第五章 泳ぐ右手

「何故って、理由は色々あるけど」
 楓はそう答えて、真人がまだ一口しか飲んでいないコーヒーを取り上げ飲み干した。
「では一つ一つその理由を挙げていってもらえるかね」
「めんどいなぁもう」
「私にとっては重要なことだと思うのだが」
「うわなにそれあたしの意見は無視? いいもん、そんな風に冷たく接するんだったら、あたしにも考えがあるわよ」
 そう言って、楓はにやっと笑みを浮かべた。
 あ。
 真人は悪寒を感じた。楓がこういう顔をするときは、十中八九ろくなことにならない。今回も、真人の勘は当たっていた。
「桜。あの子、あんたのファンだもんねぇ。こういうこと言ったらショック受けるわよぉ」
「どういうことかね?」
「あんたが昔の恋人である私の姿を娘の桜に重ねてる、とか。つうか三十近くのおっさんのクセに女子高生に手出すロリコン、とか」
「ちょっと待ってもらおう。拒否は許さない。ロリコンかどうかはともかく、きみの姿を重ねるというのは絶対にありえない」
「てことはロリコンなのね」
「それについても全力で否定させてもらう」
「じゃあなんで桜を食事に誘った?」
「む……」
 考えて、真人は思い出した。桜と話していたときの、奇妙な感覚を。あれがなんなのかは今でもわからないが、決して心地の悪いものではなかった。むしろ、安心できるような、そんな感じだった。
 真人が考え込んでいると、楓は深くため息をついて、
「あんた、真性ねぇ」
 などとのたまった。
「まぁ、お互いの了解があれば私は否定しないけどね」
「何の話かね?」
「あんたの話よ。で、監督やるの? やらないの?」
「うぅむ。今までの話の流れからすると、私に拒否権はないように思えてしまうのだが」
「わかってんじゃないの。流石のあんたも、女を楯に脅せば必ず堕ちると思ってたわ。桜には感謝しないとね」
「いや、何もわかっていないと思うのだがね」
「まぁまぁ、監督になれば給料ももらえるんだし。どうせあんた今プーでしょ?」
「収入源はあるのだがね。職はない」
「問題のある発言のような気もするけど、引き受けてくれるみたいだし見逃すことにしましょうか」
 楓はさて、とテーブルを立った。
「もうすぐ部活の時間ね。じゃこれから早速、里見山高校に行きましょか。部員に挨拶しておかないとね」
「その前に、私を選んだ理由を聞かせてもらいたいのだが」
「あ、そうね。引き受けてくれたんだし、もう教えてもいいかな」
 軽い口だな、と思ったが、真人の口は固い。
「まず一つ目に、あんたに社会復帰の機会を作ってあげようと思って」
「いきなり一つ目にそれとは、私に失礼ではないかね」
 楓は真人の反論を無視した。
「そして二つ目に、あんたのバレーボールの確かな実力。これは否定のしようがないわ。あんたなら、しっかりと教えられると思う」
 真人はふむ、と腕を組んだ。そう言われて嬉しくないはずもないが、いささか複雑な心境だった。真人自身はもう、バレーができないと思っているのだから。
「最後に、あんた、見た目はカッコイイから」
「む」
 最後の理由には、違和感を覚えた。
「それと監督に、なんの関係があるのかね?」
「相手は高校生の女の子よ。あんたがロリコンかどうかはさておき、彼女らもカッコイイ男から教わるほうが嬉しいでしょ」
「むぅ……そういうものかね」
 まぁ女性が言うことだからそうなのだろう、と納得しておくことにした。
「じゃさっさと行きましょう。練習始まるわよ」
「にしてもいきなりではないかね。私は監督業などやったことはないがそれでもいいのかね」
「いいのいいの。あんたのやり方で適当に教えてやってよ。うち弱いから」
「里見山高校だったか。私は高校バレーはよく知らないが、そんなに弱いのかね?」
「昔、一度だけ全国で準優勝した事があるらしいけど、何十年も前の話よ。ま、詳しい話はまた今度。早く行くわよ!」
 楓はそう言って先に店を出て行ってしまった。結局、楓のために頼んだコーヒー代も真人が払うことになった。

 因果なものだ、と真人は思う。
 先導してくれている前の楓の車を見失わないように追いかける。楓の運転は信号をすべて無視している。というかそもそも道路を走ってすらいない。
 牧場の柵をぶち破りながら真人は思う。もう二度とバレーボールとは関わらないと思っていた一年前。あのときの思いは決して嘘ではなかったはずだ。しかし監督とはいえ、自分はまたもバレーボールに携わろうとしている。半ば脅迫でもあったが、この胸は確かに高鳴っている。バレーを離れて一年、なおも真人は、バレーが好きだったのだ。
「バレーが好き、か」
 口に出してみて、改めて実感する。
 ふと、桜と話していたときの奇妙な感覚を思い出す。
 もしかしたら自分は、バレーボールに引き寄せられているのかもしれない。いくら離れても、何らかの立場で、また関わるようにと。
 桜のことを考えると、楓の不気味な笑顔が浮かんできた。自分のせいで桜が怒られてしまったのだ。あとで誤解を解いておかないといけない。しかし一体何が誤解だというのだろうか。真人は考えないことにした。
 ハンドルを握る右手に力が入る。ボールを叩くことはなくなったが、監督としてこの腕を振るうのも悪くはないかもしれない、そう考えていた。



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