第二章 速き刻

 ばっと目を見開いて、上半身を起こした。息を荒くしている細身の青年、杭瀬真人は右足首を抑えて必死に深呼吸をしている。
 ……また、あの夢を見てしまったか。
 嫌な夢を見た後はいつも汗がびっしょりだ。だから風呂は朝に入ることにしている。
 だがその前に、この動悸を抑えておかなくてはならない。その一心で、何度も何度も深呼吸を繰り返す。
 嫌な夢……それは真人にとって、本当に嫌な夢である。一年前の冬、怪我のためにバレー界から退くことになって以来、再び真人に対するバッシングは強まった。ただでさえ故障で心を痛めているというのに、人々の冷たい反応はさらに真人を追いつめた。それ以来、真人は人々から隠れるようにひっそりと暮らしてきた。狭いアパートだが、一人で暮らすには快適な部屋を借り、生活サイクルは通院とバイトとゲームセンター。そんな生活を一年間、続けてきた。なるべく人との接触が無い仕事がよいと思い、バイトは夜のビル警備員をやっている。それぞれのフロアに一人が担当になるため、出勤時と退勤時、それと非常時以外には人と話すことがないという、真人にとってはやりやすい仕事だった。
 ようやく動悸もおさまり、だいぶ落ち着いてきた。真人はタオルを手に取ると顔面いっぱいについた汗を拭った。今日も病院に行かなければならない。時計を見ると、のんびりしていられる時間じゃなかった。急いで布団から出て、風呂に入る準備を始めた。

 風呂からあがった真人は、スーツに着替え、車を走らせ、急ぎ病院へ向かった。目的は右足のリハビリである。引退時、「もうバレー界に戻るつもりは無い」と短いコメントを残して去ったが、やはりどこかで諦めきれていないのだろう、真人は今も怪我のリハビリのため、病院通いを続けていた。とはいえ、足の怪我が治ったところで再びバレーをやる気はなかった。今更戻れない、という思いがある。
 病院に着くと、主治医がロビーのソファでテレビを見ながらコーヒーを飲んでいた。
「おぅや、杭瀬くん、今日は早いですね」
「急いで来たからね」
「ほほほ、時間にシビアというのはいいことですなぁ。あ、昨日は日ハム負けたかぁ……」
「桜田門さん。そんなことより、医者がこんなところで油を売っていていいのかい?」
「そんなこととは心外な! 杭瀬くんは、わしが今までどんな思いでファイターズを応援してきたかわかっとるのかね!? 今年は新庄も来てくれたんだ、小笠原も健在だ、これで優勝できんかったら来年はイチローでも呼んでくるしかあるまいて」
 主治医は興奮してファイターズに馳せる三十年間の思いを熱弁し始めた。
 このテレビを見ている妙に暑苦しい老人が真人の主治医である桜田門外変(さくらだもんがいへん)。日本ハムファイターズと競馬をこよなく愛する道楽老人である。
「それはそうと、桜田門さん。早いところ今日のリハビリをしようじゃないか」
「きみ、物事は焦っちゃいかんよ。これから今週のレースの見所チェックなんだ、先にわしの部屋に行っていてくれ」
 そう言って桜田門は鍵を差し出してきた。いいのか、と思いながらも、いいんだろう、と思い直して真人はその鍵を受け取った。
「では行くが。その前に桜田門さん、ひとつだけ言っておこう。馬のケツを追いかけるのも悪いとは言わないが、さっきから傾けたままのコーヒーの缶から茶色の液体がどぼどぼとこぼれてその長すぎる白衣の股間部分にまるでおもらしの跡かのように染みを広げているのだが……」
「なっ、なななんとぉー! 杭瀬くん、きみ、そういうことはもっと早くに言いたまえよー!」
「物事は焦ってはいけないのではなかったのかい?」
「むぐぅ……」
 口ごもる桜田門に、真人はため息ひとつ。
「まこと本意ではないのだが先に部屋に行って替えの白衣を用意しておこう。さぁ、早くそのみっともない白衣を洗濯に出してくるといい、でないとますますリハビリが遅れてしまうのではないかい?」
 それだけ言い残して、真人は足早にロビーを離れた。
 医者としての桜田門は一流である。それだけではなく、桜田門は真人の境遇に理解があった。人々が真人を非難してやまない中、元チームメイトに紹介してもらったこの医者は、初めて会った真人に、
