第四章 青き桜

「そういえば、きみの名前をまだ聞いていなかったね。もしよければ、教えてもらえるかね?」
 病院の近くのファミレスに入り、二人分の注文を済ませた真人は、連れの女の子に何か話しかけようとし、まだ名前を知らないことに気付いてそう言った。
 だが訊かれた少女は緊張のためか完全に固まっていた。それを勘違いしたのか、真人はあわてて、
「む、やはりこんな場末のファミレスでは不満だったかね、近くて便利だと思ったのだがとんだ失態であった。今後は気をつけるので許して欲しい。それとも、今注文した兎はもしかして苦手かね? ならば今すぐに注文の変更を申し入れて来よう。こちらのムササビで良いかね?」
 などとまくしたてたので、少女は我にかえった。
「あ、いえそんなっ、ちょっと緊張しちゃってただけで。ウ、兎、私大好きですから!」
 少女の声も、真人に負けないぐらいにあわてた様子だった。その様子に、真人はほっとした。
「そうか、それならよかったよ。ここは注文を受けてから料理が出てくるまでが速いんだ。すぐに出来上がると思うから、楽しみにしていたまえ」
「は、はい」
 それにしても、と少女は思う。
 未だに自分が置かれた状況が信じられないでいた。真人に見つからないようにこっそりと頬でもつまんでみようかと思う。しかしそれで痛くなかったら嫌なのでやめておくことにした。
 そんなことをしなくてもこれが現実なのは当たり前なのだ。家を出て病院へ行くときの葛藤や病院の前でいろいろ考えたあの感覚が夢や妄想であるなどとは思えなかった。今、目が覚めるとそこは教室で、驚いて立ち上がって変なことを口走ってしまって、クラスのみんなの爆笑や先生の苦笑に囲まれたとしても、少女はそちらのほうを夢か何かだと思うだろう。今、少女は信じられないが非常に現実感のある状況にあった。
 そんなことを考えているうちに店員が兎を運んできた。赤々とした肉汁が食欲を駆り立てる。
「うわぁ……おいしそう」
 少女が正直な感想を漏らすのを見て、真人ははっはっはと笑い、
「よほど空腹だったようだね。遠慮なく食べてもらってかまわないよ。なに、勘定のことなら気にする必要はない。私には、どこぞのしがない探偵から脅し取った大金がまだ山のように残っているのでね」
「は、はぁ……」
 なにやら聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がしたので、少女はそのことについてつっこもうとはしなかった。
 そして兎を斬り、フォークで突き刺し、口に運び込もうとしたそのとき、
「あ」
 少女はあることに思い至った。
 真人もそれに気付き、何事かと少女を見る。
「どうしたのかね?」
「あのっ、そういえば私、まだ名前を……」
 緊張していたとはいえ、名前を訊かれて無視してしまっていたことに今更ながらに気付いたのだ。
「あの、私、石屋川といいます。下の名前は桜です」
「石屋川……?」
 真人は桜の苗字を反芻した。
「どうしたんですか?」
 桜が首をかしげる。
「あぁいや、ちょっと知り合いにそんな苗字の人がいたものだからね」
「そうなんですか。石屋川っていう苗字はそんなにいないと思っていたんですけど、意外とたくさんいるのかな?」
「はは、どうだろうね」
 まさかな……。
 真人は頭に浮かんだ可能性を否定した。そうそう偶然なんて起こるものではない、と。
「あの、ところで……」
「?」
 桜はうつむいて何かを言い淀んでいたが、やがて意を決したように顔を上げると言いにくそうに言った。
「杭瀬さんは……あの杭瀬真人さんなんですか?」

 真人は、目をぱちくりさせた。青いサングラスはかけたままだったので、桜にはそれがわからなかっただろうが。
 桜の質問に驚いていた。というより、質問の意味がさっぱりわからなかった。
 杭瀬真人は、杭瀬真人か、だと?
