第六章 飛ばぬ椿

 場所は里見山高校のグラウンド。たった今授業が終わったところで、六時間目をサボった運動部員たちがちらほらと見え始めている。
 少女――石屋川椿(いしやがわ・つばき)――は、会議室の窓からグラウンドに飛び降りた。会議室は二階だったが、椿の運動能力を持ってすればこれぐらいのことは容易い。何よりも、椿は体重が驚くほど軽く、その身もかなり小柄だ。身長は百四十あるかないかといったところ。
 彼女もまた、六時間目をサボった運動部員の一人である。陸上部の一年がせっせとハードルを並べるのを横目にして、自分も部活へ急ごうと体育館へ足を向ける。
 椿はバレー部の一年生だ。里見山高校のバレー部には三年生はおらず、二年生が三人、一年生が六人という少人数構成となっている。ただ部員が少ないだけと言ってしまえばそれまでなのだが。
 椿たち一年生はコートの設置という仕事があるため、二年生よりも早く体育館へ行かなければならない。とはいえ、監督のいない今、女子部にはその決まりを守っている一年生は椿を含めて二人しかいない。
 これじゃ来月あたりには無法地帯ね、と椿は思う。男子部の監督である姉が女子部の監督を探していると聞いたが、できるだけ早く見つけてきてもらいたいものだ。でないと、女子部はまとまりがなくなって部活すらままならなくなってしまう。
 椿がバレー部の未来を案じながら体育館へ向かって歩いていると、ふと校門前に車が二台停まるのが見えた。そこから出てきたのは男と女だった。
「……お姉ちゃん?」
 女のほうは自分の姉だった。今年の春からここ里美山高校男子バレー部の監督をやっている。男のほうは……サングラスをかけていたので顔はよく見えなかったが、少なくとも知り合いではなさそうだった。  二人は何か話しながら、校舎内へと消えていった。
 姉は女子部の監督を探していた。その姉が、部活の始まる時間に合わせて校外から誰か連れてきた。ということは……。
 ついに監督が見つかったのかな。椿は淡い期待を抱いた。
 体育館へ向かう足取りが軽くなったところで、またも校門に知った姿を確認した。
「……お姉、ちゃん?」
 そこにいたのは姉だった。姉といっても男子部の監督をやっている姉ではない。女子バレー部の先輩である姉だ。走って来たらしく、ぜぇぜぇと肩で息をしている。
 なんであの人があんなところにいるのだろう。
 朝、家を出たのは椿のほうが先だったが、その後あの人は一体どこで何をやっていたんだろうか。
 そんなことを考えると、椿はだんだん腹が立ってきた。ただでさえ女子バレー部は今ややこしい状況になっていてめちゃくちゃなのに、二年生である姉までもがそれに拍車をかけるつもりなのだろうか。
 妹・椿は、姉・桜のことが嫌いだった。
 二人の共通の姉である楓は全日本女子バレーの選手だった。当たり前のように二人とも楓に憧れ、当たり前のように二人ともバレーを始めた。だが、二人は何もかもが違っていた。
 それは身体的特徴だ。
 桜は百八十を越える背を持ち、バレー部の中でも最も背が高い。反面、椿は百四十程度の背。どちらがバレーボールに向いているかは一目瞭然である。
 自分はバレーがやりたい。しかし、自分にはバレーの才能は与えられなかった。でもそんなことで諦められるほど、椿は素直な人間ではなかった。
 二人は別々の中学に通っていたが、高校は家の事情で二人とも里見山高校に進学した。桜は中学時代もその背の高さで楽々レギュラーを獲得したが、椿は三年間ベンチを暖めているだけだった。
 椿だってわかっている。こんな低い身長じゃ、使ってはもらえないと。だから椿は人一倍の努力をしてきた。努力している姿を他人に見られるのを嫌う椿は、練習のし過ぎで体調を崩し学校を無断欠席したりし、周囲から不良だと思われることもあった。しかし椿はそんなこと気にもしていなかった。
 バレーができるならそれでいい。これぐらいの努力で背が高いだけの人間と張り合えるならそれでもいい。と椿は思っていた。
 だが桜は背が高いだけの人間とは違っていた。彼女は努力をしていた。椿にも負けないくらいの。
 同じ努力をしていてこの身長差。ならば、椿は桜に勝てようはずもないのだった。姉にはバレーの才能があって自分にはない。なのに、姉は自分と同じだけの努力をしている。だから椿は、桜を嫌っていた。
 息の落ち着いた桜は顔を上げて椿の姿を認めると、手を振りながら駆け寄ってきた。
「椿、もう部活の時間?」
「……どこ行ってたの」
 質問を質問で返した椿の声は、言った本人も内心で驚くほどの冷たい声だった。
「どこって……あの、ちょっとね」
 桜は言いにくそうにえへへと苦笑いを浮かべた。
 だが椿はそれを不誠実と受け取り、桜をにらみつけた。
「二年のお姉ちゃんがそんなだと、うちはもっと弱くなる。やる気がないなら帰ってよ」
 それだけ言い捨てて、椿は桜から視線を離し、桜のことをまるで石ころだとでも思うように気にもかけず、体育館へ走った。
「あの、椿っ……」
 桜が自信なさげに呼びかけたが、椿は振り返らなかった。
 椿はそのまま体育館に入ると、すでに来ていたもう一人の一年生が始めていたコート設置を手伝った。しばらくすると残りの一年生、その後に桜を含めた二年生が入ってきたが、椿はなるべく桜と目を合わせないようにしていた。

