第三章 報せの雨

「はぁ……」
 どうしよう、と背の高い少女はつぶやいた。
 平日の午前中だというのに私服姿のこの少女は、百八十はあるだろう背の高さのおかげで社会人に見えなくもないが、細い体やその仕草は、まだあどけなさの残る高校生のものだった。
 少女、石屋川桜(いしやがわさくら)は、今日、学校を欠席して、ここ――札幌病院――に来ていた。
「本当に、どうしよう」
 はぁ、とため息をつく。
 病院前で立ち往生を始めてから小一時間が経つ。
 行くべきか、行かざるべきか。
 こうして病院まで来ているのだから行くべきだと思っているのは自分でもわかっている。でもどうしても踏ん切りがつかなかった。
 だって、病院は怖い。何度か行ったことはあるが、そのたびによくわからない説明をされてなし崩し的に注射されて気分が良くなるどころか眠くなってるのに高額なお金を払わされるのだ。そのため桜は、医者はおいしい職業だとは思うが、世話にはなりたくないと思っていた。
「こんなとき、椿がいてくれたらなぁ。あの子、物怖じしないから」
 目を閉じてうなだれていると、突然、額に衝撃が来た。ごちん、と音が頭に響く。
 とっさに顔を上げてみると、わりと正装した、自分よりも背が少しだけ低い、それでも平均よりは高いであろう男性の顔があった。青いサングラスをかけていて目は見えないが、固そうなひげが伸びているところを見るとおそらく自分よりも年上だろうか、その男は口をぽかんと開けてこちらを見ている。
 背の高い女の子だと思って驚いているのかな。恥ずかしい。
「あ、あの……」
 桜が声をかけると、男ははっとしたように右手でサングラスを直し、鼻が触れそうだった二人の間に距離をとった。
「すみません、私、こんな通路の真ん中でボーっとしてて……」
「ああいや、こちらこそ傘がなかなか開かなくて前方不注意だったよ。まったく、あのエロ老人は傘の手入れもしていないというのか……。ん、ところで、怪我はないかい?」
 ぶつぶつ老人とか言っていたが、それは桜には聞き取れなかった。だがそれ以上に桜には『傘』という単語が気になった。
「え、雨? 降ってるんですか?」
「……ん、ああ。見たまえ」
 男は桜の後方、病院前から続く街を指差した。
「ちょうど降り始めのようだね」
 男の言葉を聞きながら、桜は空を見る。灰色一色だった。これは長く降りそうだ。
 どうしよう、と思った。朝起きてから病院に行かなきゃと思うことで頭がいっぱいで、天気予報の確認なんかしていなかったのだ。
「そういえば、君は」
「あ、はいっ!」
 背後にまだ男がいたことに驚いて声が裏返ってしまった。男はそれに驚くと、申し訳なさそうに言った。
「す、すまない、驚かせてしまって。確か君は、一時間ほど前にもここにいた気がするのだが。私がここに来たときに」
「え、あ、はい。私……」
「見たところ高校生のようだが。この病院に用があるのかね? それとも、平日の午前様から堂々とサボりかね?」
「いや、違うんです。その……病院に来たんですけど」
「なら、早く中に入るといい。残念ながら私はただの患者だから、君の力にはなれそうにない」
「あ、でも……」
 桜は言い淀んだ。
 ここで行くべきか、行かざるべきか。
「やっぱり……病院はいいです」
「……そうか。きっと、なにか事情があるんだろうね」
 男は深く追求はしなかった。そのことが桜には嬉しかった。
「さて」
 と、男は続けた。
「徐々に雨が強くなりつつあるが」
「あっ!」
「どうやら君は傘を持っていないようだね」
「は、はい……」
「というか君はこれからどうするんだい?」
「……」
「学校には、行かないのかい?」
「行きます。けど、今日はすでに欠席届を出しているので、午後から部活だけですけど」
 男はそうか、と軽く息を吐いた。
「ところで、君。朝食は摂ったかね?」
「え?」
 予想外の質問をされて、戸惑う桜。そんな桜を気遣うように、男は笑いながら話してくれる。
「あ、いや、食べてませんけど」
「それはいけないな。朝食は一日のエネルギー源だ。これを摂っていないと、無為に一日を過ごしてしまう可能性が高い。……と、かくいう私も摂っていないのが現状だ。どうかね? これから少し遅い朝食を摂りに行くというのは」
 あまりに話の展開が速すぎて桜はついていけていない。
 つまり、食事に誘われてる?
 桜は思った。男性から食事のお誘いなんて初めてだ。
「あ、あの、えと」
「ちょうど私は車で来ていてね。君は傘を持っていないようだから、雨に濡れずに済むし、ゆっくりと昼食も兼ねて食事を摂ればその後で学校へ送り届けることもできる。私のことなら気にしなくてもいい、なにせ今日は暇でね」
 ここまで親切にしてくれるこの人の好意を、無碍に断ってしまうのは失礼な気がした。だから桜は控えめにこくんとうなづいた。
 その仕草に、男はようやく視線を下に向けた。
 そして、思い出したように付け加えた。
「申し遅れたね、私は杭瀬。杭瀬真人だ。さ、どうぞ助手席へ」
「あ、はい」
 杭瀬と名乗った男に車に招き入れられながら、今聞いた名前を頭の中で反芻する。
 杭瀬、杭瀬、杭瀬……真人……。
 ……?
 まさか。
 桜の記憶の中で、杭瀬という名前と車の持ち主が一致した。

