第八章 抜ける呼び声

 今日も体育館にはシューズとボールの音、そして若い活気溢れる声が響いている。
 肩にも触れないほどのショートにカットした髪を汗で輝かせ揺らしながら、石屋川椿は親友の大石千恵莉(おおいし・ちえり)と練習に励んでいた。ネットの向こうから椿が高く上げたトスを千恵莉がスパイクで打ち返し、それを椿がレシーブするという二人一組の練習。この練習を始めてすでに十五分が経過している。そろそろ次のメニューに移ろうかと考えてはじめた椿は、ちらりとコート外で集まっている女生徒たちに視線を向けた。
 椿と同じ二年生のバレー部員、淀川深江(よどがわ・ふかえ)と尼崎・センタープール・舞乃(あまがさき・せんたーぷーる・まえの)だ。練習が始まってから一時間ほど経つが、この二人は遅れて来た上に、十分ほど練習しては十分ほど休憩したりお喋りしたりしている。
 椿は、練習の合間を縫って、二人を、というかこっちから顔が見える深江を、じろりとねめつけた。だがそれも五秒くらいのことですぐに練習を再開する。
 深江に気付いた素振りはない。
 いや、あいつは絶対に気付いてる。こっちの視線に気付いた上で、あえて無視しているのだ。あいつはそういう奴だ。だいたいあいつはいつもいつも練習中にくっちゃべって、やる気ないんだったら出てってよ。今日だって、あんたが遅れたから……。
 椿の思考はそこで中断された。体育館の床に叩きつけられたボールの音によって。
 ほどなくして椿の身体が体育館に打ち付けられる。
「椿ちゃんっ……!」
 千恵莉がネットの下をくぐって駆け寄ってきた。手を引いて起こしてくれると、心配そうに顔を覗き込んできた。。
「大丈夫?」
「うん、ごめん。ちょっとミスっただけだから」
 椿は言葉少なに無事を告げ、練習の再開を促した。
 言葉少なにとは言ったが、決して冷たい態度をとったわけではない。それほど多くを話さずとも、自分と千恵莉はお互いに分かり合っているのだ、という確固たる自信が椿にはあった。だからこそ、無事とだけ言えば、知恵莉は安心して練習に戻ってくれたのだ、と。
 それにしても、と椿は思う。
 浮かんでくるのは深江の顔だ。あんな奴のことを考えていて集中力を欠くなんて、自分で自分が情けなくなってくる。あぁ、駄目だダメだダメダメだ。今日の私には最初っから集中力なんてものはなかった。何を余計なことを考えているんだろう。
 ふと思い浮かぶのは二人の姉の姿。そして、今ここにはいないほうの姉と一緒にいたあの男。
 椿はぶんぶんと頭を振った。いけない。これこそが余計な考えなんだ。
 両手で耳に張り付いた髪をかきあげる。
 椿の髪は、フロントとバックはかなり短いのだが、トップとサイド、特にサイドは耳が完全に隠れてしまうほど長い。
 もともと顔がよく似ている姉との区別がつきやすいようにしようと思い、長い髪の姉とは対称的に短い髪を貫き通していたのだが、成長するにつれ、やがて椿は自分の身体に複雑な思いを抱くようになった。それが自分の大きな耳に対するコンプレックスである。
 コンプレックスとは半分くらいが本人の思い込みのようなもので、周囲の人物はそれほどでもないと言っているのだが、椿本人からしたらそれはもう人様には見せられないくらい恥ずかしい大きさなのだという。
 そういった理由から、椿はサイドの髪だけは、中学一年のころから伸ばし続け、今年の春以降、今の長さを保ち続けている。
 前と横がちぐはぐな髪型なので、頻繁に美容室に行かないといけないし、日々の手入れも大変だ。だが、コンプレックスというのは、十五の乙女にとっては重大な問題なのだ。月二回の美容室の代金くらいなら、安いものだとも思える。
