第九章 突き刺す視線

 体育館内は騒然としていた。男子も女子も練習を一時中断し、皆一様に入り口のほうを向いている。
 その中でただ一人、「あっ」と声をあげる者がいた。
「あのっ、真人さん!?」
 その声に、体育館中の視線が向けられる。もちろん、入り口に立っている男も。
 お姉ちゃんが? なんで?
 椿は桜に目を向けた。入り口に立っている男は、部活の前に校門で見た男だ。だが、そのとき一緒にいたのは桜ではなく楓だったはずだ。
 真人と呼ばれた男は声の主の姿を確認した。一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐに合点がいったように言った。
「おや、きみはさっきの……桜くん、だったかね」
「は、はいっ、あのっ……」
 桜が真人に駆け寄ろうとすると、朝花がそれを制して真人に近づいた。そして、真人を睨むようにして言った。
「誰ですか、あなたは。練習中はバレー部関係者以外、立ち入り禁止なんですけど」
 言葉は刺々しかった。いきなり知らない男に入ってこられておまえはもうキャプテンじゃないとか言われたんだから、怒るのももっともだとは思うが。
 でも本当に誰なんだろう、あの人。お姉ちゃんは真人さんって言ってたけど。
 ……真人? もしかして、ひょっとして。
「練習中だったとは、失礼なことをした。謝罪しよう」
 真人は軽く会釈程度に頭を下げ、
「だが、私は今日からバレー部の関係者となる者だ」
 そう言って、右手をサングラスにかけ、
「自己紹介が遅れたようだね。今日から女子部の監督させてもらう」
 そして、彼はサングラスをはずして微笑した。
「杭瀬真人だ。よろしく頼む」
 ……。
 場が十秒間ぐらい硬直した。その間に真人はサングラスをかけなおした。
「ええええぇ!?」
 沈黙を破ったのは麻衣子の叫び声だった。
 近くにいた桜が驚いて耳を押さえる。
「あら、私としたことがとんだ真似を。桜さん、大丈夫ですわよね」
 何故か強制力のある言葉で桜をいたわり、麻衣子は再び真人を見た。
「あ、あなた……ブラジルからは『ひろいまくりめくりまくりクイーセ』、アメリカからは『木偶の坊』、中国からは『地獄のハードパンチャー』と呼ばれた、あの杭瀬真人ですの?」
「むぅ。私は一部からは随分と不名誉な名で呼ばれているのだね」
「そ、そうですわ! その杭瀬真人が、なぜここにいるんですの!? それも監督だなんて」
「言葉の通りなのだがね。突然のことで混乱するのはわかる。どうだね、私も監督としてきみたちの事が知りたい。しばし休憩をとってお互いに自己紹介でもしまいか」
「えっ……」
 真人の提案に麻衣子が計りかねていると、横から朝花が承諾した。
「……わかりました。おーい、みんな集まってー。新監督来たから!」
 朝花の呼び声に、女子部が練習を中断して入り口に集まる。
 真人は呼吸と区別がつきにくいほどのわずかな笑みをこぼした。
「ときに、」
 真人が朝花に声をかけた。朝花は振り向かずに答える。
「なんですか?」
「前監督がいなくなってから、どれくらい経つのかね?」
「……一ヶ月弱です」
「ふむ。一ヶ月弱もの間、監督のいないチームをきみは引っ張ってきたわけだ。指示に対する部員の反応を見ればきみの人望がわかるというものだ。ここはしっかりとした人間関係が構成された部なのだね」
「……違うよ」
 そう呟いた朝花の拳には力がこもっていた。朝花は振り向くと、真っ直ぐ真人を見据えて言った。
「それは違います。私だけを見てこの部を判断するのはやめてください。これはキャプテンとしての、新監督へのアドバイスです」
 その目にも力はこもっていた。
 真人はそれを見て、またも笑みをこぼした。まるで楽しむかのように。
「的確なことだ。ありがたくいただいておこう」

「では改めるが、監督を務める杭瀬だ」
 男子の練習する音だけが響きあう体育館の中、真人が女子部員総勢九名に向けて言い放った。
「何か質問のある者はいるかい?」
「は、はい!」
 長いウェーブがかった髪をした女子部員が挙手をする。体操着の色は赤。見渡してみると、赤い体操着が三つ、青い体操着が六つ。まずは学年を知る必要がある。真人はそう思った。