 車のエンジン音が遠ざかっていく。
 耳が隠れるほどの長い白髪の老人、桜田門は今日二本目の缶コーヒーをちびちびと飲みながらその様子を眺めていた。
 一時間以上前から病院のドアの前でおろおろとしていた挙動不審な長身の娘と、それよりも少し背の低い、サングラスをかけた自分の患者が同じ車に乗り込む一部始終を、桜田門はロビーから見守っていた。
「ははは、やはりなぁ」
 にやにやと笑いながらコーヒーを飲む桜田門の近くを通った看護婦が声をかける。
「あら、桜田門先生。患者さんはもうお帰りになられたんですか?」
 桜田門の白衣を洗いに行った、かおりと呼ばれた看護婦だ。
「おや、かおりちゃんか。今日はよくここで会うのぉ」
「ロビーでうろうろしている医者なんて先生ぐらいですから」
 桜田門はこりゃ参った、と言わんばかりに残ったコーヒーを頭から被った。
「さて、わしの白衣はもう乾いておるかね?」
「一時間で乾くわけないじゃないですか。夕方ごろに取りに来てください。それと変な色の医者がいると噂が立ったら困りますからあっちの人気が少ない通路を使って遠回りをして自室に戻るようにお願いします」
「古伊万里マスカラ?」
「はぁ?」
「最近、かおりちゃんがわしに冷たい気がするんじゃが……」
「安心してください、私だけでなくナースステーションの看護婦全員が、ですから」
「うわー、笑顔で言われるとなんだか腹が立ってきたぞー」
「まぁまぁ戯言はそれぐらいにして……ん?」
 ふと病院の外を見た看護婦が意外そうに声を上げた。
「あら、さっきの女の子、帰ったのかしら」
「あぁ、あの子なら、もうおらんよ。どこかへ行きよった」
「結局、誰だったんでしょうか」
「さぁなぁ……じゃが、同じ目をしておったなぁ。やはり似たもの同士は引き合うのかなぁ」
「同じ目?」
「わしの患者の杭瀬くんがな、あんな目をしておったんじゃ」
 桜田門は昨年のことを思い出す。
 わらにもすがるような思いで、しかし決して絶望してはいない強い目を持って自分を訪ねてきた真人を。
 自分も若いころはあんな目をしていたんだろうか。あんな目をしていられたんだろうか。
 若さとは力だ。若さとは可能性だと思う。だからこそ、真人にも、そしてあの長身の少女にも、何も諦めて欲しくはない。どんな壁にぶち当たろうとも、決して屈せずに立ち向かって言って欲しいものだ。せめて、
「わしのようにだけは、ならないで欲しいものだなぁ」
 桜田門のつぶやきは看護婦の耳に届かない。
 看護婦はところで、と話を変えて、
「杭瀬さんですけど、一体あの方は何をしに毎日ここに来ているのですか?」
「何って、きみ。そりゃリハビリじゃよ」
「リハビリって……何の、ですか? 先生はいつも、ご自分の患者のカルテを見せてくれませんから」
「すまんのぉ、ちょっとした事情があってなぁ」
 真人は病院内では元バレーボール日本代表チームという正体を隠している。だからこそサングラスをかけてささやかな変装をしているのだ。桜田門は真人のカルテを、他の医者や看護婦には絶対に見せないようにしている。自分から院長にそう申し出て許可までもらったのだ。
 桜田門は、当時の真人の姿を思い浮かべた。
「彼の、怪我は、もうとっくに治っているんじゃがな」
「じゃあ、どこが悪いんですか?」
 看護婦の疑問に、桜田門は表情を消して応えた。
「あれはな……心のリハビリが必要なんじゃよ」



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