 あぁでも今月ちょっとピンチなんだよね、昨日も帰りに千恵莉とクレープ食べちゃったし。だいたいほとんどお小遣いくれないお姉ちゃんが悪いのよそのせいで私は学校に隠れてバイトなんてやってさ高校生だからって足元見られて時給はフリーターよりも安いしそりゃ高校生だから夕方から夜の早い時間までしか働けないけどでもでも私は三日目にはもう仕事は全部覚えてたし私よりも一週間早く入ったフリーターの人よりももう何倍も動けるしそれなのに時給は変わらないままだしああもうイライラするなぁつうかお姉ちゃんは今日の授業まるまるサボって一体どこで何をやってたっていうのよあぁもう深江のバカはいつまでも尼崎とくっちゃべってるしいいかげんに真面目に練習しろって何度言ったらわか……あ。
 ボールが床を叩く音。
 またやってしまった。比較的簡単な場所を狙ってもらったスパイクに反応が遅れてレシーブが間に合わなかった。
 起き上がるときに深江と目が合った。
 なんだかなぁ。こんなに集中力が切れてるんじゃ、深江のこと言えないよね。
「椿ちゃん、本当に大丈夫?」
 ネットに向き直ると、千恵莉がまた駆け寄ってきていた。
「ごめん、何度も同じこと」
 椿が素直に謝ると、千恵莉はあわてて両手を自分の胸の前で左右に振った。
「つ、椿ちゃんが悪いんじゃないよっ。あたしが、ちゃんと決まった場所に打たなかったから」
 そんなことを言う。椿にはわかっている。千恵莉のスパイクはほぼすべてが予定通りの場所に放たれていることを。コントロールにおいては、三年生も含めて里見山で右に出る者はいない。だけどまぁ、その他の部分がてんでダメなんだけど。
 椿は思う。また気を遣わせているなぁ、と。
「千恵莉は悪くない。私の反応が遅れただけ」
 椿はそう言って、薄く笑って見せた。こうすれば、いつも千恵莉は変に気を遣ってしまったとわかって引き下がってくれる。すぐに、頭を上げて、そしてえへへ、と見てるこっちまでほんわかとするような微笑を浮かべて……そう思った矢先だった。
「ちょっと、あなたたち! 真面目に練習なさったらどう?」
 椿の背後から高い、はっきりとした声が響いた。
 やばっ。この声は岩屋麻衣子(いわや・まいこ)先輩!
 椿は瞬時に背筋を緊張させた。
 練習に集中できてなかったのが目立ったのかな、怒られるのかな……怒られるのって慣れてないから、なんだか苦手だな。それに岩屋先輩、なんか怖いし。
 椿はおそるおそる後ろを向いた。しかし。
 あれ?
 麻衣子の姿は、椿が思っていたよりもずっと遠く、コートの外、深江と舞乃のすぐ近くにあった。
 あんな遠くからあんなにはっきり聞こえるなんて……すぐ近くにいた深江と尼崎の耳、大丈夫かな。ってそんなこと考えてる場合じゃないって。一体何があったんだろう。
 千恵莉も状況がわからずに、じっと三人を見つめている。
 っていうか、四秒で状況はわかった。つまり練習をサボって話し込んでいた二人に、先輩が注意したのだ。よくよく考えてみれば、練習していない奴を差し置いて、練習してる私を注意なんてするはずがない。いらない心配して損しちゃった。やっぱり怒られるのは怖いな。
 椿がそんなことを考えている間にも、事態は進んでいた。

「ちょっと、あなたたち! 真面目に練習なさったらどう?」
 目の前で、麻衣子が、練習をサボっていた後輩二人に注意をしている。というか、喝を入れている。
 私は、
「ちょっ、麻衣子ぉ、声おっきぃ……」
 耳を塞いでいた。
 石屋川桜は、ものすごい剣幕で後輩に向かっていく岩屋麻衣子を止めようと思って駆け寄ったが、間に合わなかった。
 麻衣子を止めようと思ったのは、別に後輩がかわいそうだからというわけではなく、単に麻衣子の声がでかいからである。