「教頭ぉー! 女子部の監督、見つけてきましたよー!!」
 どかーん、という轟音とともに校長室のドアを蹴破って入ってきたのは石屋川・楓である。傍らには、サングラスの怪しい男、杭瀬・真人を連れている。
「石屋川監督……校長室のドアは高いんですから、入るたびに壊すのはやめなさいと何度言ったら……」
「そんなことより教頭、ほらこいつですよ頼まれていた女子部監督っ」
 ずずいっと背中を押されて前に突き出される真人。
 銀縁メガネと白髪たっぷりの頭をした教頭は、真人の上から下までをじっくりと見た。
「おぉ、きみがその、女子部の監督候補か。名前はなんというのかね。というか、人の前で話すときはサングラスぐらいはずしたまえ」
「あぁ、これは失礼した」
 真人は軽く一礼すると、右手でサングラスをはずし、軽く前髪を横に流すと、
「はじめまして、と言うべきかな。杭瀬・真人だ。こちらの楓とは古い知り合いでね、今回は半ば強引に監督を頼まれたのだが……」
「く、杭瀬!?」
 教頭が驚嘆の声を上げて立ち上がった。この反応を予想していたのか、楓は真人の背後でくっくっくと笑いをこらえていた。
「杭瀬・真人って……まさか、去年全日本にいた、あの杭瀬・真人か?」
「いかにもそうだが。あなたが教頭の幸島氏かね?」
「あ、あぁ。私が教頭の幸島・育郎(さちじま・いくろう)だ」
 幸島は軽く笑った。真人が何者かわかり、警戒心を解いたようだった。
「いやぁ、まさか杭瀬選手のような実績ある人が監督を引き受けてくれるとは思っていませんでしたよ」
 幸島は真人に近づき、握手を求めた。真人はそれに応えながら、
「私はすでに現役を退いている身だ。選手と呼ぶのはやめていただこう」
「ではこれからは、杭瀬監督とお呼び致しましょう」
「ふむ……」
 真人が腕を組み考え込む。
「どうされました?」
「いや、幸島氏の反応が私の予想外だったものでね。私はもっとこう、世間からは後ろ指を刺されるような存在だと思っていたのだが」
「何を言うんですか、とんでもない!」
 幸島は突然、大きな声を上げた。
「確かに杭瀬監督の引退当時のスポーツ新聞や週刊誌なんかではあなたをけなすような記事もありました。ですが私どもバレーボールに携わる者は決してそのようなこと思ってなどおりません。あのような記事に踊らされるのはバレーボールを知らないにわかバレーボールファンだけですよ」
 にわかバレーボールファン。略してにわかファンと呼ばれる、人気に乗じて群集心理によって騒ぎ立てる一部のファンのことである。
 真人が引退する直前、日本のバレーボール界はかなりの盛り上がりを見せ、にわかファンも急増したという。そのせいで、心無きファンに真人はかなりの誤解をされてしまったままなのだ。
「杭瀬監督は立派でしたよ。そりゃ私だって、できればバレーを続けてもらいたいと思っていましたが、あなたはもう十分に日本のために活躍しました。誰からも責められる謂れはありませんよ」
 幸島の言葉は真人の心に染み渡っていった。理解してくれる人間も、意外と多くいるものだと思った。そしてどこか安心ができた。
「ありがとう、幸島氏」
 真人は素直に礼を言っていた。
「ところで幸島氏」
「どうしました?」
「教頭であるあなたが、何故、校長室の椅子に座っているのかね?」
「ははは、実はですね、校長は現在出張中なのでときどきこうして休憩に使わせてもらっているのですよ」
 そう言う幸島の顔は引きつった笑いを浮かべていた。
 そこへ楓が横槍を入れてきた。
「机の下とかに、高級そうなお酒がありますもんねぇ」
 楓もまた、笑っていた。
 だから、真人もまた、笑うことにした。
「ほう。それはそれは。楽しみなことだね、幸島氏」
 はっはっはっは。校長室に三人の高笑いがこだました。



吠旗戦記めにゅーへ