 自分の名前なら車に乗る前に言ったはずだ。なのにそれを再度問いただされている。もしかして信用されていないのだろうか……確かにこんな胡散臭い男を信用する女子高生などいないのかもしれないが。
 真人が疑心暗鬼になっていると、それが表情にも出ていたらしく、
「あ、あのっ、すみませんっ、あのっ」
 桜が心配そうに言った。
 それにしても、と真人は思った。「あのっ」とよく言う子だな。
 真人は気を取り直して左手の中指でサングラスを直した。
「ふむ、取り乱して申し訳なかった。だが、質問の意味をいささか計りかねるのだが。私が私かというのはどういうことかね?」
 真人は努めて柔らかく言ったつもりだった。桜は背は高いが性格のほうはおそらく気弱そうだ。すごんで泣かれでもしたらこんな人目につく場所だ、警察を呼ばれかねない。ただでさえ、三十近い大人と女子高生という、奇妙な取り合わせなのだから、誤解を招いたとしてもそれは仕方のないことだ。
 そう考えた真人は、ふと奇妙な感覚を覚えた。しかし、その感覚の正体を掴むほどの余裕はなかった。桜の返答があったからだ。
「え、ああ、あのっ、すみません。訊き方が悪かったです。私が訊きたかったのは、その……あなたが、バレーボールをやっていた杭瀬真人さんかどうかで……」
 そこまで言ってもらって、真人はようやく桜の言わんとしている事がわかった。
 なるほどな、と真人は思った。ボクシング時代はともかく、バレーボールの世界大会は全国放送されていた。真人自身に実感はないのだが、世間では真人はそれなりの有名人らしいのだ。ならば真人の名前を聞いてはっとする人がいてもおかしくはない。
「そうか、それが訊きたかったのだね」
 そう前置くと、真人はサングラスをはずし、素顔を桜に見せた。
「そのとおりだよ。私は、紛れもなく、きみの知っているであろう杭瀬真人だ」
「……」
「……」
 二人の間に、奇妙な沈黙が生まれた。
 真人は胸の前にサングラスを持ったまま、ただ桜を見ている。
 対する桜は、口を半開きにして、頬を朱に染めて真人を見ている。
 真人には意識してやったつもりはないのだが、サングラスをはずし、改めて自己紹介をする真人の一連の動作は、非常に決まっていた。それが真人のファンである桜に対してなら、なおのこと効果は絶大だった。
「あっ」
 桜がはっと我に返り、今度は恥ずかしそうにうつむいてしまった。
「あのっ、すみません……私、杭瀬さんに憧れていたので、つい見とれてしまって……」
 憧れていた、ということは過去形である。それも当然だ。真人はすでに引退しているのだから。
「私に憧れていたということは、きみもバレーボールを?」
「はいっ!」
 真人がバレーボールという単語を口にした途端、桜の目が輝きだした。真人とバレーに関して話ができるのが相当嬉しいのだろう。
「私、里見山高校のバレー部なんです。あのっ、中学のころからバレーやってて……」
 意気揚々と話す桜。こんな笑顔もできたんだなと変なところに感心する真人。
「それで、でも、最近……」
 しかし、だんだんと桜の口調が沈んできた。そしてついに、黙り込んでしまった。
「どうしたのかね?」
「いえ、あの……ちょっと訊きたい事があるんですけど、いいですか?」
 控えめな口調に逆戻り。真人は軽く息を吐いて、
「もちろんだとも。私に答えられることならば、ね」
 そう言うと、桜はしばらく逡巡して、やがて口を開いた。
「あのっ、実は……」
 だが、その言葉をさえぎるものがあった。
「あれぇ? 桜、あんたこんなところでなにやってんのぉ?」
 その声は、真人の背後から響いた。
 声に反応して、真人は後ろを向いた。
 そこには、女性が立っていた。女性は真人を見るや、指差して叫んだ。
「って真人じゃない! やっぱここにいたのね!」
 真人は名前を呼ばれて驚いた。女性の顔を見てさらに驚き、そして、
「お姉ちゃん!?」
 桜の一言で、余計に驚いた。

 女性は真人たちと同席した。真人の正面には、桜とその姉が座っている。
「で、楓。きみが一体なぜこんなところにいるのかね?」
 真人が訝しげに訊いた。正直、真人は彼女の事が苦手であった。自分の過去を色々と知っている人物であるから。
 楓と呼ばれた桜の姉は、さも当然のように真人のコーヒーを飲んで答えた。
「そーゆーあんたこそ、なんであたしの妹連れてこんなところにいるわけ?」