「まだ若いんだから、そう落ち込むことはないだろう。今の状況が気に入らなかったら、自分の力で変えていけばいい。それだけの力が、あんたにはある。目を見ればわかる」
 と、諭すように言ったのである。もちろん口には出さないが、その言葉で当時の真人がどれだけ救われたかは本人が一番良くわかっている。そういうこともあって、桜田門は真人が気を許せる数少ない友人でもあった。
 廊下を歩きながら真人は窓を見る。外は薄暗く、陰惨な雲が集まった空からは、今にも大粒の雨が降り出してきそうだった。
「ふむ。そういえば傘を持ってきていなかったな。まぁ、桜田門さんの傘でも無断で拝借することにしよう」

 ロビーで真人と別れた桜田門は、白衣を脱いでグレーのTシャツ姿になって走り出した。向かうは洗濯機。
 と、そこで看護婦に呼び止められた。
「桜田門先生」
「おぉかおりちゃんかぁ。なにかね、わしの個別指導でも受けたいかね?」
「白いズボンの股間のところだけ茶色くして言う台詞じゃないと思うんですけど……」
 桜田門が「いやん」と言いながら内股になって股間を隠すのを看護婦は無視して桜田門から白衣を奪い取った。
「これはちゃんと洗濯しておきますから。……あぁ、そうだ。忘れるところでした」
 看護婦は病院の入り口、自動ドアのほうを指差して言った。
「あの子、誰だかわかりますか?」
「あの子?」
 看護婦が指差す方向を見ると、確かに人の姿が見える。
 腰ほどまでの長い髪をポニーテールにした背の高い女の子だ。その立ち振る舞いから可愛らしい印象を受けたが、その背の高さ故に不思議な違和感があった。
「あの子、さっきからずっとあそこに立っているんですよ、30分ぐらい。なんだか中を覗き込むような感じで、でもすぐにやめちゃったりして」
 見ればなるほどおろおろとしている。口元を引き締めて病院内を凝視するが、すぐに目を閉じて力なく口を開いてため息をしている。桜田門が見ていたのはわずか十数秒間だったが、その間、同じサイクルでじつに数回も同じことを繰り返していた。
「ははぁ、それで、あの子がどうしたんじゃ?」
「先生のお知り合いじゃないかと思って、患者さんだとか」
「わしは知らんよ。初めて見る子だなぁ」
「あれぇ? おっかしいなぁ、絶対に桜田門先生の関係者だと思ったのに」
「何故、そんなことを思ったんじゃ?」
「えぇ、行動が変ですから。変でこの病院の関係者なら桜田門先生絡みでまず間違いないだろうと思ったんですが、むー、私も読みが甘いですね」
「今、なにげにさらっとひどいこと言われた気がするのはわしだけなのかなぁ?」
 独り言を言いながら右の頚椎部を指圧する老人を看護婦は無視した。
「うーん、どうしましょう。追い出してきましょうか?」
 看護婦が腕まくりをしながらドアに向かって歩き出す。それを桜田門が制止した。
「まぁ待て待て。無理に追い返すこともあるまいて」
 桜田門はにこやかに看護婦を制しつつ、再びドアの外の少女に目を向ける。少女の不安そうなまなざしや迷いの混じった表情を、何十年もの人生の映像を納めた眼が見据える。
 少しすると、桜田門はふっと眼を細めて笑った。
「ま、放っておいてあげようじゃないか。特に病院の迷惑になるわけでもないじゃろう?」
「え、えぇまぁ、騒ぎを起こしたりしたわけじゃないですから」
「なら、無碍に追い返すのは無粋というものじゃ。きっとなにか理由があってのことなのじゃろうよ」
「先生がそう言うのでしたら。あ、この白衣は部屋まで持って行きませんからちゃんと夕方に自分で屋上まで取りに行ってくださいね」
「なっ……この寒空の下、こんな老い先短い老人に、一人で屋上に行けと言うのか。この病院の看護婦教育はいったいどうなっとるんじゃ……」
「いや、もう六月ですから暑いんですけど。ってツッコむのはそっちじゃなくって。先生の部屋、二次元の女の子の裸のイラストが描いてある箱がいっぱいあるから、看護婦はみんな入りたくないって言ってるんですよ。それに時々、なんか怖い患者さんいますし」