 案の定、体育館中の視線がこちらに向かって集まっていた。もちろん、隣のコートで練習中の男子部員たちも例外ではない。
 恥ずかしいな、と桜は思う。
 だが麻衣子は、男子たちの視線にも臆することなく、後輩に厳しい視線と言葉を向けた。
「淀川さんに、尼崎さん。あなたたちここのところ毎日そんな感じですけど、やる気が起きないのでしたら帰っていただけません? 練習している横で雑談などされると非常に迷惑ですわ」
 麻衣子の言葉にむかっときた深江は舞乃を庇うようにして前に出た。
「迷惑ってなんだよ、休憩してるだけじゃないか!」
 深江が麻衣子を見上げるようにして言う。深江の後ろにいる舞乃もおそるおそるといった感じで麻衣子を見上げている。
 麻衣子は背が高い。百八十と少しで、バレー部で一番高い桜とほとんど変わらない。対する深江と舞乃は両者とも麻衣子よりも十センチ以上低く、向かい合うとどうしても二人が見上げる図になってしまう。  まぁ、それでも平均的な女子、特に椿からすればあの二人でも十分に高いんだろうけど。桜はそんなことを考えながら、深江の背中に隠れる舞乃を見ていた。鎖骨ほどまで伸びた柔らかそうな髪に、真っ白い肌。私服を着て歩いていたら、とてもスポーツをしている女の子には見えないだろう。
 正直言って桜は二年生のことをあまりよく知らない。知っているのは妹の椿とその親友の千恵莉ぐらいで、残りの四人は名前と顔を知っている程度だった。部員同士のプライベートでの交流があまりないので仕方のないことなのかもしれない。
 しかし同じ部活に入っていれば会話ぐらいは交わしたことがあってもおかしくはない、むしろそれぐらいないほうがおかしいというのが一般的な認識だろう。
 だが今、桜は舞乃を見て、頭に疑問符を浮かべていた。
 あれ?
 桜は自分の記憶を洗ってみた。
 舞乃の声を、一度でもこの耳に聞いた事があっただろうか。
 あったかもしれないが、どんな声か、どうしても思い出せなかった。それほど、舞乃という少女は無口だった。
 よく考えてみれば、深江と舞乃が喋っている姿は何度も見るが、そのときに一方的に話をしているのはいつも深江のほうだった。舞乃のほうから口を開いている姿など、桜は見た事がない。今も、麻衣子と言い合っているのは深江一人で、舞乃は深江の後ろでおろおろしているだけだった。この二人がいつも一緒にいる理由を、桜は知らない。
「休憩はちゃんと決まった時間にとってください。規律を乱すような真似をされては困りますわ」
「練習メニューなんてあってないようなもんじゃないか、いつ休憩しようが勝手だろ!」
 麻衣子と深江はなおも言い合っている。
 桜は、はぁ、と息を吐いた。
 淀川さんはよくあんなに反発できるなぁ、と思って。
 髪は腰まで伸びていて少しだけウェーブがかかっている。麻衣子の性格を一言で言い表すなら、「高圧的」だ。これに関しては多くの三年生女子から賛同が得られることだろう。加えて家柄が良いところのいわゆるお嬢様なので、規律とか規範とかそういったことについてこだわるところがある。
 対して深江は椿よりも少し長いくらいのショートの髪。手入れしやすいようにサイドもちゃんと切っている。桜の深江に対するイメージは、「不良」という色合いが強い。練習をサボったり、先輩に反発したりと、悪い面ばかりが目立っているからだ。
 だけど、と桜は思う。
 自分のやりたいように生きることができる深江はすごいと桜は思っている。
 それに引き換え、自分は何がしたいのか、何をすべきなのかすらはっきりとわかっていない。
 桜は、もう一度、深く息を吐いた。
