第七章 相対す眼

「では杭瀬監督、何かご質問はおありでしょうか」
 校長室の応接用のソファにかけた真人と楓の正面に幸島が座る。手にしているのは瓶と三つのグラスだ。幸島はグラスを真人の前に置き、それから楓の前に置き、最後に自分の前に置いた。ゴトリ、とテーブルからもグラスからも高級感漂う音がした。
「訊きたいことと言われてもね。私は監督など初めてやるものだから、今ひとつ勝手がわからないのだがね。監督とは具体的に何をすればいいのかね?」
「そうですなぁ。まず言うまもないでしょうが選手の指導をしていただきます。練習メニューを組んだり、実際にアドバイスをしたりなどといったことですな」
 幸島は言いながら、瓶の栓を開けると、真人のグラスに向けてそれを傾ける。とくとく、とウイスキーが注がれる。
「ロックと水割り、どちらがいいですかな?」
「ストレートでいただこう」
「あたしロックー」
 幸島が立ち上がり氷を持ってくる。
 全員のグラスが整ったところで幸島が告げる。
「えーでは、めでたく女子部の監督も決まったところで、里見山高校バレー部の栄光を祈って……」
 乾杯!
 三人の声と、グラスがぶつかる音が重なった。
 真人はちびりと飲むと、いったんグラスを置いて話を戻した。
「ということは、練習以外にもしなければならないことがあるのだね」
「えぇ、もちろんです。簡単に言えば部に関するあらゆることを管理していただきます。練習場所の確保や、練習試合の申し込みや大会への参加手続き、それから予算の管理ですね」
「ふむ。予算はいくら出ているのかね?」
「五十万円ほどです」
「五十万円……随分と多いのではないかね?」
「部員の数は九人と少ないのですが、うちはスポーツには力を入れているんですよ。特に今は低迷しているバレー部ですが、昔は全国で準優勝したほどですから。そのときのOBからの寄付金などもありまして、バレー部には専用の体育館もあるのですよ」
「ほぅ、それはいい設備が整っているね」
「ええ、ですがご存知のとおりここ最近のバレー部の成績は芳しくありません。春の大会では男子部は地区予選二回戦敗退、女子部に至っては過去一年と三ヶ月の間、公式戦練習試合含めて一度も勝った事がないという有り様です」
 その話を聞いて、真人は表情を険しくした。
 つまり、三年生を除いて全員が勝利の経験がないということである。勝ちの味を知らないというのはスポーツ選手として大きすぎる問題だ。中学からのバレー経験者が多ければいいのだが、と真人は思った。
 幸島は考え込む真人の表情を伺いながら話を続けた。
「それでですね、校内ではバレー部専用体育館を野球部の室内練習場にしてはどうかという動きが起こっておりまして。申し上げにくいのですがうちの校長はバレー部よりも野球部を支持しているのです。野球部は去年から戦力補強に力を入れ始め、徐々にではありますが結果も出てきています。バレー部も今年中になんらかの結果を出さないことには、来年以降の専用体育館維持は難しいかもしれないというのが現状です」
「……なるほど。今年中に結果を出せというわけだね」
「率直に言いますとそういうことです」
「ふむ……」
 今年中に結果を出さなければ専用体育館は取り上げられてしまう。そして前任の監督はセクハラで辞職。嫌な事が重なって部内の状態は最悪というわけだ。真人が思っていたよりも、事態は深刻なようだった。
「では、選手について聞かせていただこうか」
「それについては」
 と言って幸島はいったん席を立って机の上に置いてあった自分のカバンからあるものを取り出した。
「これは?」
「九人の部員の顔写真とプロフィールをまとめてあります。後ほど御覧になってください」
 手渡されたのはバインダー型のファイルだった。
 まだ九枚しか閉じてはおらず、なんだかさびしい気がしたので、今後バレー部関係の書類などをファイルすることにしようと思った。
「杭瀬監督」
 見ると、幸島がこちらを真っ直ぐに見ていた。
「結果云々の話はさておき、あなたというバレー界の重要な財産が、再びバレー界に舞い戻ってきてくれたこと、私は素直に嬉しく思っています」
「私はそんな大層な人間ではないよ。幸島氏こそ、何故そんなにバレー部に肩入れしているのかね?」
「実はかく言う私がここのバレー部のOBでして。予算会議のときなどはひいきさせてもらってるんですよ」
「ほぅ、次の予算会議はいつかね」
「年末に一次会議があり、一月の二次会議で本決定となります」
「ふむ。ではそのときまでに案件を考えておこう。よろしくお願いさせてもらうよ、幸島氏」
「はっはっは。流石は、わかっておりますなぁ」
 意気合い合いと酒を交わす二人を横目に見ながら、楓はテーブルにうなだれていた。
(そういやこいつの得意技よねぇ、いつのまにか誰とでも仲良くなってやがんのって)
 楓がぼんやりとそんなことを考えていると、いつの間にか二人は立ち上がっていた。
「あれぇ、どっか行くのぉ?」
「何を言っているんですか石屋川監督。杭瀬監督を体育館までご案内してあげてください」
「ああぁ? なんであたしがんなことうぇをおおお?」
 楓はすでにぐでんぐでんだ。その様子を見て真人は軽く息を吐いて笑った。
「そういえばきみは、酒が苦手だったね。その様子だと、あれから少しはマシになったようだが」
「おや。石屋川監督は、今よりもっとひどかったんですか?」
「えぇまったく酷いものだったね。特に全日本強化合宿の打ち上げではたかだか日本酒一杯でぼぁがあっ」
 言葉の途中で鳩尾に楓の蹴りを浴びた真人はあえなくグロッキー状態。その頭を踏みつけると、今度は幸島の白髪たっぷりの頭を鷲掴みにした。その表情は鬼よりも怖い笑顔だった。
「おぃ幸島のジジイ。余計なこと訊いてっとこのドタマかちわんぞボケ。あぁ?」
「か、かしこまりました……」
 すっかりおびえてしまった幸島の頭をペシペシと叩いて大笑いする楓。
 真人は楓の足の下で、安心したように苦笑した。
「飲むと凶暴になるところは変わっていないようでなによりだよ」