「あぁ、杭瀬くんのことじゃな。彼は怖くなんかないぞ、ちょっと頭がおかしいけどな」
「今、なにげにイタい部分だけさらっと流しましたね……」
「なんのことかな? 最近、耳の調子が悪くてなぁ……」
「美少女ゲームも程々にしてください、ってことです」
「な、なんでそれを!?」
「あのですね、私だって箱を見ればそれがゲームだってことぐらい予想がつきます」
「あわわわわ……」
「これに懲りたら少しは部屋を掃除してください。それじゃ、私は行きますからね。変なニオイのする白衣を洗わなくちゃいけないんですから」
 地面に崩れ落ちる老人を放置して、看護婦は立ち去った。
 気を取り直して起き上がると、桜田門はもう一度だけ、ドアの外の少女に目をやった。相変わらず、同じ恰好でそこに立ち続けている。その姿に、桜田門は思わず笑みをこぼしてしまう。
「いい目をしとるなぁ。最近は、ああいう目を見ることが多くなったもんだなぁ、よきかなよきかな」
 脳裏に似たような目を思い浮かべながら、桜田門は自室へ向かった。

「というわけで、理奈という娘の笑顔は耐えかねぬほど輝かしいものだったのだよ。そこで私はこの調子で一気に接吻まで持ち込もうと車の後部座席に彼女を招き入れようとしたのだが、ちょうどタイミングが悪いことに大学時代の悪友から電話がかかってきたのだよ。もちろん目の前の理奈くんのことで頭がいっぱいの私は力の限り電話を無視したが……どう思う?」
「いや、どう思うって言われてもなぁ……」
 自室に戻ってきた桜田門がまず見たものは、机の上の私物を物色している真人だった。一つの箱を手に取り、なにやらぶつぶつと言っている真人を見るや、桜田門は大きなため息を漏らした。
「開口一番、エロゲーの話題とはな……成長したなぁ、杭瀬くん」
「それは褒め言葉と受け取っておくことにしよう、桜田門さん」
 真人が机を離れて桜田門に椅子を空けた。桜田門はもう一度鼻でため息をして自分の席に座った。
「杭瀬くん、いい年した大人が部屋に引き籠ってエロゲーというのはいかがなものかと思うんじゃがなぁ」
 しかし真人はふっと笑みをこぼして言った。
「病院の自室の机の上に四十本ものいかがわしいゲームを広げている老人にだけは言われたくないのだがね」
「こっ、これは、そ、そうだ! 資料なんじゃ、女体に関する資料。使い終わって要らなくなった資料をきみに譲ってあげているなけなんじゃよ、ははははは!」
「ははははは、だから私に回ってくるものはいかにも古めかしい内容のものばかりだったということだね。ところで桜田門さん、私以外に担当の患者がいないあなたが何故女体に関する資料をこうも大量に持っている必要があるのかね? 一度その辺のことについてじっくりと話し合いたいところだが……」
 真人は顎に指を当て、少し考えると「む?」と唸った。
「まさか桜田門さん、この私を女性に改造しようなどと企んではいないだろうね?」
「バカなことを言わないでくれ、わしゃそんな趣味はないわい!」
「なるほど、それは良かった。もし私の予想が的中していたら桜田門さんのランクがまた下がるところだったよ、安心したまえ、今の発言で順位キープだよ」
「またって? 最近下がったの?」
「あぁ、ちなみに現在の私の中での桜田門さんのランクは、水上ボートの一つ下で、カマキリの一つ上になっている。何か文句があるかい?」
「……いろいろと言いたいことは山ほどあるが今はやめておくよ」
「ふむ。懸命なことだ」
 尊大な真人を尻目に、桜田門はゴホンと大げさに咳払いをしてみせた。
「杭瀬くん、悪いがお茶を入れてもらえるかね。茶葉ならそこの缶に入っとるから」
「この病院では患者を使い走りにするのかね、と言いたいところだが、ちょうどそこのポットに熱湯が貯まっているようなので気まぐれで入れてやらないこともない」
 と言って、真人は食器棚から湯呑みを二つ取り出した。
「……要するに、きみも飲みたいんだな」
