運動部の連中の気配がなくなってから暫く経って、百地誠太郎と桐屋里未は掃除用具入れから出た。二人とも、服の乱れは直してある。
雨が屋根を叩く音は先程よりも弱まってはいるが、暫くは止みそうになかった。
これは止むまで雨宿りするしかないか、と誠太郎は思った。里未は何も言わずに校門のほうを眺めていた。
誠太郎はもう少し気まずい空気を感じるかと身構えていたのだが、そうでもないようで拍子抜けしてしまった。誠太郎から見える里未の横顔には、表情というものが映っておらず、つまりは無表情だということだが、しかしその表情からは何かしら意志を伴なった雰囲気が感じられた。少なくとも、怒っていたり悲しんでいたりする顔じゃないと、なんとなく誠太郎は思った。
雨は降り続ける。
自転車に乗った生徒と徒歩の生徒の一組が校門を出て行く。
「じゃっちゅめん」
「またなー」
お互いに別れの言葉を言い、それぞれの帰路へ分かれていく。
その姿をぼーっとした表情で、しかししっかりとした瞳で見つめる里未を見て、誠太郎は不思議な感覚に見舞われた。ここはまるで時が止まっているみたいだ、と。
はぁ、と息を吐く。もちろん、白い息なんて出ない。自分の口から出た生暖かい空気がまつ毛に触れて不愉快なだけだ。だけど、誠太郎はこんなくだらないことをしてでも、時が流れていることを確かめたかった。
時は、動いていた。
よかった。目の前の里未はちゃんと生きていて、動けるんだ。
そのことがわかると、誠太郎の中に急に現実感が湧いてきた。
自分は、取り返しのつかないことをしてしまいそうになった。いや、すでに取り返しがつかないのかもしれない。
よく思い出してみる。自分の意志じゃなかったと言いたい。すごく言い訳がしたい。目の前の女の子が悪いんだと。と、底まで考えて、誠太郎はあたまをぶんぶんと振った。里未がそれに気付いて振り返ったのにも気付かずにぶんぶんと振り続ける。頭の中に生まれた悪しき考えを振り払いたかった。自分勝手な理由で、目の前の想い人を悪い子にしたくない、その思いでいっぱいだった。
「どうしたの?」
その言葉で、やっと我にかえることができた。里未が心配そうに誠太郎のことを見下ろしていた。気付くと、誠太郎は膝に手をついてうなだれていた。背筋を伸ばし、里未と視点の高さをあわせる。
やはり、里未は動いていた。そこでひとまず安心する。動くということは生きているということ。それはただ、物理的に物体が空間座標上で移動するというだけではなく、そこに意識がにじみ出て物理的にも感覚的にも動いているということが本能で感知できるということだ。誠太郎がはじめて里未を見たときの、誰にも遮られることのない躍動感は未だ健在だった。
だが、先ほどからずっと感じている不思議な感覚――違和感、とでも言うべきか――はやはりまだ拭い去れない。汗で肌にぴったり張り付いたカッターシャツのような心地悪さはないが、何か引っかかるものがあるのは確かだ。
一体、この感覚の正体は何なのだろうか。結論は出ないが、この違和感の理由はなんとなくわかった。自慰行為を見られた里未が、誠太郎と掃除用具入れで性行為未遂に及んだ。何処からどう見てどんなに寛容な解釈をしようとも、以後本人同士の間に流れる空気は決して軽いものであるはずがない。ところが、目の前の自分を心配そうに見ている女の子はどうだろうか。誠太郎の主観ではあるが、敵意の欠片すらも感じられない。何か以前の里未と違ったところも感じられるものの、目立った怒りや悲しみの色も出ていない。では、里未は先ほどの行為を後悔していないというのだろうか。誠太郎のとった行動を許すというのだろうか。いや、そんなことは絶対にない。そもそもそんなことをする必要も理由もないはずだ。
考えるあまり、誠太郎の表情はどんどん険しくなっていった。
「百地くん、本当に大丈夫?」
「え? あ、あぁ」
声を出してみると、より現実感を伴なって現状が身に染みた。
「桐屋さん」
これ以上、このぎこちない空気を吸っているのは苦痛だった。
「なんで、怒らないのさ」
「え?」
「あんな……俺にあんなことされて、なんでそんな平然といられるんだ! むしろなんで俺のことを心配できたりするんだよ!」
誠太郎は歯を食いしばった。怒って欲しかった。自分は悪いことをしたんだから、それに相応しい報復を受けるべきだと思った。そうでないと、今後里未と対等の立場で入ることが出来ないと思ったから。
「……それは」
里未は言い淀んだ。もちろん里未にも、誠太郎の云わんとしていることはわかっていた。だが、里未はそれは自分が望んだことだと思っている。そのことで怒ったりする権利は自分にはないと思っていた。誠太郎との立場は今のままが対等だと、そう思っていた。
「わけわかんないよ、怒らないなら悲しむくらいするだろ普通!」
「……!」
普通、という言葉が里未の胸に存外に大きく響いた。もう自分の身は普通ではないのだから、そんな尺度で行動を求められても困ってしまう。
「普通じゃない。普通じゃないこと、したんだもの……」
やっと搾り出した言葉は。
(こんなこと、言いたいんじゃないのに)
里未自身の心を傷つけていた。
同時に、誠太郎にも大きな衝撃を与えていた。誠太郎は自分のことしか考えていなかった。里未の気持ちも考えずに、自分が裁かれることで楽になろうとばかり考えていたのだ。それを思い知って、そんな自分の情けなさや不甲斐なさに、頭にきた。もう、いてもたってもいられなくなった。
「……ごめん。俺、酷いこと言った」
一言、謝ると誠太郎は里未を残して駐輪場から走り去った。雨の中、カバンで頭を隠すこともせずに、ただうつむいて全力で走っていった。その姿を、里未は泣きそうな瞳で見届けた。
今すぐに走り出していきたいのは、里未のほうだった。
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