 真人はふぅ、と息をついてこめかみを押さえた。
「変わらないな、きみは。年上に対するその口の利き方はなんとかならないのかね?」
「あら、元恋人に随分と冷たいこと言うのね」
 そう言う楓は何故か笑顔だった。
「えええええ!?」
 突然、絶叫を上げたのは桜だ。真人も楓も、飛びのくほどに驚いていた。だがしかし桜はそんなこと気にも留めていない。
「お、お姉ちゃん、杭瀬さんと……?」
「付き合ってたのよ、もう一年以上前になるけどね」
 一年前。それは真人の引退時期と重なる。
 桜は思う。引退した理由と、何か関係があるのだろうか。
「そういえば」
 真人が切り出した。
「楓、きみも引退したと噂で聞いたが、本当なのかね?」
「ええ、本当よ。今はこの子の高校で監督やってるわ」
「ほう、きみが監督をね」
 真人は楓をまじまじと見た。楓はかつての全日本女子バレーのメンバーである。そして二人は短い間ではあったが、付き合っていた。
「実は今日はそのことであんたに話があって来たんだけど……」
 楓は話の矛先を桜へと向けた。
「桜。なんであんたがここにいるのかしらぁ? 学校はどぉしたの?」
 そう言う楓は何故か笑顔だった。
「え、あの、えっとね、お姉ちゃん……」
 桜は何か言いたそうに、言いにくそうにもじもじとしている。
 痺れを切らした楓は、いきなり怒り出した。
「どういういきさつでこいつとこんなところで食事してるのか知らないけど、学生の本分は勉強でしょ! ほら、今すぐ学校に行きなさい!」
「は、はい!」
 もの凄い剣幕で迫られ、桜はただただうなづくだけだった。
「楓。食事には、私が誘ったんだ」
 桜を少しでもかばおうと、真人が言ったが、楓は再び笑顔に戻り、真人に向き直った。
「あらそう。じゃ、私はそのことについても含めてこのおっさんとゆ〜っくりお話しなきゃいけないから、桜は早く学校に行くこと。いいわね?」
「ははははい!」
 桜はあわてて荷物を持つと、席を立って、真人の前に立った。
「あのっ、真人さん。その……お食事、ありがとうございました。しがない探偵さんにも、よろしく伝えてください。では、失礼しますっ」
「あぁ、きみ、ちょっと待ちたまえ」
「え?」
 桜が立ち止まる。真人は椅子の横に立てかけておいた傘をきれいにたたんで手渡した。
「これを使いたまえ。見たところさっきよりも弱くなっているからじきに止むだろうがね。だが濡れるのはよくない」
「え、でも……」
 桜が楓をちらりと見る。
「あたしら車だから気にしなくてもいいわよ」
「そういうことだ。それにこの傘は私のものではない。気にしないで受け取りたまえ」
 そのほうが問題ではなかろうか、と思ったが桜は気にしないことにした。
「あのっ、ありがとうございます。それじゃあ」
 ばっ、とまくし立てて頭を下げると、桜は楓の顔を見ないようにして店を出て行った。
「しがない探偵って何よ?」
 真人は楓に向き直ると、改めてこめかみを押さえて深い深いため息をついた。
「で、話を元に戻すが」
 未だに真人のコーヒーから手を離さない楓に、真人はそう切り出した。
「何故、きみがここにいるのかね? 確かきみが住んでいるのは釧路だったと記憶しているが」
「越して来たのよ、仕事でね」
「仕事? さっき言っていた、監督というやつかね?」
「そうよ。その件で、あなたに話があってここに来たの」
 ふむ。確かさっきもそんなことを言っていたような気がする。
「では聞こうではないか。その話とやらを」
「じゃあ手短に話すけど。あなたに里見山高校バレー部の監督をやって欲しいの」
「監督? きみがやっているのではなかったのかね」
「私は男子部の監督よ。女子部の監督が先月生徒へのセクハラで辞職しちゃってね。新しい監督を探してくれって幸島のジジイに頼まれちゃって」
「誰かねそれは?」
「あぁ、幸島ってのはうちの教頭」
 教頭に対してジジイなどと言っていいものだろうか、と真人は思う。
「まぁあんたがあのエロ医者んとこ通ってるのは知ってたから、まずそっち当たってみたら、多分ここに来てるだろうって、あんなエロジジイでもたまには役に立つものね」
「で、」
 真人は新しく運ばれてきたコーヒーをすすり、
「何故、私なのかね?」
 当然の疑問を口にした。



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