 見ると、二人はまだ言い合っている。そろそろ止めないと練習時間もなくなっちゃうよ、と思っていると、口論に近づく影があった。
「はいはい、そこまで!」
 その人影は、言い合う二人の間に割って入り、両手を広げて二人を引き離した。掌には、二人の胸をつかんで。
「なぁっ!」
「わっ!」
 絶句する麻衣子と深江。だが麻衣子は早くも立ち直って激昂した。
「セ、セクハラですわよ、朝花!」
「私、女だけど?」
「なんて理屈ですのっ」
 怒る麻衣子を尻目に、朝花と呼ばれた女は両手の指をわきわきと動かすとえへへーとだらしなく笑った。
「麻衣子は相変わらず張りのいい胸してんねぇ。深江ちゃんはちっちゃいなー。ま、そういうののほうが好きっていう人もいるから一概に大きいほうが良いとは言えないんだけどね」
 朝花の発言に麻衣子はまた怒り出す。深江は顔を真っ赤にしてばつが悪そうにしている。
 あぁ、朝花が出てきちゃったか。桜は心の中で頭を抱えた。なんか、視界の隅っこで椿の目がキラリと輝いたような気がするけど放っておこう。
 西灘朝花(にしなだ・あさか)。桜や麻衣子と同じ三年生で、女子バレー部のキャプテンである。
 前髪をヘアバンドでまとめたシンプルな髪型。長さは短めで、肩にかかる程度。フランクな性格で、なんというか、やばいくらい誰とでも親しく接するので、姉の楓と似ていると桜はいつも思っている。
「恥ずかしいことを堂々と言わないでいただけるかしら!」
 麻衣子が両手で胸を隠して叫ぶと、朝花は突然、真剣な顔つきになった。
「恥ずかしいのはあんたでしょ、麻衣子」
「え?」
「後輩を注意するのはいいけど、そのまま口喧嘩に持ち込んでどうすんの。他の二年もあきれてるじゃないか。そうやってどんどん練習時間縮めるつもり?」
「うっ……」
 麻衣子は痛いところを突かれたように、押し黙った。
「さ、わかったら練習に戻った戻った」
 朝花が両手をパンパンと叩く。何故か嬉しそうに。麻衣子は「わかりましたわ」とだけ言って、桜のところに戻ってきた。
 朝花はそれを見送って、深江と舞乃のほうを向いた。
「さて、それじゃ事情を説明してもらおうか」
 顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。
「練習をサボっていた理由だよ。場合によっては言い訳でもいい。深江ちゃん、舞乃ちゃん。何か理由があって勝手に休憩をとってたんじゃない?」
 朝花の言葉を聞いて、舞乃が深江をちらりと見た。深江はそれに気付き、あえて無視して言った。
「西灘先輩には、関係ない」
 朝花は、む、と唸った。
「あのね、深江ちゃん。何度も言ったけど、先輩に対しては敬語を使いなさいってば。西灘先輩には関係ないです、って言うの。プライベートでは別に構わないけど、今は部活中で、しかも私はキャプテンなのよ?」
 朝花が仁王立ちでそう言った直後、体育館の扉がゴゴゴゴゴ、とたいそうな音を立ててゆっくりと開いていった。錆びて立て付けが悪くなっているだけだが。
「残念だが、たった今からきみはキャプテンではなくなる」
 男の声が、扉の向こうから聞こえた。
 桜も、麻衣子も、朝花も、椿も、千恵莉も、深江も、舞乃も、残りの二人の二年生も、もちろん男子部員も、何事かと思い入り口を見る。
「いや、」
 男の声はこう続けた。
「今から女子部は一時的にキャプテン不在になる、と言ったほうが正確だったかね?」
 ゴトン。
「あっ」
 桜は目をみはった。あれは、あの人は。
 開け放たれた扉の向こうに立っていたのは、サングラスをかけた三十近くの胡散臭いおっさんだった。



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