 素直じゃないな、と思いながらも桜田門はそれをほほえましく思っていた。何故ならそれが真人の下手な感情表現だとわかるからである。お茶を入れることを嫌がらないということはお茶を飲めることを内心で喜んでいるのである。事実、この部屋の茶葉は高級な緑茶である。桜田門が以前、深夜に侵入した小学校の職員室にたまたま置いてあったものが、帰ってくると何故か上着の内ポケットに入っていたのである。桜田門はこれを、寒空の下わざわざ地域の治安維持のために小学校にまで赴いた自分に対する神様からの御褒美だとのたまったが、真人は、
「変態が何をトチ狂ったことを。さぁ、一緒に警察に行こう」
 と斬り捨てた。ところが、桜田門が持ち帰った緑茶を試しにと一口飲んだ途端、真人は桜田門ではなく茶葉を神と崇め、茶葉が底を尽きた時のために暇を見つけては次回の侵入計画を念入りに練ってくれている。
 そんな経緯もあって、この部屋で出る緑茶は真人のお気に入りだった。
「ところで、桜田門さん」
 お茶を入れながら、真人が背を向けたままで話しかけてくる。
「前々から一度訊こうと思っていたんだが……」
「なんじゃ? 看護婦のスリーサイズだったら一人につきこれじゃぞ」
 そういって桜田門は手のひらを広げる。五千円という意味だ。
「五百円では安すぎると思うが、今はそんなことが訊きたいのではない。残念だがまたの機会に払わせてもらうとするよ」
「いや、流石にそれは安すぎるじゃろう。と、それはともかく、なにかね、改まって?」
「ふむ」
 真人は淹れたてのお茶の片方を桜田門の机に置くと、散らかったソファを簡単にはたいてそこに座った。ずずず、と一口飲んでから言った。
「さっきもちらりと話題にのぼったが、桜田門さんは何故、私以外の患者を担当していないのだね?」
 桜田門は意外だという顔をした。それを見た上で、真人は続けた。
「私もこの病院に通うようになってから長い。見たところ、桜田門さんはここの医者では最年長のようだが、外科医としての腕ならば申し分ない。その、私を……救ってくれた」
 最後のほうは消え入りそうな声だった。昨年の冬のことを思い出したのだろう、拳は固く握られており、ともすればそれは震えているようにも見えた。
「……その桜田門さんが、何故、私のような患者だけを診ている? 病院側にも、桜田門さん自身にも、なんのメリットもないだろう、こんな……」
 真人は奥歯を噛み締めた。ぎり、という音が桜田門にまで聞こえた。
「こんな……腰抜けの患者の担当など……」
「ふぅむ……」
 真人の言うことはもっともだった。病院側からも、もっと多くの患者を持つように再三頼まれてはいるが、すべて断っている。
 だが、その理由を真人に言う必要は無い。自分の勝手な都合でそうしているのだから。いや、真人に言うわけにはいかなかった。
「……まぁ、わしにもいろいろと事情があるんじゃよ。若いうちにはわからないような、いろいろな、な」
「……」
 真人は桜田門の視線をずっと眺めていた。その視線は桜田門を逃がすまいとするようだった。だがやがて、表情をふっと緩めると、真人の顔に笑みがこぼれた。
「ははっ、時々、桜田門さんがうらやましくなるよ」
「うらやましい? こんな老人がか?」
「あぁ。年甲斐も無く余暇をいかがわしいゲームで二次元の美少女に尽くすような、こんな老人が、ね」
「なんかいい話のようで微妙にわしを全否定しとらんか、きみ?」
「そんなことはない。私は全力で桜田門さんが変態だと言っているに過ぎない。それを否定しているなどとは、心外なことだね?」
「なんで疑問系なんじゃ……」
 真人は桜田門を無視し、窓の外に目をやった。相変わらず薄暗く、今日は人通りも少なかった。
「……まぁ、桜田門さんが言いたくないと言うのなら、それでも構わないがね」
 そう言ってお茶をすする真人の表情は喜びと悲しみの入り混じったような、複雑なものだった。
「ふむぅ……それじゃ杭瀬くん、わしのほうからも質問させてもらっていいかね?」
「おや、桜田門さんから打診とは珍しい。なにかね? 私に答えられる範囲のものは勿論、答えられないものなら全身全霊を賭してでも回答を拒否させていただくことにするが」
 桜田門は「はっはっ」と笑って、湯呑みに残ったお茶をすべて飲み干すと、真人が次の一口を飲もうと湯呑みに口を付けた瞬間に言った。
