップ出場資格の無い中国とて、負けるわけには行かなかった。
 杭瀬真人は、全日本男子チームのスカウトが昨年、ボクシング界から引き抜いた人材である。抜群の運動神経を持っていながら、相手の攻撃をかわそうとせず、相手の攻撃を利用することで自分の攻撃に結び付けようとする独特のスタイルにスカウトが目を付けたのである。
 もちろん引き抜かれた当初は、ボクサーである杭瀬真人のファンからは壮大なバッシングを受けた。裏切り者だとか、ファンを侮辱するなとかいう抗議の手紙が何通も届いた。だが真人とて、なんの葛藤もなくグローブから拳を抜いたわけではない。スカウトに来た男のバレーに対する熱意に驚かされ、純粋にバレーに興味を持ったということもある。それに、真人自身はボクシングをやっていいくことに少なからず自らの限界を感じていた。このままボクシングでやっていくよりも、バレーボールという新境地で自分の力を、自分の限界をもう一度試してみたいと思ったのが、バレー転向を決めた理由だった。
 新しい環境は真人にとって快適で、すぐに慣れることができた。少々特殊な性格ではあるが人見知りをしない真人はチームメイトともすぐに打ち解け、早くも合同練習参加一ヶ月で全日本男子のレギュラーを確保したのだ。
 するとマスコミ、そして元ボクサーの真人ファンは手のひらを返したように真人を賞賛した。真人は、そんなマスコミやファンの反応に、やり場の無い怒りを覚え、マスコミへのコメントなどもほとんどしなかった。
 何はともあれ、真人は今、全日本男子バレーの期待の星としてコートに立っている。状況は日本のマッチポイント。あと一点入れれば、日本の勝利という場面である。選手は皆、体力的には限界がきていた。残った精神力のみで、お互いに負けられないという気迫のみで動いているという、そんな白熱した試合。客席で応援している観衆も総立ちになって声援を送っている。
 日本のサービス。ネット際を狙うやまなり気味の放物線を描いてボールは流れる。中国側はの後衛はまずいと思った。反射的に体が前に出る。しかし、前衛はこれをチャンスと思った。
 日本の狙いはネット際に立つセッターにレシーブを受けさせること。狙い通り、中国のセッターがネット際に詰め、ギリギリネットに触れずに入ってくるボールにあわせて、
「――――!」
 飛んだ。
 誰もが思った。レシーブに見せかけてのダイレクトトスであると。だがあまりに意表をついた攻撃で、日本の選手は誰も体の反応がついてこなかった。否、ただ一人、杭瀬真人を除いては。
 真人は見る。飛び上がったセッターではなく、その横に走りこんでいるアタッカーを。動きにあわせているアタッカーは一人。トスがそこに上がるのは間違いない。そしてアタッカーのさらに後ろを見る。中国の後衛が前に出てきている。セッターとアタッカーの判断は味方にとっても意外なものだったらしい。セッターが平行にトスを送る。ここまでは予想通り、だが思ったよりもトススピードが速い。相手もこの一点にすべてをかけるつもりか。だが反応は遅れていない。アタッカーの目を見る。体は左を向いているが目は右を見ている。真人が意識して空けているスペースだ。間違いない、ここに打ち込んでくる。真人は確信した。スパイクが放たれる。真人はしっかりとボールが相手の手を離れた瞬間の軌道を視て、その方向にあわせた。
「うおぁぁぁ!」
 すべてが読みどおり。真人は腕でボールを捕らえると、ボールの圧力を上回る力で頭上高く腕を振り上げた。ボールにドライブ回転をかけたのである。
 そう、真人がとった行動はただのレシーブではない。前に出てきていた中国後衛のその後ろを狙った攻撃的なレシーブなのである。
「なっ……!」
 トスに集中するあまり着地に失敗して地面に膝をついていた中国のセッターが目を見開いた。
 必殺の一撃は、必殺の一撃となって後衛の頭上すらも越えていく。やがて、ボールは久しく触れていない地面にタッチした。そこは、ラインの内側だった。
 場内が揺れる。地震ではない。大歓声だ。コートを囲む観客たちの声援はピークに達し、それが選手たちに試合が終わったということを知らせた。
 中国の選手たちは泣き崩れ、日本の選手たちは互いに抱きしめあう。中には咆哮をあげるものもいた。
 真人もその輪に入ろうとして、そして気がついた。
 ――どうしてみんな、そんなに背が高いんだろう。
 否、自分が低いのだ。真人はすぐにそれに気づき、自分の姿を確認した。決死の思いでダイビングレシーブをしたままの恰好である。ワールドカップ出場の決勝点を決めた男がいつまでもこれでは恰好がつかない。そう思った真人は、早く起き上がろうと思った。だが、
「ん?」
 何かが、変だ。
「……く、くそ。おい」
 何故だか、右足に力が入らない。なんとか左足で上半身を起こし、右の足に目をやる。自分の右足はだらんと引きずられていた。その光景はまるでそれが自分のものではないかのように思わされる。
 ふざけるな、と思い、無理にでも立ち上がろうとする。しかし、右足に力が入らないので、転ぶ。また起き上がろうとして、また転ぶ。
 チームメイトが真人の異変に気づいて、表情を変えて駆け寄ってくる。
「杭瀬! おい、大丈夫か!」
「じょ、冗談だろ? おぃ、立てるか?」
「担架! 誰か、早く!」
 チームメイトたちが口々に声をかけるが、真人には彼らが何を言っているのか理解できなかった。彼の頭の中には、自分の足を動かすことしかなかったから。
 なんで、どうして、なんでだよ。なんで俺の脚は動かないんだよ。散々苦労してたどり着いた栄光の果てには最悪の事態しか待っていないのかよ。おい、なんとか言えよ、俺の脚。今まで叩けば応えてくれていただろう、おいってば。
 明らかに狼狽し、自分たちの心配する声にも答える様子が無い真人を、チームメイトは見かねて、急いで担架の手配をした。
 そして、真人は病院に運ばれた。


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