 真人は楓を抱いて保健室へ向かった。幸島が体育館への案内を申し出たが、場所はさっき確認したと言って断った。とりあえず校内を一人で歩き回ってみたかったのだ。
 幸島の話によると、保健室は南校舎の一階、職員室のすぐ隣だということだ。扉の前には「保健室」と書かれた札が掲げられており、目的地はわりと簡単に見つける事ができた。
 真人が扉を開けて中に入ると、机で何やら作業をしていた白衣の男がこちらを振り返った。
「こんにちは! おや、石屋川さん……と、あなたはお知り合いですか? 彼女、どうかしたんですか?」
 白衣の男は細身の青年という印象だった。髪は短く切り揃えられ、白衣にも汚れはない。おそらくここの校医なのだろう。
 立ってみるとかなり背が高いことがわかる。真人よりも目線が上をいっていた。整った顔立ちをしており、女生徒から見ればおそらく人気があるのだろうと真人に思わせる。
 その校医は、こちらを見てやれやれといった笑顔を浮かべていた。どうやら楓とは親しい間柄のようで、こちらの雰囲気からたいした事態ではないらしいと察したのだろう。
 この男、すこぶる切れるな。
 真人の直感が、そう告げていた。
「また校長室で酒盛りですか? 懲りないですねこの人も」
 はきはきとした声で、しかも爽やかな笑顔だ。この様子だと普段から人当たりも良いのだろう。なにしろ、初対面の、しかもお世辞にも愛想が良いとは言えない仏頂面のサングラスをかけた真人に対し、これほどまでに親しげに話してくるのだから。
 と真人が考えていると、校医は膝を折り曲げて真人の顔を覗き込んできた。
「えっと。改めまして、どなたでしょうか?」
「申し遅れてすまない。私は今回、この学校の女子バレー部の監督になった、」
 言いながら、真人は思った。そういえば任期の話を聞いていなかったと。自分はいつからいつまで監督なのか。その辺のことについてはまた改めて幸島に訊いておく必要がある。まぁ、とりあえず今は、
「杭瀬真人だ。背中の飲んだくれとは全日本時代のチームメイトの間柄だ。よろしく頼むよ」
 と言い、握手を求めようとしたが、今は楓の脚を抱えていて両手がふさがっていることに気が付いた。
 校医もそれに気付いたのか、くすっと笑みを零し、ベッドを指し示した。
「とりあえず石屋川さんを寝かせてあげましょう。それから、こちらこそ申し遅れましたが、僕はここの校医を務めている鳴尾銀河(なるお・ぎんが)と申します。石屋川さんとは、まぁ、同僚に近い関係ってところですね。」
 鳴尾がそう言うのを聞いて、真人は思った。『同僚に近い』とはまた、楓らしい評され方だと。どうせいつものようにだれかれ構わず馴れ馴れしく、時には図々しく接しているのだろう。
 楓の普段の学校での生活が目に浮かぶようだった。

 鳴尾銀河は淹れたてのお茶を真人に勧めた。真人はお茶と聞くや否や、ものすごい真剣な目つきになって首を縦に振った。この人はお茶好きなんだろうか、などと思う。
 目の前の自分よりも小柄な男は杭瀬真人。楓が前々から言っていた新しい監督候補とはどうやらこの人のことらしい。
 なんだかな、と鳴尾は思う。
 もちろん、元全日本の真人の能力に問題はないと思う。だが鳴尾には、どうにも府に落ちないところがあった。
 まぁ、石屋川さんがうっかりさんだったということにしておこうか。
 そう思って納得することにした。そう考えると、今浮かんだ疑念はとりあえず窓の外へ捨てておいた。
 真人は、お茶を一口飲んで表情を曇らせていた。
「お茶、あまりおいしくありませんでしたか?」
 笑顔で問う鳴尾。
「……ふむ……少し苦味過剰な面があるが、風味の点では及第点だろう。だがこの色合いはいただけないな。総合評価を下すとなると中の上といったところか。やはりあの小学校の職員室のお茶の右に出る葉はないな。早急に侵入経路を立案せねば……」
「あ、あのぅ……」
 真人が何やらぶつぶつと湯呑みに向かって呟いているが、鳴尾にはよく聞き取れなかった。
 鳴尾が困ったように苦笑いを浮かべているのに気付くと、真人は申し訳なさそうに取り繕った。
「あぁいや、私とした事がとんだ失態を見せてしまったようだ。今の五秒間の出来事は忘れてしまったほうが両者間において賢明なことだと思うね?」
 なんで疑問形なんだろう。そう思うと、鳴尾の口元から自然に笑みがこぼれた。
「杭瀬さんって、面白い人ですね」
 安堵と、警戒を含めて。
「そうかね。あまり人からそういったことは言われた事がないので新鮮な気分だ。鳴尾氏は人を愉快にさせる人なのだね」
「僕もそういうことは言われたことないですねぇ」
 あははと笑う鳴尾。この人となら、上手く折り合いを付けて付き合っていけるかもしれない。そう、思いながら。



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