「きみは、何をしにここに来たのかね?」

 ふいに言われたその一言は、真人の目を見開かせるには十分なものだった。
「きみは、何をしにここに来たのかね?」
 真人は湯呑みに口を付けたまま、凝固した。
 なぜだろう。
 真人は訊かれた言葉に対し、素直に自問してみようとした。だが、簡単には答えが見つからない。
 だから、
「何をって……それは、脚のリハビリに……」
 いつもの、言い訳を言っておいた。
「脚のリハビリか、そう言えば聞こえはいいんじゃがなぁ」
 桜田門は深くため息をついた。そして、一思いに言い放った。
「いいかげん、自分を偽るのも終わりにしてはどうじゃ?」
「――!」
 一瞬で、真人の頭に血が昇った。
「私は、偽ってなど……!」
「きみ自身はそう思っておるのかもしれんが、医者であるわしから言わせてもらえば、きみの脚はとうに治っている。現に今日も松葉杖もなしにここまで来たんじゃからな」
「だが、走ったり飛んだりなどという、激しい運動はまだ……」
「それが思い込みなのじゃよ。確かにいざ走り出してみると脚に激痛が走るだろう。きみの言っていることは本当のことだ」
 真人には桜田門の言おうとしていることがわからなかった。自分の何が間違っているのかが。だから、間抜けな疑問を口にすることしかできなかった。
「……どういう、意味だい?」
「……だがなぁ」
 桜田門の声のトーンが急に変わった。
 真人がわずかに驚いて目を点にしていると、桜田門は「はっはっは」と笑って、飲み終わったお茶のおかわりを自分で酌みに立った。
「……」
「……」
 お茶を汲み終わると桜田門は真人のほうを向いた。
「おかわりはいるか?」
「……もらおう」
 とだけ言って、湯呑みを手渡した。
 桜田門の意図がわからない。彼は何を言おうとしたのだろう。真人は自分の疑問に対する回答をじっと待った。
「……」
「……」
 真人に二杯目のお茶を手渡すと、桜田門は自分の席に戻って再びお茶をすすり始めた。
 その雰囲気は、すでにさきほどまでの険しい真剣なものから、いつもの陽気な変態老人のものへと変わっていた。
「……」
「……」
 桜田門は新聞を手に取り読み始めた。真人はそれを凝視。
 そんな状態が、たっぷりと十分は続いた。そしてようやく痺れを切らした真人が口を開いた。
「……桜田門さん」
「ん?」
「ん? ではない。何か私に言うことはないのかい?」
「ふむ。あぁ、そうだそうだ、きみ、今週のレースは五番の一点買いでいいと思うかね?」
「そういうことではない。ついでに言うと、今日の晩御飯のおかずも、明日の弁当の材料の買出しの是非も、私に訊かれても困る。そういうことは奥さんに電話して訊きたまえ」
「冷たいなあ、杭瀬くんは」
「そこまで白々しいとなんだかムカつきを通り越して晴れ晴れとしてくるね」
「ほうそうかそうか、それはわしとしても嬉しいなあ、患者が晴れ晴れしてくれるとな」
「ただ、私が晴れ晴れとするためにはもう一つだけ鍵が足りないのだよ」
「注文の多い患者じゃのぅ」
「ケア不足だと反省したまえ。さあ、聞かせてもらおうか、桜田門さん。私が、私に、何を、偽っているのかを」
「やっぱりそのことだわなぁ」
「あたりまえだな」
「正直な……」
 桜田門が声を落とした。どうやら真面目に答える気になったらしい。
「正直、迷っとるんじゃよ」
「迷う? 一体、何を迷う必要があるのかね?」
「ふむ……きみには、言うべきじゃないことなのかもしれんのだよ」
「私には、言うべきではない? それは、私に関することなのに、かい?」
 真人は問うた。誰よりも信頼を置いている医者だからこそ、何でも隠さずに話して欲しい。それを、何故隠す必要があるのか、真人には理解できなかった。
 しかし、桜田門は頭を縦に振った。
「ふむ。きみに関することだからこそ、だな」
「……それは」
「きみのことを思ってのことだ。わかってくれぃ」
「……」
 わからない。どうわかれと言うのだ。
 長い間、信頼を置いてきた桜田門をこれしきのことで軽蔑するわけではないが、真人の中で、桜田門を信頼することによって得ていた安心感が今、揺らいでいた。