「名前と、それから学年を教えてもらえるかい?」
「三年の岩屋ですわ。下は麻衣子。どちらで呼んでいただいても結構ですわ。ところで先生、体操着を気にしておられたようですが、」
「む」
 サングラスの奥を勘ぐられたのだろうか、麻衣子は真人の視線に気付いていた。
 真人は心中焦った。自分は体操着の色を気にかけていただけなのだが、それを指摘されて初めて、体操着そのものに興味を示していると誤解されてはいまいかと心配したのだ。
 だが、麻衣子は真人の心配をよそに、
「うちは学年ごとに色が決まっていまして。赤がわたくしたち三年生、青が二年生の色ですわ。一年生は黒なのですが、うちの部に一年生はいないんです」
 どうやら麻衣子は変に誤解してはいないようだった。表情を見る限り、他の部員も同様のようだ。真人は内心でほっと息をついた。動揺を表情に出していなかったのが幸いしたのだろうか。
「ふむ。わかりやすい説明をありがとう。で、質問の前に私から一つ言わせていただきたいのだが、」
 麻衣子がごくりと息を飲む。部員たちにとって、自らを監督と名乗った真人の言葉には、何かしらの重みがあった。
「私はこの学校の職員でもなければ教員でもない。ただの監督だ。だから、先生と呼ぶのは辞めていただこう」
 真人がそう言い切ると、麻衣子は瞳を輝かせてうなづいた。
「わかりましたわ。非礼、申し訳ありませんでした、これからは監督と呼ばせていただきますわ」
「いや、何も謝らなくてもいいだろう。頭を上げてくれたまえ」
 それでもなかなか詫びる姿勢を崩さない麻衣子。
 なにか調子が狂うな。
 真人がそう思ったところに、桜が近づいて耳打ちした。
「麻衣子、杭瀬さんの大ファンなんですよ」
 そういうことか。真人は思う。だから自分に対してこうも好意的なのかと。
「ふむ。まぁとにかく謝るのをやめたまえ。それで、質問とはなにかね?」
「えぇ、そうでしたわ」
 ようやく頭を上げて麻衣子が言う。
「監督。どうしてあなたのような方が、わたくしたちのような……言い方は悪いですが、弱小チームの監督をなさってくださるんです?」
「どうして、か」
 真人は腕を組んだ。首を少し傾け、自分が監督になった理由を考えてみた。
「ふむ……むぅ」
「あの……監督?」
 考え込んでしまった真人を、麻衣子が心配そうに覗き込む。つやのあるウェーブの髪が唇にかかり、妙に艶やかに見える。
「どうしてと言われてもね。それは私が訊きたいくらいだ」
「え?」
 部員たちがどよめきだす。といっても九名しかいないので、あまり騒ぎは大きくなかったが。
「男子部の監督を知っているかね?」
「楓さん? 桜さんたちのお姉さまですか?」
 真人と、そして桜が頷く。
「彼女と私は……そうだな、ある程度親しい間柄でね。今回は半ば無理やりに連れてこられたというわけだ」
「連れてこられた……?」
 声を漏らしたのはさきほどキャプテンを名乗った部員だった。彼女はいったん真人をにらみつけると、やりにくそうな顔をして短い後ろ髪を触りながら言った。
「無理やりってことは、あんた、私たちのこと全然知らないんじゃないか」
 キャプテンが好戦的な目で真人をにらむ。この態度は先ほどからもあったものだが、今では真人を蔑むような視線が混ざっている。何がこの子の気に障ったんだろうか、と真人は思った。
「きみは、三年生だね。名前はなんというのかね?」
「西灘朝花、ここのキャプテンだ」
 朝花は胸を張って答えた。
 真人は思う。いい態度だと。
「ふむ。きみの言う通り、私はまだこの部はおろか、この学校についてもほとんど何も知らない状態だ。そんな監督に不服があるのはわかる。だが、監督を任されたからには、全力を尽くすだとか、精一杯の努力をするだとか、そんな精神論は抱負に掲げはしない」
 一同が静まり返る。誰もが予想した、監督就任時の挨拶で言われる、お決まりの精神論。がんばりますだの、一生懸命やりますだのというお決まりでありながらもやはり言っておかなければ始まらないそんな言葉を、真人は真っ向から否定した。