「……私は」
 真人は、ただ思ったことを口に出していた。
「過去に私の身に起こったこと、今、私が置かれている状況」
 真っ白な頭では、それしかできないから。
「そして未来において、私が出くわすであろう出来事。そのすべてを、ありのままに受け入れる。それができてこその私だ。それができる私もすべて含めて今の私だ。それができない私は、今の私には要らない」
 真人は桜田門をまっすぐに見て言った。それが、一年前から変わらずに自分を信じ、診てくれた者に対する誠意だと、確信しながら。
 それに対し桜田門は、一度真人と視線を交わすと深く目を閉じ、ふたたびゆっくりと開いた。その瞳に真人は、自分の知らない、今までに見たことがない様々な光が存在するように思えた。
「そうだな、きみに対してこのような気遣いは不要だったのかもしれん。じゃが、今はやはり言えんのじゃ、わしにも踏ん切りがつかんでな」
 桜田門はしゃしゃしゃと笑う。
「年をとるとな、何事にも慎重に、用心深くなってしまうんじゃよ。きみのように真っ直ぐに生きたいとは思うんじゃがね」
 その言葉を聞いて、真人は自分の中にあったわだかまりがわずかに消えるのを感じた。少なくとも、真実を言ってくれないのは真人に原因があるわけではなく、桜田門本人の問題なのだと、自分に言い聞かせ納得させることができた。
 ありがとう、友よ。
 真人は心の中で礼を言った。
「もう少し、やわらかくなるといいじゃろう」
 ふいに、桜田門の声が聞こえた。
「やわらかさ、きみに足りないのは、多分そこじゃ」
「やわらかさ? 柔軟性には自信があるつもりだが」
 そう言って、真人は左足を背中の後ろを通して顎に付けてみせた。
「いや、それは軟体動物並みのやわらかさじゃろ! そういうことじゃなくて、ここじゃよ、ここ」
 桜田門は律儀にもツッコみつつ、自分のこめかみを指差した。
「ロシアンルーレットかね?」
「杭瀬くん、きみというやつは……」
「ああいや、冗談を言い過ぎた私が悪かった。話を続けてくれ」
「ほぅ。きみでも他人に謝ることがあるんじゃな。新発見じゃ」
「私は今馬鹿にされているのかね?」
「そういうわけではない。いいかね、杭瀬くん。きみに必要なのは、わしによると、考え方の柔軟性じゃ」
「ほぅ。それはつまり、私が頑固な人間だと言いたいのかね?」
「まさにそのとおりじゃ。きみは自分の考えかたに固執しすぎるきらいがある。そこがなくなれば、今よりももっと生き方が広がるはずじゃ」
「それをすることに何か意味はあるのかね?」
「あるとも。今よりもできることが……ああいや、やることが増える、確実にな」
「?」
 真人は、桜田門の言い回しに若干の違和感を覚えた。だが、些細なことは気にしないことにした。
「ふむ、わかった。忠告はありがたくいただいておこう。今後の参考にするか否かは別として」
「それでいいよ、それでこそ、きみだ。きみはきみをなくすことなく、ありのままのきみをうけいれたうえできみでいてくれ」
「桜田門さん、平仮名が多いのだが、痴呆かね?」
「脳内で勝手に変換すればいいじゃろうが」
 こんな調子で会話が二十分ほど続いただろうか、桜田門はきりのいいところで話を切り上げて、そわそわと立ち上がった。
「どうしたのだい? まさか、私がさっき茶葉に入れた下剤が効いてきたのかね?」
「そんなことをしたのか、きみ!?」
「うむ、ちょうど新しく手に入った薬品の効果を試したくてね、反応がわかりやすい被験者がいると助かる」
「医者の前でなんてことを……むむ、むおあああおおおぅぅぅぅぅぅ」
 よくわからない叫び声を残しながら、桜田門は便所へと消えていった。部屋には真人だけが取り残された。
「さて、と」
 ソファから立ち上がる。
「今日はこのくらいで切り上げるとしようか」
 真人は自分で調合した解毒剤を机の上に置いて、部屋を立ち去った。もちろん、傘立てに一本しか残っていない傘を持って。



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