「結果だ。私はこの部について何も知らない。だが、これだけは知っている。現在のこの部には、結果が皆無であると。ここにいる部員のうち、少なくとも六人以上は高校に入ってから一度も試合で勝った経験がないということを」
 部員の何人かが下を向いた。拳を握る者もいれば、唇を噛み締める者もいた。
「プロ野球やJリーグなど、プロのスポーツにおける補強の基本は読んで字の如く、足りないものを補い、強くすることだ。その理念は高校バレーにおいてもなんら変わりはない。今、この部に足りないものは結果だ。だから私が来た。結果を出す。私はそのために来たのだ」
 一同に向けてひとしきり言い終えると、真人は朝花のほうを向いた。
「ひとまずは、これで納得してもらえただろうか」
「あ、あぁ……はぃ」
 朝花だけではない。他の部員も、皆、言葉を失っていた。真人が、頭の中にある監督像とあまりにも違うからだ。
 真人は、ふむ、と呟くと、鞄からファイルを取り出して開いた。
「とりあえずは自己紹介といこうか。私としても、これから指導することになるきみたちのことはよく知っておきたいのでね。一人ずつ学年と名前と……そうだな、身長と、あぁ、これは任意で構わないが、スリーサイズ、それから出身中学と座右の銘。あとは趣味なり好きな男の名前なり、適当に語ってくれ。ではまずはきみからいこうか」
「わ、私ですかっ?」
 真人が指し示したのは桜だった。部員の視線が集まる中、桜はあたふたと慌てふためいた。
「な、なんで私からなんですかっ、杭瀬さん、もう私のこと知ってるじゃないですか……」
 最後の方は声が小さくなって聞き取りにくかった。
 桜の言葉に、麻衣子が咄嗟に割り込む。
「桜さん、あなた監督のお知り合いだったんですの?」
「え、あのっ……うん。といっても、今日会ったばっかりで、まさか監督だったなんてっ……」
「ふむ。きみが驚くのも無理はない。私とて、監督をやるという話を聞いたのが今日なのだからな」
「ええぇっ!?」
 桜が驚くほど大きい声で驚いた。
 朝花のこちらをみる視線がきつくなったことを感じ、真人は冗談を言うのをやめる。
「だから、今日知り合ったばかりのきみのことを、私はまだ名前ぐらいしか知らない。体操着の色から三年生だということはわかるがね。さぁ、それ以外のきみに関することを、紹介してくれたまえ」
 そう言われると、桜は少しの間恥ずかしそうにしていたが、やがて口を開いた。
「あの、えっと、石屋川桜です、三年の。……あの、あと、なんでしたっけ?」
「身長だね」
「……ひゃ、百八十四、です」
「……ふむ」
 身長を訊かれたときの桜の表情は沈んでいた。どうやら背の高さに対するコンプレックスを持っているらしい。この話題にはあまり触れないほうが良い、と真人は思った。
「では、出身中学を」
「……東海林(しょうじ)第三中学校です」
 桜の表情はまだ沈んでいた。
「では、座右の銘を」
「……ローマは一日にして成らず、です」
「では、スリーサイズを」
「……83・57・81で……って、ええええ!?」
 桜が急に顔を真っ赤にして悲鳴を上げた。
「あ、あのっ……私、今っ……」
「セクハラになるよっ」
 声を荒げたのは、朝花だった。相変わらず真人をきつくにらんでいる。
「失礼、冗談が過ぎたようだ。さて、桜くん、他に語りたいことはあるかい?」
「え、えっと……」
 桜はまだ赤い頬をぺちぺちと叩いて、真人に向き直った。
「あのっ、私、そんな強くないですけど、でも、頑張りますので、えっと、杭瀬さん……よろしくお願いしますっ」
 ぺこり、と頭を下げた。
「……」
 その姿を見て、真人は思い出した。過去に、ボクシングを始めたときも、バレーボールを始めたときも、こうして自己紹介をして、拍手で迎えられて良いスタートを切る事ができたことを。
「皆、拍手を」
 真人が両の手を叩き始めた。部員たちは躊躇っていたが、麻衣子が真人に続いて拍手をし始めると、他の部員も渋々それに続いた。
 真人を含め九人のぱらぱらとした拍手が、体育館内に小さく響き渡った。




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